六、神童、マユラ

「俺は……どうしたいんだろうな……」

 作業場で朝から能面を彫り作業をしていた。今年は、「飛騨ひだ守姫かみき神楽かぐら」で使う能面を俺が彫ることが決まっている。本番まで残り数日、納得のいく作業が出来るまで、何度も彫り直すつもりだ。

 魅月さんにも約束をしたとおり、形が出来たら被ってもらって違和感がないかを確かめてもらわないといけない。そうしたことも視野にいれておかないと、直前になってしまったら相手にも嫌な思いをさせかねない。なるべく早めに仕上げて、気持ちに余裕をもって本番を迎えたかった。

 そして、それだけじゃなく織恵が抱えているあの謎も、解く時間を作らないといけない。俺は水沢姉妹を頼ったが、結果的に大きな一歩になったのは間違いないだろう。決して楽観は出来ないが、俺と織恵だけで頭を抱えていたなら分からなかったに違いない。

 道筋は見えた気がする。まずは、鏡水月についてそれぞれ意味を探すことになった。途中から、静木と東吾さんも合流する感じになったが、二人は俺たちとは見解が違っていた。

 いずれにせよ、不思議な文章であることに変わりは無い。あの文章が何か村の隠された秘密に繋がっていようと、昔の人間がしたためた詩集の一端だとしても、俺たちの時代の言葉に変えられなければ意味も分からない。

 それが俺たちの言葉で理解出来た時、おのずと真実は見えてくるはずだ。

 しかし……。


『条件。その遊び半分で関わってる謎解きから手を引くこと。そうしたら、その記憶の正体を、教えてあげる――』


 昨日、小野寺さんが言っていたことが、俺の耳に張り付いていた。

 確かに、俺はこの記憶の正体を早く知りたい。その為に家を継ぐ修行を先延ばしにして、大学へ人の記憶について勉強しにいったんだ。織恵に甘えてしまったこともあったが、他の誰にも話さず、俺の頭がおかしいのかってずっと思ってた。

 小さい頃はおかしなこともあるんだと気にしないようにはしてたけど、たまに夢を見て思い出すんだ。夢の内容はほとんど覚えていないのに、それがあの記憶は忘れちゃ駄目なんだと言われているような気がして、その度に本当に居るのかどうか分からない姉さんの記憶に苛まれている。それは何年も過ぎれば過ぎるほど大きくなって、気のせいだなんて思えなくなってしまっている。

 こんなに引きずるくらいなら、いっそのこと忘れてしまえたらどんなに楽だろう。両親に聞いても居ないという、村の人たちも居ないという、織恵も覚えていないんだ。

 じゃあどうして……! 頭を小突かれたことも、手を引いて前を歩いてくれたことも、祭りで出店を回ったことも、初めて彫った小物を褒めてくれたことも……色々、色々覚えてるんだよ……。


『愁次くん。ありえない記憶なんて無いよ。あなたに残ってるなら、それはその人が存在していた証』


 でも、顔や声を思い出そうとすると水面の波紋が揺らめいて形を崩すように、灯火が風に吹かれて消えてしまうように、はっきりと認識することは出来ない。

 そんなおぼろげなものは、果たして俺の本当の記憶なのだろうか。一人っ子だった俺が、兄弟が居たらいいなという憧れが見せた幻想なのだろうか……。

 記憶ってのは悲しいかな、定期的に引き出さなければそれは自分にとって必要が無いものだと判断して時間と共に忘れていってしまう。逆に言えば、定期的に思い出していれば強固な記憶として刻まれていくだろう。

 その中で、嫌なことは早く忘れ楽しかったことは長く記憶に留まる。都合の良いように出来てる。とはいえ、〝思い出したくない〟という乱数が介入することでそのバランスは崩れ、記憶が書き換えられて上書きされることがある。

 それは病気とか、異常という話ではない。誰にでも起こりうる現象で〝思い込み〟という自己暗示が自身の記憶を操作してしまうのだ。

 もしも、俺の記憶がそうなのだとしたら、幼い頃の俺は誰かに憧れを抱いてその人が姉だったら良かったのにと夢を見たのかもしれない。それが夢と現実の区別が付かなくなって、実際に俺には姉がいるんだという〝思い込み〟になってしまったのだろうか。

 大学で記憶について勉強しても、今日までその答えに辿り着くことはなかった。……ただ、一つの仮説が出来上がっただけだ。


 そもそも記憶とは一体何なのか。そこから紐解いていかなければならない。

 一般的に記憶と呼ばれるものは、おそらく短期記憶と長期記憶に分類されるだろう。これは、広義でいえば「スクワイアの記憶分類」に準拠していて多くの人がイメージできる大枠だ。カナダの心理学者ダルヴィングによれば、これら長期記憶はさらに意味記憶やエピソード記憶、手続き記憶などに細分化されている。

 意味記憶やエピソード記憶は、物事の定義を問う記憶でありその多くは言葉で具体的に説明が出来るものだ。例えば神姫村とはどんな村なのかは、意味として俺は知っている。どんな風習があり、どこに何の建物があり、そこでどんなエピソードがあったのかを思い出すことが出来る。

