五、天照大神が残した謎

 湖佳橋の上に愁次と織恵の姿があった。

 誰かに話すことは楓から止められていた織恵だったが、色々なものが膨らんでいよいよ抱えきれなくなり愁次に打ち明けた。それが昨日の出来事。

 あれから愁次は、この事について色々と織恵に説明を求めた。幣殿に入ったことを知っているのは、愁次の他に楓しかいないということ。また、お年寄りたちが騒いでいるので黙ってるように楓から釘を刺されていること。幣殿で神代の箱を壊してしまったこと。その中には不思議な文章が書かれた掛け軸が入っていたこと。しかし、盗まれたのはその時には無かったはずの小麻で、織恵も混乱しているということ。

 今織恵が把握していることと、分からないことを正直に話し、愁次と情報を共有していた。愁次には、どうして織恵がそこまで怯えているのか分からなかった。事の顛末は話しても、楓や東吾から聞かされた不気味な話までは織恵も伝え切れなかったのだ。

 織恵にとって、自分が持ち出した物と周囲で騒がれている物が違っているという事実は、余程混乱を与えられているのかもしれない。その場所が誰でも入れる場所だったなら、他の人を疑うことも出来たのだろう。しかし、幣殿は開かずの扉。そこを開ける唯一の鍵を自分が持っていたのだから、自らの記憶を疑うのも無理はないのかもしれない。

 そんな織恵を見て愁次は、努めて冷静を保っていた。まさかそれほど大事ではないだろうと思う気持ちと、ひょっとしたら本当に何か罰を与えられてしまうのではないかという気持ちを同時に抱いている。他所ならばともかく、ここは昔から不思議な風習のある村。それをここで生まれ育った愁次だからこそ、何か良くないことが起こるのではないかという懸念も感じることが出来たのだ。

 一晩経って、織恵の様子も落ち着いているように見える。一人で抱えていたものを、誰かに話せたことで少し冷静さを取り戻せたのかもしれない。午前中はお互いに神姫祭の準備がある為作業をしていた。

 午後になって織恵が落ち着いているかどうかを確認する為、愁次は外に連れ出していた。

「実際の所は分からないけど、俺もとりあえずは伏せて様子を見たほうがいいと思う。確かに織恵が持ち出したやつも気になるけど、他に入ったやつがいるかもしれないんだろ?」

「うん、そうなんだけどね」

「それよりも、先輩のいう保険の方に手を打っておいてもいいんじゃないか。どっちにしても、昨日の村長さんの話を聞く限りだと、神姫祭が終わるまでは表沙汰にはしないみたいだしな。織恵、そのなぞなぞって、どういうやつなんだ?」

 愁次に促されて、織恵はポケットにしまってあったメモ用紙を取り出す。

 それを織恵が読み上げたところで、愁次の第一声は想像できたものだった。

「分からん……」

「ホントさっぱりなんだよね。そういえば愁次は、神楽歌って知ってる?」

「ああ、祭りの時に舞台で唄ってるやつだろ。でもあれ、日本語なのか?」

「うん、私もこの歳になるまでちゃんと聞いたことなかったんだけど、ちゃんと歌詞があってね」

 そこで織恵は、母――夏織から聞いた歌詞を口ずさんだ。愁次はそれを聞きながら、腕を組んで考え出す。

「本来、舞の時に唄うのは言葉を崩してるみたいなの。だから、私たちが今まで聞いてた神楽だと、歌詞は聞き取れないみたい」

「どことなく似てる気もするんだけど、うーん……。詩みたいというか。タイトルが同じだからそう思うだけなんかな」

「私も最初そう思ったけど、それ以外に共通点とかは無さそうなんだよね。もしあるとすれば、神楽歌みたいにこれも民謡か何かであるのかもしれないけど」

 織恵の推測は九割方希望的観測だった。お互いにそういう歌を聞いた事があるか目で確認したが、首を振って答えている。

「あの舞は三つの項目に分かれてるけど、神楽歌は初めに歌わないよな。第二部から歌い始めて、後は太鼓とか笛の音だけだ」

「そうだね。あんまり表題だけに囚われないほうがいいかも。大事なのは本文かもしれないし」

 そう言って織恵は唸る。愁次はメモ用紙を受け取って、じっと文字を見つめた。

 どうやら最初の三文字が気になっているようだった。

「うーん……。こういうのってさ、大体ヒントみたいのがあると思わないか? 最初の鏡、水、月って三文字。読み方は分からないけどこんな単語見たこと無いから、それぞれに意味があるのかもしれない」

 愁次の着眼点は、文字の分解だった。織恵は二行目の三文字――「鏡水月」が、掛け軸では少し大きな文字だったことを思い出す。

「そう言われてみれば、この三文字……タイトルを除けば、他の文字より大きかった気がする」

「やっぱり最初に出てくるってことは、後ろに続く文章を紐解くヒントはここに隠されてるんだよ」

「じゃあ、鏡、水、月ってどういうことなんだろう……」

 織恵の疑問は、愁次も引っ掛かっていた。そのままの意味で捉えたとしても、続く文章は読み解けない。せいぜい、同じ漢字が使われている単語が見つかるくらいだ。

 だから、一つの文字に他の意味がなければ、それ以上推理を展開していけないだろう。

「鏡は途中に、月鏡とか水鏡とか、映し世の鏡なんてのもある。どういうことだ……水とか月も別の意味があるってことか……?」

「うん、でも最後の一文にはもうこの三文字は出てこない。最後の文章は、毛色が違うよね」

 最後の文章――今宵、静寂の玉響、追憶を食む――は、織恵の言うとおりヒントになるだろう〝鏡水月〟の文字は無い。つまり、別のヒントが無ければ解けないということだ。

 一筋の光明が見えただけに、まだまだ情報量が少ないと思わされる結果になった。

「織恵が最初に言った神楽歌もそうだったけど、俺たちはまだまだ知らないことばかりみたいだな」

「そういうことだね、ずっと文字とにらめっこしてても先に進まないや」

「となると、二人だけじゃ埒が明かないか。誰かに協力してもらう方法を考えよう」

「ちょ、ちょっと待って愁次。さっき他の人には黙ってようって……」

 織恵は慌てて手を掴んだ。楓にも釘を刺されているし、これ以上他の人を巻き込むのは得策じゃないと言っていたばかりだった。それなのに協力者を求めようとする愁次。織恵には愁次が何を考えているのか分からないに違いない。

「大丈夫、あの件は言わない。それを言わなくても、この謎に協力してくれる人は作れるはずさ。ちょっとそこの東屋で待っててくれるか? こういうの好きそうなやつを呼んでくる」

 愁次は自信たっぷりに頷いて織恵を見た。仕方なく手を離した織恵は、不安そうな顔をしたが、それを気にした愁次はもう一度向き直ってメモ帳を見せる。

「難しく考える必要は無いだろ? ちょっと面白いミステリー小説でも読んでて、どうしても解けない謎が出てきたから一緒に解いてみないかって言うだけだよ。実は、こういうのが好きなやつが後輩にいるんだ。もう三年経つから、あいつらも今年で高校を卒業する頃だな」

「そう、なんだ。分かった。愁次がそう言うなら、待ってる」

 その愁次の知り合いに織恵は心当たりが無い。しかし、単純に面白い問題があるから付き合って欲しいといえば、変な先入観をもたれずに協力してもらえるかもしれない。それは愁次なりに考えての提案だった。

 織恵は少し不安そうだったが、愁次はしっかり頷いて東屋の方へ歩いていった。


 しばらくして戻ってきた愁次は、背格好の似た女性二人を連れてきた。

 いや、女性というにはまだあどけなく、可愛らしい表情をした二人組みだった。片方は頭の上に握り拳くらいのおいしそうなお団子を作り横髪が頬を撫でるように伸びていて、顔の輪郭を小さく見せている。深い黒の髪質と同じくらい艶を見せているのは、左目の下に上品に添えられた泣きボクロだ。笑顔の目元がより映えて見える。

 一方同じ顔をしたもう一人の少女は胸元まで伸びる明るい茶髪をシュシュでまとめて左肩に下ろしていた。大人しそうな風貌からはおよそ予想外だが、猫のように人懐っこい笑みを浮かべて元気に手を上げているところを見ると、見た目とは裏腹に快活な印象を受けた。そして、右目の下に泣きボクロを携えて、こちらも特徴的な目元が美しく見える。

 おそらく二人が結っている髪を解いたら、長さはほとんど変わらないのだろう。それは傍から見れば、違いが分からないくらいにそっくりな双子――水沢姉妹だった。

「咲……? 笑!? 愁次が呼びたかったのって、二人のことだったの?」

 同じ村に住む、村長の可愛い孫娘だった。織恵が知らないわけがない。

「織恵さんお久しぶりです。三年振りですね」

 姉の咲は、丁寧にお辞儀をして織恵に微笑む。落ち着いた物腰は、織恵よりも大人びて見えてしまうが、咲はまだ高校生。それを差し引いても、しっかり者の姉という印象を受ける。

「どうもです! 織ちゃんが帰ってきてたのは聞いてたんですが、わたしたちが会いに行く前に先を越されちゃいましたね!」

 織恵に負けず劣らずの元気な挨拶をしたのは妹の笑。挨拶は新米警察官のような敬礼をしてみせる。笑はひょっこり顔を覗かせると愁次を押しのけて、織恵の隣に座った。

「助っ人を呼んできたぞ。これで少しは進展するといいんだけど」

「織ちゃんが難解な謎に挑んでると聞いて飛んできました。何て本読んでるんです?」

「え? あ、んとね……」

 どうやら愁次はミステリー小説を読んでると言ったらしいことが窺えた。しかし、聞かれた織恵は作品名の答えを準備していなかったので、戸惑ってしまう。

「〝〟っていうやつだ。この話の根幹にある一番大きな謎なんだよ」

 すかさず愁次がフォローしたので、織恵もそれに便乗する形になる。

「そ、そうなの! その中で〝花鳥風月〟っていう名前の謎が出てくるんだけど、これがサッパリ分からなくてね」

 姉妹はさして気にすることなく、早く例のなぞなぞが見たいと目を輝かせていた。

「織恵さん、早速解明していきましょう。原文を見せてもらえますか?」

「うん、これなんだけど……。何か思いつくことはある?」

 織恵がメモ帳を広げると、二人は食い入るように文章を読んでいた。紙に穴が開くのではないかというほどに、黙して凝視している。

 しばらく見つめていた二人だったが、先に声を出したのは笑だった。

「ううん……。これは読んだだけだと分からないですねぇ。多分、キーワードはこの三文字なんだと思うけど、例えば、この漢字を文章から消してみたりしました?」

「消す、か……。試しに書いてみるか」

 愁次はメモを裏返して〝〟を消した文章にしてみる。

 一行目は――面に映る、揺れる、幻の――になった。どうにも繋がりそうでは無い。

 二行目は、鏡の一文字しかないので殆ど原文は変わらない。そして三行目には〝鏡水月〟の文字はないので、三文字を取り除いたところで推理が進むことは無さそうだった。

「主に一行目が崩れるだけで、殆ど変化は無いな。残った文章も繋がりがあるとは思えないが」

「そうですねぇ。お姉ちゃんは何か分かった?」

 ずっと黙してた咲は、笑に促され首を横に振った。

「私のやり方は、まず言葉遊びから入りたいところだけど……最初の三文字をアナグラムにしても該当しそうな単語は出来ませんでした。となると、次は同じ音を取る言葉に変換させます。ちょっとやってみますね――」

 咲は腕組をして右手の人差し指をあごに当てる。愁次が水沢姉妹を呼んだのは、主に咲に期待をしていたからだ。咲は普段からクロスワードパズルで遊ぶことが多く、いつも鞄に一冊は忍ばせている。休みの日など、時間が空いたときにはなぞなぞ問題を解いて頭の体操をしていることも少なくなかった。

 そんな咲と愁次の接点は、ここ東屋にある。家でクロスワードパズルに耽ることもあれば、気分転換に佳ノ湖まで散歩に来て、東屋で無心に問題を解くこともあった咲。そこにフラりと通りかかった愁次を見て、何かが閃いたのだろう。「シロバカ! シロバカ!」と叫んで、愁次に駆け寄ってきたのだ。当然、訳が分からない愁次は後ずさったが、ガッチリと腕を掴まれてしまって逃げられなかった。

 しかし、そこで咲は我に帰る。顔から湯気を出しながら頭を垂れて謝罪をした。

 どうやら咲は興奮すると猪突猛進なところがあるようで、特に好きなクロスワードパズルになると気分も高揚してしまうのだろう。それを咲は自覚している為、普段の落ち着きある言動は、その裏返しなのかもしれない。