 一方、手続き記憶は考えたり感じたりしたことで覚えた体感的な記憶だ。例えば、泳ぎ方やボールの投げ方を教わり体感的に覚えた。身体で覚える、というのは手続き記憶のことでなかなか言葉では説明しにくい部分でもあるが、感覚的に知っているというようなものだ。それに紐づいて、佳ノ湖で泳いだことや学校であったことは今でも覚えている。

 この二つは対立ではなく、相互関係にあり繰り返し思い出すことによってより強固な記憶として脳に強く残っていくだろう。

 じゃあ記憶はどのように定着していくかだ。主に記憶の定着は「記銘」「保存」「想起」という三つの過程を踏む。感覚的、短期的に情報を憶え込む記銘という活動を脳はまず行う。これは符号化とも呼ばれる。そして情報を保存する。さらに、思い出すという活動をすることによって情報を再現、再構築するのだ。この時、覚えた情報を引き出しやすくするために脳ではプライミング効果というものを活用している。先ほど前述したとおり、記憶は相互でありお互いに影響し合っているからだ。

つまり、俺の故郷は「神姫村」と今すぐ思い出すことが出来るが、他の人にとっては耳馴染みの無い語感だろう。俺にとっては、過去にあったことや織恵と同じ故郷というところから名前を思い出すことも出来れば、紙と木彫りという伝統工芸からモジった名前という部分からも想起することが出来るのだ。

 このように認知心理学の観点から見るに、俺の脳は正常に働いているように見える。ここで、異常があるとすれば「自伝的記憶」に関してだ。書いて字のごとく、俺の過去の経験に基づく記憶であり、個々人のアイデンティティを形成する部分でもある。それは家族構成や自宅の場所、朝ご飯は何を食べたのかなど、私生活のありふれた情報まで含まれる。

 俺は一時期「幼児期健忘」を疑ったこともある。脳科学においては、幼児期ではまだ海馬を含めて記憶機能が未発達だから物事を適切に記憶するのは難しいとされている。一般的には一歳半くらいから言葉を話し始めることから、幼児期にも言葉の蓄積が行われ記憶しているはずだ。しかし、適切に記憶するのが未熟の為エピソード記憶の発達が遅れ、四歳頃から機能し始めるという研究結果が出ている。原因としては、記憶の固着がうまく出来ない「記銘の失敗」と、記憶の保存に必要な神経細胞ニューロンが、後々に形成されるものに飲み込まれて想起できない「検索の失敗」の二つの説がある。

 ただ、俺自身の記憶に違和感を覚えたのは六歳ごろだ。姉さんがいなくなったのも同じくらい……だと思う。もう俺の脳はちゃんと機能していたはずなんだ。大きなケガとかして外傷があったなんてのも聞いたことは無い。さらに、二十一年生きてきて何か香りを嗅いだ時に記憶が蘇るかのようなプルースト現象も味わった覚えもなかった。

 では逆に、どうして人は物事を忘れてしまうのだろう。短期記憶において、感覚的に捉える情報や瞬間的に見て受け取る情報は、瞬時に記憶され取捨選択されていく。それは仮に視覚で捉えたものや、聴覚で捉えたものを刺激として受け取るが、自身が注意を向けなければ数秒で失われてしまうものだ。注意過程を経て想起し、長期記憶へと保存されていく。

 このように、記憶は大きく二重貯蔵になっているのだが大事な部分は、想起するという点だ。しかし自伝的記憶において人は〝再構成的想起〟という性質をもっている。つまり、その記憶をいつ思い出すかによって、その時々に応じて意味付けを行い本当は無かったことも含めて組み立てなおしてしまうということだ。それがあたかも、本当の記憶として……。

 これとは別に、長期記憶において脳は「忘却」という機能を持つ。これに関して様々な学者たちが研究を行ってきた。曰く「減衰説」「干渉説」「検索失敗説」だ。

 イギリスの心理学者バートレットによれば、一定量の物語を覚えた時その再生量、つまり想起できる内容は保持期間が長くなるほど減衰すると説いた。特徴としては印象的な部分が強く残り、馴染みや関心の薄い事柄から忘却されていくというのだ。また、馴染みの無い言葉や事柄は、自身の馴染みある言葉や経験に置き換えられ、出来事の順序も入れ替えられてしまうという研究結果も出ていた。

 またアメリカの心理学者ダレンバックとジェンキンスが行った研究は、意味のない単語を覚えた後、睡眠を取る人と取らない人を対象とし忘却の程度を比較する実験を行った。結果は、睡眠を取らない方が忘却の進行が速いことが示されたのだ。起きている時間の方が他の情報を取り入れるため、様々な記憶に干渉された為だと結論付けた。つまり、記憶は様々な他の記憶に干渉を受けるために類似した記憶は抑制され、その影響を受けた記憶は忘却されていくというものだ。

 さらに、他の学者たちは想起に注目し、カテゴライズされ再整理されている記憶は何かのキッカケによって想起されるという観点から〝〟によって想起できない場合があると示していて「検索失敗説」を提唱している人もいる。つまり忘却とは、完全に脳から抹消されたのではなく「思い出せないだけ」なのではないかという説である。一例では、不愉快な事柄や自我に脅威を与えるような記憶は、精神世界で意識下から〝無意識下〟に押し込まれ思い出せないように抑圧されているのだとする例もある。それはきっと……自己防衛なんだろうな。

 ここまで俺は心理学、脳科学的な見地を述べてきたがどうして社会学に辿り着いたかというと、フランスの社会学者であるモーリス・アルヴァックスの提唱する「集合的記憶論」に影響を受けたからだ。この理論によって社会学と記憶はしばしば紐づけられるようになる。

 これまで考察した記憶は、いわゆる個人的記憶になるがアルヴァックスは日常生活における記憶の多くは他者と共に経験した記憶であり、会話や場所、空間に結び付く形で保存されていると定義した。人は社会の中に生き、集団の中に所属している。その想起は自身の五感を通して、縁のある場所や記憶媒体の参照をトリガーとして示されるのが「社会的記憶・集合的記憶」とした。

さらにアルヴァックスは、前述した現在における過去の再構築と、記憶の物質性・空間性を特徴とした時、当事者以外にも過去の記憶の共有は起こり得るとまで言及している。

 つまり、分かりやすい例でいうと戦争だ。俺たち世代は戦争を経験していないが、経験者からの話や残っている資料から暗黙知として知っている。それが集団意識として、集団の共通認識として機能するのは、それが集合的記憶に基づく〝〟となったからだ。

 アルヴァックスは「社会を構成する様々な集団は、我々の過去を再構成出来るが、しばしば過去を歪曲するから気を付けろ」と警鐘を鳴らした。俺の記憶がある意味、信じ込まされたものだとしたら、この村の風土を疑う他ないだろう。そのくらい神姫村というのは異質だということを、大学に行って改めて感じた。

 色々な言い伝えがある村だ、自分の生まれた村とはいえ客観的に見ると浮いてるよな……。


「愁次、どうした? 手が止まってるぞ」

「……あ、ごめん。ちょっと疲れてるのかな」

「昨夜も遅くまで彫っていたみたいだからな。少し気分転換に外の空気でも吸ってきたらどうだ」

「ああ、そうする。母さん、ちょっと散歩に行ってくるよ」

 考え事をしていて、手が止まってしまっていたようだ。俺はレジにいる母さんに声を掛けて家を出た。


 今はあまり、誰かと会いたくなかった。

 幸い湖佳橋の近くには誰もいなくて、昨日大人数で謎解き大会をした東屋も静かな風景の一部として佇んでいる。

 溜め息一つ。結局俺はまだ、選べていない。どちらに転んでも、確証のある賭けではないはずなのに、片方を選べばもう片方は失ってしまうような気がして、余計気が滅入る。

 小野寺さんが言っていた親友が消えた話。それがこの謎に関係しているなんてことも確かなものではないし、それによって織恵も消えてしまうなんてことは現実感が喪失している。しかし、謎が解けるか解けないかは関係なしにこのまま謎解きを続けていたら、小野寺さんが知ってるこの記憶の正体を知ることは出来ない。

 逆に謎解きから手を引いたとして、頼ってくれた織恵は失望するだろう。それで俺を抜いても昨日集まってくれたメンバーたちと謎は解明出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。そして織恵は……。でも俺は、小野寺さんから驚くべき正体を聞かされたとして、この記憶との戦いに決着がつくのだろうか。小野寺さんは、その正体を知って巫女になったらしい。以前に何をしていたのかは知らないが、巫女になった理由が何かを知ったことにあるのなら、俺も神社に向かうことになるのだろうか。……分からない。

 でも、一つだけ分かったことがある。俺は、織恵と記憶を天秤にかけてる……。

「最低だな……」

 俺は織恵に対して、感謝してもしきれない程の恩がある。それを今まで一度だって忘れたことは無い。俺は織恵と、恋仲になれなくてもいい。いや、そういうことを望んでいる訳ではないが、織恵が居なかったら今の俺はいない。

 それくらい感謝してるし、織恵には出来る限りのことをしてやりたいと思ってる。

 でも今、冷静になって考えてみると、俺の記憶には俺自身が決着をつけなきゃいけないはず。もちろん、小野寺さんが何を知っているのかは分からないし、それを知って俺は絶望するかもしれない。

 それでも、万が一にも織恵が消えてしまうようなことがあったなら……俺は壊れてしまうだろう。あの虚無感を今感じるのは、あの時の比じゃない。

 だってそうだろう? 二十一年もの間、人が生きた証が無くなるなんてありえない。それが幼少の、まだ物心付いた頃ならまだしも一緒に二十一年歳を取ってきた相手が存在していないなんて言われたら、そこは俺が今まで生きてきたこの世界ではないと思うに違いない。

 一体誰が仕組んだのか知らないが、妙な伝承に振り回されて織恵が消されるなんて御免だ。

「となると……俺の記憶の手掛かりは、また振り出しに戻るな」

 ここまで考えてまだ未練があるのかと、自分の女々しさが嫌になる。

 何れにせよ、まずどうにかしなきゃいけないのは、ご丁寧に残してくれた神様の謎解きの方かもしれない。俺がこの謎を解こうとしているのを知らなかったのもあるが、手を引かせたいのに色々な情報を教えてくれた小野寺さんに感謝だ。