 それから愁次は咲がクロスワードパズルをしていたことを知り、たまに見つけては愁次曰く、〝〟一緒に謎に興じることが増えていったのだった。


 そんな咲との出会いを思い出しながら、愁次は咲が何か突破口を開いてくれることを期待していたのだ。

「ふぅむ……。漢字変換も一考の余地ありですが、パッと思いつく限りでは関連性がありそうなのは浮かびませんね。地名とか、場所とか、そういうものが見えてきたら良いんですけど……そのままの漢字を使っても織水くらいしかこの辺の地名は無いですよね」

 咲の頭がフル回転してきたのだろう、分析と解析を同時に行いながら、結果をひたすら言葉で潰している。他の三人は、一番こなれているだろう咲の推論に期待して静かに聞いていた。

「これは私の直感ですが、クロスワードパズルを解くセオリーは通じない気がします。言い方を変えれば、必要な情報が無い限り〝〟……なのかも。つまり、この文面だけを見て解こうとせず、外の情報も探したほうが良いかもしれません。なんとなく……この村のことのような気がするんですけど……」

「……さ、さすが咲! 実はね、言うのが前後しちゃったんだけど、このお話はウチの村を舞台にした作品なの。だから色んな昔の風習とかが関係してるはず」

 織恵はギリギリのラインを攻めた。それには愁次もヒヤッとしたが、水沢姉妹はこの謎に夢中で、細かいところまでは気にしてなさそうだった。

 すると笑が何かを閃いたように、両手を胸の前で叩いた。

「あ、そういうことなら! お姉ちゃん、この〝〟ってあれのことじゃない?」

「うん、笑も思い出したのね。私もそんな気がする」

 二人は顔を見合わせて頷いた。愁次たちは何か光明が見えたのかと期待するが、姉妹が語らなければ何のことだか分からない。

 二人は水沢家。この村のまとめ役であり、村長の孫娘だった。水を知る人物でこれ以上無いキーマンかもしれない。

「実はわたしたち、小さい時からおばあちゃんに水は大切にしなさいって厳しく教わりました。人にも、田畑にも、地球にも、水は全ての生命の源なんだって。その中で、言い伝えみたいな感じで、よくおばあちゃんが言ってる口癖があるんです。〝水は鏡を濡らし、月を取り込む〟。この意味をよーく考えて、大切にしなさいって。正直わたしにはサッパリでした」


 水は鏡を濡らし、月を取り込む――。

 

 キーワードが全て含まれていた。これは有益な情報かもしれないと、愁次と織恵は顔を見合わせ、メモに書き留めた。しかし、その意味は自分で考えるようにと孫に試練を与えている。水沢家御祖母は、なかなかに手厳しい。

「私も考えてみたのですが、言葉遊びの類ではなくて昔の人特有の遠回しな言い方なのかもしれないと思いました。比喩ですね。短歌とかもそうじゃないですか、短い文章の中に色んな意味が込められているという点で」

 咲の着眼点は、やはりクロスワードパズルで鍛えられた見方なのかもしれない。方向性としては正しいように思う。しかし、この短い文章の中にどういった意味が込められているのだろうか。

「あの、実はですね……わたし、お母さんに聞いちゃったんです。そしたら聞いて納得でした」

 直球勝負。笑は姉と違って思考タイプではなく、行動派のようである。

 二人の母親も時代を経て、子供たちに分かる言葉に直してあげなければいけないと思ったのかもしれない。笑の問いかけに、応じてくれたようだった。

 笑はメモ帳に、可愛らしい丸文字でキーワードを書いた。

「水は鏡を濡らす……、これはつまり涙のことなんです。目は色んなものを映しますから鏡みたいなものですよね。それで聞いてみたら、おばあちゃんは昔から目が悪かったみたいです。多分、何十年も前は良い目薬ってなかったですよねぇ。わたしもドライアイなんだけど、乾いてると視力が落ちるって言いますし目薬が手放せません。きっとおばあちゃんは、わたしたちにそういう苦労をさせたくないんだと思いました」

「それから、月を取り込む……。こっちも考え方は同じで目を中心に考えると、月を目に写すっていうことだと思います。月が綺麗なものの比喩だと考えれば、辻褄が合いますね。だからお祖母様が言いたかったのは、目は視力を落とさないように大切にしなさい、そして女は、目に綺麗なものを写して美しくありなさい。ということだと思います」

 咲が笑からペンを取り、続きのキーワードを書き出した。咲は更に言葉を重ねる。

「でも、世の中美しいものばかりではありません。時には醜いものも見えてしまいます。だから私は、自分の目に映る美しいものも醜いものも見た上で、正しいと思うことを選びなさい。といったことも含まれていたんじゃないかと考えています」

 愁次と織恵は二人の言葉に少し驚いた。それは三年前、まだ中学校を卒業したばかりだった彼女たちのイメージがそうさせている。

 愁次や織恵がこの三年で何かを考え、感じ、何かを成そうと思い至ったのと同じように、咲も笑もまた、高校生活を通して成長していたのだ。その言葉の端々に、彼女たちの想いが感じられる。

「……二人とも、なんだか見違えちゃったね。あ、ごめん! 子ども扱いしてる訳じゃないの。三年っていう時間が流れてるんだもんね。私もお婆ちゃんに親孝行しなきゃって思ったよ」

 そう言いつつも、織恵は帰郷してから家の手伝いを率先して引き受けている。境内の掃除から、体験教室まで。愁次に親孝行しなきゃと言っていたのが思い起こされる。

 その意味でも、織恵にとっては二人の成長が何よりも嬉しかったのだ。

「なるほどな。水は鏡を濡らし、月を映すか……。となると、水っていうのは目とか、涙に変換出来るかもしれない。ちょっと変えてみよう」

 そう言って愁次はメモを表に返して、水の部分を変換してみた。

 しかし……。

「うーん……。いい手だと思ったんだけどなぁ、漢字を単純に変換させるだけじゃ駄目なのか」

「でも愁次、私はこの推理、良い着眼点だと思う。だって、私たちの村の謎なんだよ? やっぱり代々口伝されてたりするものがヒントなのかもしれない。咲も言ってたけど、この文章を分解するには外の情報が必要なんだよ。そうすると、あと鏡と月も同じように別の意味があるのかもしれない」

 織恵は最初の三文字「鏡水月」それぞれに意味が分かったとき、その言葉を入れ替えるのではなく、その考え方を基に文章を読み解きたいということだった。

 今織恵たちには、この三文字を紐解く材料がほとんどない。水沢姉妹によって、水の解釈がもたらされたように、鏡と月を知る者がきっと居るに違いない。そうして、文面だけでは分からない、この村の中にある情報を集めれば何かが見えてくるかもしれないのだ。