 水に続いて、鏡の情報も信憑性がある。このことも、皆に伝えないといけない。また近いうちに集まって皆が仕入れた情報を共有しよう。

 同時に色々なことを求めてもウサギを逃がしてしまうだけだ。

 程よく思考もまとまったところで、俺の足は神社へ向いていた。織恵に会いに行くわけではなく、神姫祭で面を被るもう一人の姫にも話をしなければならない。

 小さい頃から神童として育てられ、鬼側の姫である魅月さんとは対照的に神側の姫として舞を踊る少女――マユラのことだ。



 雪化粧をした鳥居を潜り、綺麗に除雪された石畳を歩いていくとまもなく拝殿が見える。

 夏場であれば「火の用心」と唱えながら拍子木を叩いて夜回りをし、冬場は朝早くから境内を含めた村内の通路の除雪をしてくれるのは町会の人たちだ。ここのお年寄りたちは一癖あるとはいえ、本当に活動的な人たちばかりだ。これには感謝しなければならない。

 あまぎり会も合同でやることも多いから、楓先輩も参加しているだろうし、織恵も神社で巫女の手伝いをしているから境内くらいは、簡単な除雪作業をしてるかもしれない。

 そう考えると、何もせずにこの石畳の上を歩かせてもらうのにありがたみを感じてしまう。俺は境内に入る前に軽く一礼するのだった。


「お、練習やってるみたいだな」

 拝殿から渡り廊下が細く伸び、視界の左手には舞台がある。神楽はここで舞うため、祭りの時はこの拝殿前は人がごった返すのだ。地面から一メートルほど高い位置にあり、その高さが上座で踊っているのは神様たちであると認識出来るのかもしれない。

 今はマユラと、指導役の巫女――小野寺さんが二人で、稽古の最中のようだった。


 マユラ――。

 神童といわれている彼女は、まだ十五歳にもかかわらずとても神秘的な雰囲気をまとっている。魅月さん同じく身長は低い、髪型は短く耳がはっきりと出ているが織恵のような規則性のある癖毛ではなく直毛が自然と流れるような髪質をしている。身体の線は細く、未成年ということもあるだろうが、同じ年の子たちと比べれば幾分小柄ではあるかもしれない。

 そして何よりも、神々しさの一端を成しているのはアルビノの目に他ならない。

 狼が月夜に興奮して目が赤く染まるように……というと語弊があるが、マユラの場合はフラッシュを用いて写真を撮ったときになるような黒目に滲むような赤だった。それは目が合うと恐怖するようなものではなく、吸い込まれてしまうような神々しさともいえるかもしれない。

 ある地方では神の使いとされている白蛇もアルビノの目をしているが、そういった所からも神聖性は生まれているのかもしれないと思っていた。

 しかし、赤目に限らず青目もそうだが、一般的にそういった色をしている場合には疾患があることが多い。赤目は遺伝子疾患があるらしいが、俺はマユラのことをあまり知らない。苗字も知らないくらいだ。村の人が「マユラ」と呼んでいて、神姫祭の時に魅月さんと一緒に舞を踊る。そういう役目を任された子なのだ、という印象だった。

 そんなマユラが真剣に練習に励む姿をぼ~っと眺めている。

「……神童……」

 神童というと、人よりも何かの才に長けていたり、由緒ある家系の子であったりというイメージだが、俺はマユラがどうして神童といわれているのかを知らない。

 歳も離れているので直接聞いたことも無かったし、風の噂では出自に関係しているらしいというのは耳にしたことがあるけれど、詳しいことは分からなかった。

 しかし、神童……神童……。何故か分からないけれど、俺にとっての神童ってマユラのことだっただろうか……。急に湧いて出た疑問に、俺自身が頭を捻ってしまう。

 

 あれ、神童って言われてた人って、他に居なかったっけ……。


 分からない。自問に対して疑問に思うようでは答えがでるはずもない。突然の違和感に心のモヤが晴れないが、今神童と言われているのは目の前にいる、マユラだ。それが事実。

 つくづく自分の記憶ってやつに自信が持てなくなるな……。

「ん、大丈夫そうね。マユラ、ちょっと休憩しましょうか」

「はい、ありがとうございます」

 ぼ~っと舞台を眺めていたら、休憩になったようだった。俺は近づいていって、マユラに話しかける。

「お疲れ、マユラ。疲れてるところ悪いんだけど、ちょっと話出来ないか?」

「あ、愁次くん。この子ずっと立ちっぱなしだったから、少し休ませてあげて? マユラ、お部屋に麦茶があるから飲んできていいよ。落ち着いたら戻ってきて」

「はい。花明さんすみません。また後でお願いします」

「おう、悪いな」

 マユラは丁寧にお辞儀をして離れていった。立ち振る舞いは歳相応に感じる。あまり密に話したことは無いが、何度か話した印象では大人しくて物静かな女の子だ。仕草や立ち振る舞いを魅月さんと普段の姿を比べてしまうと酷かもしれないが、三年前の本番の舞は、あの魅月さんにも気品負けしていなかったのを覚えている。

 やはりそこは、神童の為せる技なのかもしれない。象徴的なアルビノの目は、このときばかりは神々しささえ感じられた。

「愁次くんは、どうしたの? マユラに用事なんて珍しいじゃない」

「ああ、ちょっと祭りのことで話しておかないといけないことがあって。マユラが戻ってくるまで待たせてもらいますよ。あ、小野寺さんに聞きたいことがあるんですけど」

「……あのこと以外なら。拝殿の前でちょっと待ってて、今降りるから」

 そういって小野寺さんは巫女姿のまま、外履きを履いて降りてきた。

 拝殿の隣には小スペースの休憩所がある。佳ノ湖にある東屋のような開放的な建物で、言ってみれば縁側のような寛げる場所だった。ここで座っていれば、マユラが戻ってきてもすぐに分かるだろう。

「それで、聞きたいことって? あのことなら、約束守ってくれないと駄目だよ」

「ああ、今日はそっちじゃないんです。マユラのことを少し聞きたいと思って」

「……そう。マユラの、何を知りたいの?」

 小野寺さんは舞台の方を見て、遠い目をしていた。

「マユラって、何で神童って言われてるんですか? 学校で成績がズバ抜けて良いとか」

「成績のことは分からないけど、そういうんじゃないと思う。あの子、親が居ないから。……厳密に言えば、どこかで生まれたんだろうけど、マユラが見つかったのはこの裏の山の中。〝〟の前に置き去りにされていたみたい」

 この村の宿泊施設では地元で取れた山菜料理が食卓に並ぶ。その為、村の人間が山菜取りに行ったときに赤ん坊だったマユラを見つけたのだろう。

 小野寺さんが言っている「ヒメの洞」は昔、道祖神が居たといわれている滝がある場所だ。高低差十メートルくらいはあって、俺も数回だが見に行ったことがある。そんな場所に居たものだから、神の落とし子だと思われたのも無理は無いのかもしれない。

「村の人たちはマユラを、神様の子だと言って疑わなかった。昔から人は、予期せずして何かを与えられたとき、神様からの賜りし物って捉えることが多い。だから出自が不明でも、すんなりとあの子を受け入れた。それだけじゃない、あの子の赤い目は特徴的でしょ。私は可愛いと思ってるけど、特異点っていうのは時に蔑む対象になってしまうこともあるけど、逆にそれが何よりも象徴すべき対象になったりもする。その意味では、小柄なのも要因の一つなのかも。あの子が見つかった時、誰が見ても赤ん坊だったけど正確な年齢は分からない。十五歳って言われてるけど、もしかしたらもうちょっと上なのかもしれないし」

 確かに正確な年齢が分からない以上、歳相応かどうかの判断は付きにくいけれど、それでも年齢が近そうな静木や水沢姉妹よりも小柄な印象を受ける。

 けど、マユラが孤児だったなんて……。そうすると、誰かが引き取って育ててくれたはず。しかしどこの家が引き取ってるかなんて、聞いたことはない。

「じゃあ、マユラってどこに住んでるんですか? 神社だとしたら、織恵が……小鳥居家ってことにもなりそうですけど」

「うん、私もそう思ってたんだけど、どうも違うみたい。確かに神社に居ることは多いんだけど、普段は学校に行ってるはずだから織水なのかも……。神様の子って言われてるくらいだから鬼側の人たちは敬遠するでしょ。雨霧さんでもなく、水沢さんも体面があるから手を引いたみたいだし。あと普通に考えたら小鳥居家か花明家ってことになるけど、愁次くんが聞いてくるくらいだから違うんでしょ?」

「はい、うちに養子とかもいませんし……」

「となれば、あとは織恵ちゃんが何か知ってるか、織恵ちゃんも知らないのか。もしくは、違う人が後見人になってくれてるのか、そこまでは私には分からない。そこはほら、私は巫女であの子の世話役だけど、一緒に生活しているわけじゃないから弁えなきゃいけない部分かなって思って聞いてないから。何せ神童って言われてる神様の子。主に仕える巫女が差し出がましいことは出来ないでしょ」

 そう語る小野寺さんの横顔は、何かを憂う表情に見える。割り切ってる口調ながらも、踊りの指導に、神道の教えに、色々な世話をしているのだから情が入るのは当然だろう。

 神道か……。考えてみたら、神姫村は八百万の神様がいて多神教のはずだ。でも、マユラのような象徴的な存在が持ち上げられて、少し形を変えてきているのだろうか?

「ちょっと疑問なんですけど、うちの村の宗教は〝あまぎり流〟っていう神道ですよね。これは多神教だと思ってましたけど、マユラのような存在は特に信心深い人たちにとっては象徴的な存在になってます。これは一神教とは見方は違うかもしれないですが、特定の人を崇めてるような気がして、この村も少しずつ変わってきてるってことなんでしょうか」

「確かに、あまぎり流は多神教だから伝承の通りに八百万の神様を敬って良い。それこそ、トイレの神様でも、座敷わらしでも、各々の家で感謝したい神様を大切にしてるでしょ。だから、マユラのように神童として神様が産み落とした子、みたいなイメージが作られると皆があの子をちやほやして象徴みたいになってる現状は、一見、そう見えるかもね。でも、あまぎり流はそもそも言葉を大切にする教え。だから、たくさんの言葉は細分化されて区別されてる。その中で最も上位にあって蔑ろにしてはいけない言葉が〝ありがとう〟。だから、自身が感謝して敬える相手であればなんら教えに反していない」