「そうですねぇ。となると、ここで睨めっこしているより、鏡か月を知ってる人を探した方が良さそうです」

「そうだな。一先ず、方向性が見えてきただけでも収穫じゃないか。分かりやすくていい」

 今までは謎の文章を穴が開くほど見て腕を組んでいるだけだった。しかし、咲と笑の新しい解釈によって、光明が見えてきた。もちろん、これが正しいかどうかは誰にも分からない。

 しかし、闇雲に考えているよりは次に何をすればよいか、その指針が出来ただけでも織恵には大きな一歩といえるだろう。

「およ? 皆さん集まって何してるんですか?」

 ひょっこり後ろから顔を出したのは叶那だった。今日も神姫村に遊びに来たらしい。

 東屋に愁次と織恵、咲と笑、四人が揃っているのは珍しいかもしれない。そもそも愁次と織恵は三年振りの帰郷。二人がいること自体久々なのだが、そこに水沢姉妹という異色の組み合わせに叶那は興味を持ったのだった。

 この中で言えば叶那は一番年下である。水沢姉妹とは三つ、愁次たちとは六つ離れていても飛び込んでいけるのは、愁次を除いても馴染みあるメンバーだからだ。

 愁次とて嫌な顔はしていない。織恵にとっても今は他の人に話をしたいところだった。

「ずっき! ずっきもこっちおいでよ、面白いのあるから!」

「うん、咲ちゃんと笑ちゃんがいるってことは、またパズル?」

 ずっきと呼んだのは笑だ。おそらく叶那の苗字〝〟からきているのだろう。敬語か、さん付けが多かっただけに「小鳥ちゃん」に続き、愛称は久々である。

「あ、織恵さん、花明さんこんにちは。えっと……これですか?」

「叶那、これはね、ある物語に出てくる謎なんだけど、この村をモチーフにしたなぞなぞ問題なの。何か思い当たることはある?」

「…………」

 織恵がすぐ横で説明するが、叶那は答えなかった。スッと表情が真剣なものに変わり、文章を凝視する。

 愁次たちは叶那の真剣な表情に、口が開かれるのを待った。やはり皆、この文章を見たときには、じっと凝視してしまうようだ。叶那の思考は読めないが、しばらく何も言葉を発さなかったので、織恵がもう一度問うた。

「……叶那、どう? 何か分かりそう?」

「あ、ごめんなさい! サッパリです! たはは……」

 叶那は照れるように人差し指で頬をかく。一目見ただけで答えが分かるなどと期待はしていなかったが、妙に長い間沈黙していたので何か気になることでもあったのではないか。周囲は叶那のそんな雰囲気を感じ取っていた。

「でもこれ……本当に〝なぞなぞ〟なんでしょうか? あたしには、なんていうか神姫祭のことを言ってるように思うんですけど……」

「え? 神姫祭?」

 愁次が前に出た。見る人が違えば、やはり印象は変わるものだ。今までに無く具体的な名前が出てきたことに愁次は前のめりになる。

「ずっ……静木、だったか。なんとなくでいいから、思ったこともっと詳しく言ってみてくれ」

「はい! って言っても、詳しく説明するのは難しいんですが、皆さんならご存知だと思います。神姫祭って、一番の目玉は雛灯篭ですよね。一年間であった嫌なこと、思い出したくないこと、失敗したことを灯篭に託して水に浮かべる。そうして、二人の姫がみんなの記憶を食べて忘れさせてくれるっていう儀式ですよね」

 これが神姫祭の醍醐味であり、伝統的な雛灯篭の解釈だった。記憶を食べる、というのは些か馴染みの無いものだが、禊という意味で誰かが肩代わりしなければいけないモノ。それを今では伝承になぞらえて二人の姫が引き受ける、ということになっている。

「個々に文章の説明は出来ないんですけど、この全体の流れが佳ノ湖を連想させたり、湖に浮かぶ灯篭を連想させたりするんです。特に最後の言葉、〝追憶を食む〟って雛灯篭のことだと思いませんか?」

 叶那の言い分は一理あるかもしれない。これまで言葉の意味を一つひとつ解明していかなければ、この謎は解けないと皆は思っていた。しかし、これが謎ではなく神姫祭のことを言っているのだとしたら、随分と話は変わってくる。

「皆さんは内側の方ですけど、あたしは織水の人間なので外の人になると思うんですが、この儀式、あたしはすごく素敵だなって思ったです。舞の時、二人の姫は額にキスをしますよね。それが記憶を食べるって行為の象徴みたいに。あたしたちくらいの年頃だと、チューするとか、すごく軽い言い方をします。でもこの村では、キスってとても神聖なものみたいで……なんといいますか、儀式なんでしょうけど重い意味があって綺麗なものです」

 叶那は思ったことを拙いながら言葉に吐き出す。愁次たちは村の中の人だから、その行いが普通の物事として認識しているのかもしれないが、外から見ればまた見え方が違うのかもしれない。

 額にキスをする、それが記憶を食むことになる。それは神姫祭に参列したものなら誰もが目にしていることだろう。それは儀式であり、行為であるけれど、年頃の子が見れば頬を染めて直視できない出来事かもしれない。

 しかし、神姫村の人間にとってキスという行為は神聖なものとして捉えられている。特に、額にするキスは神姫祭の神楽で行われていることを思えば形式美としてよりも、もっと深い意味合いを持つものなのだ。

「なので、ぱっと見た印象ですけど、あたしはなぞなぞっていうよりも、神姫祭のことを眺めてた人が書いた〝詩みたい〟だなって思ったです」

 織恵は唇を結んだ。外の人から見たら、こんなにも捉え方が変わってしまったのだ。方向性が見えて、これからだ、というところで乱数が入ってきたようなものだった。

 しかし、愁次は腕を組んで叶那の感想を聞きつつも、難しい顔をする。

「……なるほどな。感覚は、村に住んでる俺たちとは違うのは仕方ない。そういう見方もあるってことは覚えておこうぜ。今静木も言ったけど、俺たちは村の人間だ。だから、そうだと思い込んでむやみに推理してる部分もあるかもしれない。一先ず、面白い意見ではある」