「それは、偏ったりしても関係ないってことですか?」

「そういうこと。一神教の教えはさ、絶対神になってしまって皆が同じものを敬うでしょ。それが悪いとは言わないけど、そうするとどうしても人って比べてしまう。比べるってことは必ず優劣をつけなきゃいけなくなるでしょ。私はさ、この古神道の教えが好きなのは誰にでも〝選ぶ〟という余地が残されているから。幸い神姫村には、たくさんの神様がいらっしゃる。その中で感謝してる神様を敬ってもいいし、その神様の幸運にあやかりたいと思えば信心するでしょ。そうやってそれぞれが、八百万の神様を大切にしてきたからこそ、昔の神様たちもこの村に足を運んでくれたんじゃないかって私は思ってる」

「そうですね、確かにそれはあまぎり流の教えの良いところだと思います」

 ついつい俺も考えてしまうが、絶対これが良いと思っていたものがあったとき、それに横槍が入ったならどっちが良くてどっちが悪いという判断をしてしまいがちだ。それは対象が二つの場合、良し悪しが先行してしまうからだ。

 でも、選べる対象が多くあったとき、確かに比べるという選択肢も出てくるかもしれないが、それを包括的に判断出来るということは選ぶ人のことまで考えられている気がして自分の気持ちを確かめやすい。

「その中で、神側の人の多くはマユラを自分の孫のように思ってて可愛がってくれる人もいるし、鬼側で言えば魅月ちゃんのことを皆大切に思ってるでしょ。それはもっと言えば、鬼側とか神側っていう垣根を越えて、織恵ちゃんも魅月ちゃんのことは好きだし色々お世話になってるから、ありがとうって気持ちで接してる。あまぎり流って、雨霧家の名前を持ってるから鬼側のイメージが強いかもしれないけど、あくまでそれは私たちの時代から見てるからそうなってるだけで、もっともっと昔から〝あまぎり流〟ってあったから、こうして神姫村に浸透してるんだよ」

 小野寺さんの話は分かりやすい。教えてもらいながら、まだまだ知らないことが多いのだと痛感する。俺が生まれ育った村なのに、あんまりよく知ろうと思ってこなかったことを恥じた。

「俺、もっと村のこと、神道のこと知らないとな……」

「ん、頑張りなさい。そう思ってくれたなら、私も言った甲斐があるし」

 なんだか母親のように諭されたと思いながら小野寺さんを見ると、すでに立ち上がっていて舞台を見ていた。

「そろそろ戻りましょ。マユラの休憩も終わる頃だと思うから」

 俺も立ち上がり、舞台の方へ向かった。


「おまたせ、マユラ。気分はどう?」

「はい、元気です」

 マユラは無邪気に両手を胸の前で握ってみせる。

「じゃあ、ちょっと愁次くんの話聞いてあげてくれる?」

 俺は一歩前に出て、マユラを見た。舞台の下に居る俺からは、マユラを見上げる形になる。柔らかく微笑むマユラは、俺と同じ年なのではないかと思うほど落ち着いた雰囲気だ。

「お疲れ。実は、今年の神姫祭で使う能面を俺が彫ることになったんだ。飛騨ひだ守姫かみき神楽かぐらの時、マユラと魅月さんが被るやつな。それで、やっぱり本番前に二人には出来栄えも見て欲しいし、一回被ってもらいたいんだ。どこか引っ掛かったり、ゴワゴワしてる所があったら彫りなおそうと思うから、遠慮なく言ってくれていいぞ」

「分かりました。今、試してみますか?」

「あ、ごめん。今日は持ってきてないんだ。明日……明後日には持ってこられると思うから、その時は頼むよ」

「はい、楽しみにしてます。でもすごいです。あのお面を作るなんて」

「俺も姫の面は始めてなんだ。だから、ちょっと失敗してても勘弁な」

「ははっ。あんまり変な顔のはイヤですよ。小野寺さんみたいに綺麗なお顔がいいです」

「マユラー、褒めても何も出ないぞー」

「マユラには美形よりも、幼形の方が似合うと思うけどな。って言っても、神の面を可愛らしくなんて出来るかな……」

「ははっ。どんなのが出来るか楽しみです」

 そういってマユラは屈託なく笑った。こうして見てる分には普通の女の子なんだよな。

 もちろん同じ人なんていないが、元気一杯でハッキリとものを言う笑とは違って、控えめで大人しいしゃべり方をするけれど、純真無垢で色々なことに興味を持つタイプの健気な子だ。

 それから二人は、舞台の中央に戻って練習を再開した。


「おぉ、繭さまが練習されとる。ちょっと見ていかんね」

「まゆら様かい? おやぁ立派だで。お疲れ様だわ」

 がやがやと話し声が聞こえる。境内に入ってきたのは数人のお年寄りたちだった。殆ど神側の人たちのようだ。今日は祭りの打ち合わせとかがあったのだろうか、ぞろぞろと歩いてきて舞台の前でマユラの舞の練習を見に近寄っていく。