「な、なんかすみません、水を差しちゃったみたいで……」

 叶那は自分が出過ぎた事を言ってしまったとバツの悪そうな顔をする。

「そ、そんなことないよ! 貴重な意見だよ。実はね、今私たちも手詰まってる感じだったから、色んな情報が欲しかったとこなの」

「ああ。俺が素直に言ってくれって促したんだ、気にしなくていいぞ。それに、俺たちとは違う見方が出来る静木を、この織恵チームに加えようじゃないか」

 愁次なりのフォローなのかもしれない。俯いた叶那の手を引っ張るように、謎解きに参加させようと言うのだ。この提案には、水沢姉妹も異論はないようだった。

「やった! ずっきが入るなら、わたしたちも大歓迎だよ!」

「叶那、私もあなたの意見が聞きたいわ。遠慮せずに入ってよ」

「は、はい! あたしなんかで良ければお供します!」

「うん。でもちょっと待って。〝織恵〟チームって、名前それでいいの?」

「言いだしっぺだろ。それにリーダーは居たほうがいい、俺より織恵の方が向いてるしな。みんなもそれでいいか?」

「おお、これがサークルってやつですねぇ! わたし大学に行ったら絶対サークルに入るって決めてるんです! そしてサークル漬けの毎日を……」

「笑、何しに大学いくんだよ……」

 笑は興奮しっぱなしだった。しかし、大学進学の目的がサークルでいいのだろうかという疑問が湧く。

 全員から失笑が漏れたのはいうまでもなかった。

「あ、でも皆! 情報を探るために色んな人に聞くのはいいけど、手当り次第にチームに入れたり、この謎を解いてるーとかは、あんまり広げないでね……?」

 織恵としては協力者が増えるのは嬉しいが、あまり目立ったことはしたくないだろう。ここにいるメンバーを信頼していない訳は無いが、なるべく楓の耳には入らないほうが良いかもしれない。

「賑やかだねぇ! 推理は順調かい? ワトソン君」

 東屋にぬぅっと黒い陰が覆う。その大きなシルエットは見覚えがあった。体格がよく、低く整った声が特徴的な彼である。

 織恵の協力者は、予期せずして集まっていきそうだ。

「実は少し前から聞かせてもらっていたんだよ。何やら難事件に挑んでるみたいだね」

「そうなんですよ。って、ワトソン君って私のことなんですか?」

「事件はいつ何時やってくるか分からない。こんな雪の降りそうな長閑な昼下がりでもね」

「はぁ……。せめて女性にして欲しいなぁ」

「ところでワトソン君、状況を説明してくれないかな」

 東吾は織恵の愚痴を意にも介さず、話を進めた。

「えっと、国中さんはこの文章を見て、何か思い当たることはありませんか?」

「むむ……。これはどんな事件なんだい? 追憶……つまり、思い出を食べるなんて穏やかじゃないね」

「国中東吾さん、でしたっけ。実は、この村の伝承を基にした小説みたいなんですよ。東吾さんは……どちらかというと、推理小説とか読んでそうですね」

「おお、愁次くんだったね。……となると、この事件は猟奇的犯行が濃厚だね」

「私だけワトソンなのね……」

 織恵は突っ伏して、愛称が決まったことを嘆いた。それを叶那が苦笑して肩に手を置いていた。

「どうして、猟奇的だと思うんです?」

 咲が東吾の意見に興味を持ったようだ。知的な眼差しを東吾に向けて促した。

「いやなに、この手の事件では代償が付きまとうものさ。おそらく、このトリックが解けなかったら、主人公は窮地に立たされてヒロインが殺されてしまうんじゃないかい?」

 東吾はなかなかに鋭い。本人は架空の物語の話をしているのだろうが、代償という点では無視できない言葉だった。

 織恵はどう答えていいものか、決めあぐねてしまう。

「あはは、東吾さんそれじゃあ罰ゲームじゃないですかー。これは単なるミステリー要素ですよ。ねぇ、織ちゃん」

 笑が無邪気に問い掛ける。愁次もどうフォローして良いか分からず、織恵の返答を待っていた。

「う、うん。そんな怖いことは無い、と思う。実は私も、まだ最後まで読んでないんだよね」

 曖昧に答える織恵。気にしないつもりでいた、天照大神の謎に挑む代償が顔をもたげてしまったのは言うまでもなかった。

 しかしそれを、愁次はまだ知らない……。



 一方、あまぎり会本部では、楠木楓が献血の会場運営に従事していた。

 楓本人は今年の神姫祭の準備がある為、早めに切り上げ打ち合わせに入ることが決まっている。

 ようやく並んでいた最後の人の献血が終わり、あとは控え室で安静にしていてもらうだけだった。あとは楓がいなくとも、看護スタッフに任せてしまっても問題ない。

「すいません、それじゃあ僕はお先に失礼しますね。あとお願いします」

「おお、しっかりな。俺たちも楽しみにしてるから、面白いもの作ってくれなぁ」

「楓くんも、立派になったわよねぇ。あの人を納得させたんだから、自信持って頑張るのよ」

「……はい! 行ってきます!」

 楓は現場をスタッフに任せ、外に出た。


 村の中腹にある中央――集会所には、さほど時間は掛からずに辿り着く。

 打ち合わせの時間まで少し余裕があったので、楓の足はある場所に向かっていた。そこは、神社の鳥居がある場所の裏手に位置していて、あまり人通りはない場所だった。

 多くの人は神社に行く為に鳥居を潜り、拝殿へと向かう。その為、裏手には用も無ければ近づく人もいないだろう。なぜならその場所は、夜に一人ではこられないような少し不気味な場所でもあったからだ。

 細い獣道を進むと、少し開けた場所に出る。もう殆ど道なき道で、登山家でも通らないに違いない。そこに生えている木が、もはや生えているという表現が適当ではないくらい異質な形をしていた。

 声無き怨嗟――。形が無いもので例えるならば、およそ幸福なものではないのは明白だった。木というのは本来、地面からまっすぐ空を目指し、枝葉をつけ雄大な身体に風を受けるだろう。しかし、ここの木は異常だ。

 人の腕がありえない方向に曲がっているような、木が伸びる方向に統一性が無く何かから逃れるように右に左に枝分かれしていたり、木の中心を無理やりこじ開けるように中心が空洞になっていたり、途中で爆発でもしたのかと思うような弾けた傘のようなものを被っている木もある。

 共通することといえば、どれも奇怪な曲がり方をしていて背が低い点だった。およそ長身の楓よりも低いものが多い。木であるはずなのに、魚が口をあけているようなものや、鳥が羽を広げているようなものも見受けられ、もはや材質が木であること以外はすべてこの世のものとは思えなかった。