 俺は少し離れて休憩所に座ることにした。


 しばらく眺めていると、鬼側の人たちも上がってきて気がつけば三十人くらいの人たちに膨れ上がっている。

 始めは和気藹々と談笑しながらマユラの様子を眺めているように見えたが、途中からどうも様子がおかしい。お年寄りたちの声が大きいのはいつものことだが、だんだんと怒気が含まれてきている。

「おおん? 今まゆら様を悪く言ったんはどいつね?」

「悪くなんて言っとらん。わざわざ見に来て騒いどるあんたらがおかしいんじゃないかと言っとるんよ」

「何を言うんかと思えば、繭様はワシら皆の孫みたいなもんじゃろ」

「そうなんね。一所懸命頑張ってる姿、応援しとるだけじゃい」

「だから神らは甘い言うとる。おだてたところで子供は成長せん。そこで満足しちょる」

「褒めて伸ばそういうんは神らの驕りだで。自分らは何もせんと、楽しんどるだけなん」

「違うわ。まゆ様は出来が良いん。それを褒めて何が悪いんじゃ」

「そもそも同じ村の子だで。それを様だの神童だのいうこと自体おこがましいん」

「そんなん鬼らが認めんだけやが。魅月様だで泣いとるんね」

「鬼らは鬼らで、魅月さまを可愛がりよるで。何ね、まゆら様の方が可愛くて嫉んどるんかい」

「鬼らは欲深だでな。魅月さまだけに飽き足らず、繭様も鬼の孫とでも言いたいんかい。はっはっは」

「そうと違うん! 大体、親もいねで神の子なぁん、あの子を誑かしとるのは神らじゃろ!」

「そうだで! 嘘ばりこいて幼子を騙しちょる。そういうとこがわしゃ気に食わん!」

「なぁに抜かせ! こんの裏切りもんが、神姫祭で村ぁみんなまとまらねっきゃいかんときに、神聖な場所に土足で入ったんわかっとるん! 掟はどうしたったん!」

「言い掛かりなんね! ワシらでも禁忌は犯さんで、神らが見栄張って隠し通そうとしてることはわがっとるん!」

「ちょっと皆さん! マユラが練習している最中ですよ! 静かにしてください!」

 堪らず小野寺さんが仲裁に入った。お年寄りたちは興奮してくると手が付けられなくなるのは、良くない傾向だ。俺も以前、何度か仲裁に入ったこともあるが、神側だからと鬼側から一方的に攻め立てられたのを覚えている。

 だから小野寺さんは、中立……織水の人だった気がするから矛先は向かわないと思う。

 それでもいがみ合いは続いていて、怒りの矛先をどこに向けて良いものか牽制しあっていた。

「巫女さんは黙ってて下さい。ワシら村人同士の問題なん。鬼らが分からず屋なんね」

「いいや神らが分からず屋なん。コケにされたままで引き下がれんで」

「ここは境内ですよ。あなた方ならここが騒いで良い場所じゃないことくらい、お分かりですよね」

 一度熱くなってしまった年寄りたちを諫めるのは容易じゃない。厄介なのが数人程度なら、村長が一喝して事態を収めることも出来ただろうけど、残念ながら村長の姿は無かった。

 外の人が見たなら、年寄りたちのちょっとした諍いにも見えるだろう。でもこれは、神姫村にとっては根深い因縁が入り混じっていて、醜い言い争いであることは分かっているはずなのに止められないのだ。

 言い争うだけならただの喧嘩かもしれないが、問題なのは年寄りたちが口々に言っている神側とか鬼側って言葉だ。同じ村人で、同じ人間なのにこの村には神と鬼が同居すると昔から言われていて、事あるごとに神だから、鬼だからという偏見が付きまとう。

 俺たちの先祖が神か鬼かは別にしても、その血を引いていると考えられているから血筋が分かれて神の家系やら鬼の家系やらで区別されてしまっている。四大名家は双方の代表である二つの家系が名を連ねているが、俺と織恵の家が神の家系、魅月さんと村長の家が鬼の家系代表だ。でもそれは、歴史的に見て村に貢献していたり重要なポストを担っていたりするからというだけで、何の権力もない。ただ、多くの人をまとめる為にはリーダーが必要だから水沢家がそれを担い、村の金庫番でもある雨霧家が調整役で収まっているだけだ。

 それが町会などで限られた人なら、まだ村長が抑えてくれる。しかし、一歩外に出ればその枷が外れたように、村人たちは声を荒げるのだ。


 織恵もこの村の体質を憂いていたな……。

 神は傲慢な態度で、平気で嘘をつき、虚栄心が強い存在で。

 鬼は嫉妬深くて、些細なことで恨みを買い、大事な人をも裏切って。

 それが伝い流れて、人の心にも宿ってしまった。それは人の心が弱いからだろうか、影響されやすいからだろうか、納得してしまったからだろうか……。

 俺には分からない。でも、俺たちの時代ではもう、神でもなく鬼でもなく、人の醜い感情として認知されてしまっていた。あらゆる醜い感情は、時に関係を瓦解させ、時に人を狂わせ、時に誰かを殺してしまう。