 しかし、これは自然に出来たものだと楓は聞かされていた。だから余計に気味が悪い。

 数本ならともかく視界に広がる五十メートル四方はこの有様なのだから、鬼か悪魔が埋められている墓所なのではないかと思ってしまう。

 ここは楓にとって、〝〟だった。

「こんな所に珍しい」

 雪を踏み締める音と同時に、鈴がなる。

「……あなたこそ、こんな場所に珍しいですね」

 楓は肩越しに相手を見やる。着物姿は雪の上では異色かもしれない。日本人形のような美しさは畳が良く似合う。

 空気が異質に歪みだした。それに針を刺すように細く鋭利な声が楓の耳を刺激した。

「織恵に……何を言ったの?」

「……はて。何のことでしょう? 僕は神姫祭の準備で、色々考えないといけないんですよ」

 二人の会話が微妙に噛み合っていない。むしろ、はぐらかしているようにすら思える。

 楓は異形の木に向き直り、ポツリと言った。

「それより、謀ったのはあなたですか? 漏れるのが早すぎる」

「……何のことか分からないわ。私にも分かるように説明してくれる?」

 お互いに何かを探るように言葉が交錯する。近寄りもしなければ、遠退きもしない。いつでも噛み付けるように間合いを計りながら出方を窺う、まるで猟をする獣のようだ。

「あまぎり会が絡んでるのは分かってます。ずっと……この三年間、忘れてはいませんから。ようやく僕はここまで来たんです。おかしいと思ってたんですよ、どうして村が動く時、事あるごとにあまぎり会が関与してるのかって。一昨年の事故も、去年の噂も、僕は嵌められました。でもそれが、尻尾を掴むチャンスに変わったんですよ」

「あれは事故よ。だって……私たちが手を出していたなら、もっと綺麗に出来たと思わない? ねぇ、〝〟?」

 楓には相手の表情は見えていない。しかし、妖艶な声色は小馬鹿にしてるのとも、あざ笑っているのとも違い、まるで自身の力を誇示しているかのようだ。

 表情を見ずとも、口元は不気味に吊り上がっていることは想像に容易だ。

「でももう、そんなのはどうだっていいんです。僕が欲しいのは一つだけ。その為だけにこの三年間動いてきました。今年は僕が神姫祭を動かします、誰にも邪魔はさせませんよ。……あなたにもね」

「……奪うつもり? 私の娘を。その代償を知ってても?」

「まさか。〝〟だけですよ……。役者は揃いました、舞台もこれから整えます。今年の神姫祭、楽しみにしててくださいね……?」

「……」

 相手は返事を返さない。しばらく沈黙が続いた。

 空気がひりつく様な気持ち悪さを感じて、楓は踵を返した。相手には目もくれず中央へ歩いていく。

 その場に残された着物姿の雛人形。群青色の長い髪がゆらゆらとなびく。小さくため息のようなものが聞こえた。

「あの人は勘違いをしている。……もう、止められないのね……」

 その言葉の意味を知っているのは本人だけだろう。楓もいなくなったこの空間で、思考するものがいなければ、この言葉は掻き消されたも同然。

 この場所は、憂いと憎悪に満ちていた。



 夕刻、佳ノ湖の湖面には残念ながら夕日が映ることはなかった。

 雪こそ降っていないものの、重たく圧し掛かるように覆いかぶさる厚い雲は背に受けていた太陽を降ろし、月を取り込もうとしている。

 あれから東吾も加わり、新しい解釈、情報を得られないかと期待した。東吾にとって神姫村は、民俗学を研究するに当たってとても面白いモデルだった。各地で見られる〝神隠し〟を持ち出して、この村と比較しようとしていたが残念ながら、この謎にはヒントになるようなものは含まれていなかった。

 解釈の仕方は叶那に近く、やはり村の外の人間は謎というよりも情景を捉えた詩ではないかという見方が強いようだった。それでも咲が「謎々のように見せてないのは、大いなる謎が含まれているから」という説得のもと、ここは一先ず文章の意味を読解しようという流れになった。対する笑は、サークルのような雰囲気を続けたいが為に同調しているようにも見えた。

 当初の計画通り、最初の三文字――鏡水月の語訳を進める為、村の中で情報を集めようということで話はまとまった。すでに〝水〟に関しては、水沢姉妹によって一つの解釈が提示されているが、他にも存在する可能性を含めて探してみるらしい。

 ここで一旦、解散の流れになった。


 織恵は叶那と東吾を連れて、神姫祭で使う灯篭の制作を行う為に本家の作業場へと行き、水沢姉妹は夕飯の買い物があるからと織水まで下っていった。

 愁次は自宅に戻る途中で、資料館に立ち寄った。ここは、集会所を挟んで神社の反対側に位置する榑葺くれぶき屋根の景観を残した建物だ。色々な文献や大昔に使われていた農具や祭具などが展示されているスペースもあって、観光客も多く訪れている。資料室は、学校の図書室と同じように静かにすることが義務づけられていて、管理人がいつも目を光らせていた。

 愁次は関係がありそうな文献を数冊見つけ読み耽っているところだった。

「……鏡と、月か。うちとは関係が無さそうなんだよな」

 水沢姉妹は家系ゆえ伝わっているものも多いだろう。その意味では小鳥居家も祭事を任される立場として何かしら伝統的なものはあるだろうが、皆に協力を求めているところを見ると、家の中で情報はあまり期待出来ないのかもしれない。

 それに比べて愁次の家系は職人肌である。工芸品がらみであれば何かしら使えそうな情報はありそうだが、相手が鏡や月とあっては記憶を探しても有力なものは得られなかったのだろう。そうして愁次は、外の情報を得るため貴重な資料が残る文献に着目したのだった。

「愁次くん……かな? 懐かしい顔だと思ったら、こんな所に珍しいじゃない」

「あ……小野寺さん」

 声を掛けてきたのは、愁次と歳が近そうな目鼻立ちの整った女性だった。一見、首もとがスッキリしている為短髪という印象を受けるが、両側が編みこまれていて後ろでまとめられているのである程度の長さはあるのだろう。右頬に掛かる横髪は、白く伸びた首筋に流れるように伸びていた。

 左側の横髪は耳の後ろに流されていて、花のヘアピンをアクセントにして左耳が露になっている。愁次から見ても左右非対象の髪型はお洒落に感じられて、左目の下の泣きボクロが特徴の、魅月とは違うタイプの美人だった。

「ここ、良い?」

「はい。小野寺さんはほとんど神社で、巫女の時しか見てなかったんで、ちょっと意外です」

「そう? 私は、自分で言うのも変だけど本の虫だから、仕事が無い時は結構来てるんだけどな」

 小野寺は愁次の正面に座った。自称、本の虫と言った小野寺は、早速愁次が読んでいる本に興味をもったようだった。

「……それより、神姫村全集? 何か調べてるの?」

「ああ、ちょっとした謎解きをやってて。今その原文持って無いんですけど、どうも文章を読解してからじゃないと解けないみたいなんですよ。本を結構読んでる小野寺さんを見込んで、知恵を貸してもらえませんか?」

「へぇ、面白そうね。ミステリーも割りと読むから、引っ掛かるものがあるといいけど。かかってきなさい」

 小野寺は腕まくりをする仕草をしてからテーブルに前のめりになった。これから小さな悪戯をしようと目論む小悪魔のように、ニヤリと笑った。

「単刀直入に。鏡水月って聞いて何か思い浮かぶことってあります?」

「きょうすいげつ……何かで聞いたことがある気がする。漢字はこれであってる?」

 小野寺は紙に書いて愁次に見せた。相違ないことを確認して愁次は続けた。

「実は、この鏡、水、月。それぞれに意味があるんじゃないかと思ってます。それで水はなんとなく分かったんですけど、他が分からなくて……」

「もしかしたら、鏡なら分かるかも」

「ホントですか!?」

 つい声が大きくなってしまった愁次は周囲を見渡す。案の定、管理人に目で注意された。小野寺は苦笑して、顔を寄せるように小声で話す。

「ほら、鏡って昔から何か力があるって言われてるでしょ。神姫村に限らず、三種の神器の中にも鏡ってあるくらいだし。だから鏡は、別の言い方をされることもあった」

「それは……?」

「鏡は月を映し、水を弾く」

 愁次はすかさずメモを取った。この言い回しは、奇しくも水沢姉妹が祖母から言われた言葉と酷似している。あまりにも語感が近かっただけに、愁次は何度も読み返してしまう。

「まず鏡ってのをそのまま見たとき、本来の働きは映すことにある。言い方を変えれば反射させるってこと。それと同時に、鏡に水を垂らしても弾いて染み込まない。要するに、見たまんまの解釈が一つ。もう一つは、鏡ってよく怪談とか怖い話の類だと異世界と現世を繋ぐ門みたいにわれるでしょ。でもその実、選ばれた人しか中には入れなくて、他の人が見ても入れない。そういう魔鏡的な意味もあるんじゃないかな。ほら、節分でも鬼は~外、福は~内ってやるじゃん。鏡ってそういうことじゃない?」

 愁次は小野寺の説明に思考する。とても合理的なようで、とても単純なもの。しかし、水沢姉妹の口伝の言葉と酷似している。それが妙に信憑性を帯びてしまっているのだ。

 紙に二つの文章を並べて見比べる愁次。やはり何度見ても、言葉の並びはほぼ同じだった。

「じゃ、じゃあ小野寺さん。実はこの謎、うちの村をもとに作られた謎だったら……?」

「古い村だからね。むしろ、そう考えたほうが私はしっくりくるかな。愁次くんも知ってると思うけど、佳ノ湖って昔は橋が無かったんだよ。湖佳橋が出来たのっていつぐらいか知ってる?」

「いや……」

「明治初期。私たちの年代で言えばおじい様たちが若い頃だね。それまで風流にも、佳ノ湖は鏡みたいだって思われてたみたい。何せこの村は、神様がたくさんいたからね。水面は色々なものを映すから、お酒を片手に一句詠んだこともあるかもしれない。天照大神って神様はスサノオが左目を洗ったときに生まれたって言われてるけど諸説あって、ある鏡から生まれた……なんて記述もある。その天照大神で有名な話は岩戸の神隠れでしょ。この村に来てくれたときは、あの佳ノ湖にお隠れになってたんじゃないかって、どっかの文献で読んだよ。だから神様と鏡、それから佳ノ湖って実は深~い繋がりがあるわけ」

「……」

 愁次は閉口してしまう。ここまで言われれば小野寺が何を言いたいのか、愁次にも理解出来ていた。鏡というのは佳ノ湖を差すのではないか……。

 これまた水沢姉妹の見解と一緒だ。短い教訓のような文章に、暗喩が見え隠れする。鏡の場合は、それが佳ノ湖だ。

「実はこの謎……天照大神が残した謎じゃないかって織恵も言ってたんだ」

 愁次は一気に信憑性が帯びたことに興奮して、本来言わなくていいことまで口走っていた。それを聞いた小野寺は、急に表情を変えた。

「え、天照大神の謎……? 愁次くん、この謎のこと織恵ちゃんから頼まれたの?」

「あ……そうです。あんまり大きな声では言えないんですけど、何か知ってるんですか?」

 そこで小野寺は目を閉じて下を向いた。愁次には訳が分からず、声を掛けようとしたところで、小野寺は勢いよく立ち上がった。

「ちょっと来て。……あ、本はちゃんと片付けてね」

 そう言って小野寺は先に歩いていってしまう。愁次は困惑しながら首をかしげた。本を返却している最中も愁次には小野寺の意図が分からない。怒って出て行ってしまったというよりも、何かしてはいけないことが見つかって盛大にため息をついているようにも見えた。

 場所を変えたということは、ここでは話せないものなのだろう。何れにせよ、小野寺に聞いてみるまでは分からない。愁次は足早に資料館を後にするのだった。


「小野寺さん! どうしたっていうんですか……」

 資料館を出て裏手に回ると、ここからでも佳ノ湖を望むことが出来た。小野寺は佳ノ湖を遠くで見つめながら、寒さから身を守るように両腕を抱えていた。

 空の雲は今にも泣き出しそうに暗く見下ろしている。

「……愁次くん。今すぐ、その謎に関わるのをやめなさい」

「え……? どういうことですか? 小野寺さんはこの謎のこと、知ってるんですか?」

 突然の忠告。愁次は反射的に顔をしかめる。

「知らない。でも、それに関わってはいけないことだけは知ってる」

「でも、俺……。ぁ……」

 愁次は小野寺の後姿に、あの不思議な記憶を重ねていた。

 愁次は一人っ子だ。兄弟はいない。しかし、どういう訳か愁次の記憶の片隅に姉がいたのではないか、という不思議な衝動があった。親に聞いても一人っ子だと教えられ、育てられてきた。だから自分の勘違いなのだと思い込み、それ以降誰にもこの記憶については話さなかったのだ。