 やがて人は、悪魔に心を明け渡したと言われるようになって、もはや神も鬼も鳴りを潜め、醜い感情はまた新しい形に変わっていった。

 考えてみれば、それは俺たち若い世代にも言えることかもしれない。何かで始まった諍いは、やがて誰かが鬼を背負わなければいけない。誰かが責任を取らなければいけない。そうして罪の擦り付け合いが始まり、時に冤罪をも生んでしまう。諍いがなくてもそうだ。どこかで生まれた感情が、些細なことをきっかけに肥大化して、あらぬ罪を着せられてしまうこともある。そして、集団心理の怖いところは周囲もそれに同調してしまう点だ。相手を少しでも嫌だと思っていると〝勝ち馬に乗り〟、今までさして気にしていなかったのに、面白半分で責め苦を与える側に回る。

 精神が幼い環境下では、残酷なまでに顕著になる。誰かが一石を投じ、波紋が広がってしまったらもう歯止めが利かずに、罪を被った人は一対多数の構図が出来上がり次第に心を疲弊させ、潰されてしまうだろう。そうした人の醜い血は、少なからず俺たち若い世代にも流れているのだ。

 まぁ、殆ど織恵の受け売りだが、俺としてもこの悲しい連鎖をどうにかしたいとは思う。

 ただ、俺が克己したところで何が変わるんだと思ってしまう自分もいた。

 それに比べて織恵は、せめてこの村だけでも変えたいって言ってたな。俺とは理由は違って、その為に大学に行って勉強してる。織恵だって辛い時期があったんだけどな……。

 逆にその時期を乗り越えてきたからこそ、今の織恵はあるのかもしれない。


 気がつけば、年寄りたちは静まっていた。

 中央に居たのは裸足のマユラだった。年寄りたちのいざこざに自分から介入していったようで様子が一変している。

 この光景は祭りの時の……。マユラは目を閉じて、年寄りたちの中央に立っていた。

「もう、やめましょう。神も鬼もありません。つまらないことで言い合うのは終わりです」

 そうして薄く目を開けたマユラは持っていた大麻にキスをした。

 神姫村にとってキスという行為は神聖な意味がある。以前、静木が言っていたように街の方ではなんてことない行為かもしれないが、特に姫であるマユラがキスをするというのは、神のお告げのように誰も口出しできない厳かさがあった。祭りの時以外では見られない、珍しい光景である。

 そして、年寄りたちの頭の高さまで大麻を掲げ、右、中央、左と三回軽く振った。紙垂のこすれる音が、まるでお祓いのような神事を行っているようだった。

 先程見せた無垢な笑顔からは想像も出来ないような大人びた姿に、俺はマユラの姿に釘付けになっていた。祭りで何度か真剣な表情を見たことがあるが、やはりあの赤い目に見つめられると憑き物が落ちたような気分になるらしい。

 怖い顔をしていた年寄りたちも神妙な顔つきをしていて、自分たちがしていたことを悔いているようだった。

「はい、そろそろ日が暮れますので、皆さんも解散しましょう」

 小野寺さんが努めて明るく言ってくれたお陰で、フッと緊張の糸が切れて年寄りたちは苦笑いをしながら境内を後にしていった。

「マユラ、お疲れ様。私たちも終わりにしましょ。着替えてらっしゃい」

「……あ、はい。今日もありがとうございました」

 大麻を見つめながらマユラは少し、反応が遅れたようだった。

 しかし、マユラには神通力でもあるのかと思ってしまう。雰囲気だけであれだけの人を鎮めてしまうのだから。神童とか姫という背景があってこそなのかもしれないが、何かそれ以外にもマユラには不思議な力があるのかもしれない。漠然とそう思っていた。

「小野寺さん、お疲れ様です」

「お。まだ居たんだ、マユラの着替え、覗いちゃダメだぞ」

「しません」

 マユラがパタパタと駆けて部屋に帰っていく様子を見ながら、小野寺さんは俺を茶化した。俺は何食わぬ顔で返答する。

「私もそろそろ着替えたいんだけど、見たいの?」

「だから見ません!」

 俺はからかわれているのか……。

「冗談。……さっき、見てたと思うけどマユラが言ってくれたから収まったようなものだけど、私だけだったらどうしようも無かった」

「俺が言っても無駄だったでしょうね」

「ん、出てこなくて正解だったかも。特に身内が居たら、もっと厳しいこと言うから」

「それは……なんとなく分かります」

「愁次くんだけじゃなくてね。さっきは神だの鬼だの言ってたけど、お年寄りたちもメンツとかあるから自分とこの非は認めたくない。それがもしも自分のとこだったら、自分の親戚でも、身内だからこそ厳しくする人たちだから……」

「ああ……」

 俺が気になっていたのは、「禁忌」という言葉だ。こんな言葉は、おいそれと出てくるような言葉じゃない。それに、年寄りたちが言っていたのは多分、あのことだろう。

 騒いでいるというのは楓先輩から聞いていたけど、ひょっとしたら、かなりヤバいのかもしれない……。

 織恵、もしかしたら俺たちが思ってる以上に、幣殿に入ったことは看過できないことだったのかもしれない。しかし、今織恵と会ったらどんな顔をすればいいだろう。

 小野寺さんにはっきりと断ったわけでもないし、間近に年寄りたちの言葉も聞いちゃったしな……。ちゃんと考えをまとめないといけない。


 俺は小野寺さんに挨拶をして、神社を後にした。

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