 ただ、小野寺を見るとその面影がちらついてしまう。姉の雰囲気くらいしか覚えてないけれど、霞に浮かぶ霧のようにおぼろげではあるけれど、姉の姿が愁次の脳裏にはある。

 そんな小野寺に対して愁次は、どこか強気になれないでいた。

「愁次くんは昔、神社にお参りに来て何をお願いしてたの?」

「え?」

 突然、小野寺は昔のことを問いかけた。

「一人で来た時、願い事が口から零れてたのを私は聞いてたから。……誰にも話せない、自分にしかない不思議な記憶があるんでしょ?」

「な、何で……」

 愁次は目に見えて動揺していた。何故ここでその話が出てくるのか、何故小野寺から告げられるのかが理解出来ないと、口を開けたまま硬直している姿がそれを物語っている。

「実は私にも、人には言えない記憶があるの。昔、親友だった人がある日突然、消えてしまった……。村の人に聞いても、誰もその子のことを知らないの。不思議でしょ。どうしてだと思う? その子は、ある謎を解いてるって私に言ってきた。私はその時深く考えずに適当にあしらったけど。そしてその子は数日後……消えた。あの子が生きた痕跡も全て、ね……」

「それは誰、なんですか……」

「……愁次くん。ありえない記憶なんて無いよ。あなたに残ってるなら、それはその人が存在していた証。生まれた場所が無くても、生きた痕跡が無くても、皆が覚えていなくても、あの子は私の中で生きてる。それは私だけが知ってること。あなたのその記憶も、そういうものなんじゃない?」

「っ……」

「だから私は巫女になった。私が変なのか、世界が変なのか、それが分かった。……知りたい?」

 それは愁次にとって、この三年間追い続けてきたものだった。

 専門的な知識を学ぶことよりも、色々な仮説を立てることよりも、今目の前にある問いかけが愁次には、ようやく見つけた糸口だった。

 誰にも話せず不思議な記憶を十数年抱えてきて、それを解明するために色々なものを後回しにしてきた愁次。それが小野寺によって、解放されるかもしれない。

 それに対する希望と、どうして小野寺が似たような経験をしているのかという困惑と、色々なものがぐちゃぐちゃに混ざりながら、愁次は言葉を搾り出した。

「俺は……知りたい。俺に、本当に姉さんは……」

「条件。その遊び半分で関わってる謎解きから手を引くこと。そうしたら、その記憶の正体を、教えてあげる……」

 小野寺は振り返り、愁次を見つめた。それは本当に愁次を納得させる答えなのだろうか。

 過去に消えてしまったという小野寺の親友は、誰の記憶にも残っていない。その原因が、天照大神の謎にあると小野寺は言っているのだ。

 それはつまり、このまま謎解きを進めれば織恵が消えてしまうと言っているようなもの。しかし、求めて止まなかった姉の記憶を明らかにしたいという願いも、愁次にとって何よりも大切なものだった。

 それぞれの想いが両手に乗せられた天秤は、愁次の中で大きく揺れ動いていた……。



「お疲れさまー! また明日ー!」

 すでに日が沈み、小鳥居本家にも雪を照らす明かりが灯されていた。

 叶那と東吾は神姫祭の為にお手製の灯篭を制作した。それを片手に、二人並んで帰る姿は親子のようである。

 時刻は六時過ぎ。あれから一時間ほどで制作は終了した。まだ時間的には夜と呼ぶには些か早い気もするが、この季節は日の入りも早くこの曇り空も相まって、辺りはもう街頭の明かりなしでは心許ないだろう。

 二人を見送った織恵は、愁次から頼まれているものや神姫祭の準備をする為に、もう一度作業場に篭ろうと思っていた。

「お疲れ様、小鳥ちゃん」

 扉を閉めようと手を掛けたとき、聞き覚えのある声がして織恵は顔を上げた。

「あ、楠木先輩。お疲れ様です。打ち合わせ終わったんですか?」

「あれ、知ってたんだ? まぁ祭りも近いからね。前も言ったけど責任者だから色々決めることも多いよ」

「今日はお婆ちゃんも行くって言ってましたから。若いモンだけに任せておけないって。先輩も無理しない程度に、頑張ってくださいね」

 織恵は労わりの言葉を掛けながら、こんな時間に楓が訪れてきたことを不思議に思った。集会所で打ち合わせが終わったのなら、帰り道は逆方向のはず。祖母が帰ってきたところを織恵は見ていないが、楓の家は反対方向なのだ。

「ありがとう。小鳥ちゃん、ちょっといいかな?」

「……はい、何ですか?」

 日が沈めば急激に気温は低くなる。雪が降り出せば外で長話は出来ないと思い、織恵は作業場へ楓を招き入れることにした。

 作業場にはまだ、叶那と東吾が作業をしたままの状態で残っている。片付けくらいしていきそうなものだが、これはあえて織恵が残したのだ。体験教室のように大人数ではないし、これから作業する織恵にとって今片付けるのも、自身の仕事が終わってから片付けるのも一緒なのだ。

 それでも、道具は綺麗に揃えられ、紙も整理されているところを見ると最低限のことはしていったようだった。

 室内は暖房をつけていた為、ほんのり暖かい。楓の靴底に付いた雪がすでに溶け始め、小さく水溜りを作っている。作業場の床は土足で入れる為、特に大きな汚れではない限りそのままだった。それは紙作りの為に用意された場所を、季節によって配置換えしているからだ。この季節は外での作業が多いため、作業台は広く用意されていた。

「どうぞ。それで、話って何ですか?」

 織恵は石油ストーブの上で出番を待っていた薬缶を取り、急須にお湯を入れた。慣れた手つきで湯のみにお茶を注ぎ、楓にお茶を振舞う。

「うん、実は小鳥ちゃんに黙ってたことがあるんだ。これだけは言っておかなきゃいけないと思って……」

 楓はお茶に口をつけず、じっと見つめている。

「あの謎を解く為の、猶予の時間が決まってる。……僕は以前、似たようなことを経験してて、タイムリミットがあったんだ」

「……タイムリミット?」

「そう。あの謎は、神姫祭が終わるまでに解かなきゃいけない」

「え、解けなかったら、どうなるんですか……?」

 織恵は楓の告白に驚かざるを得ない。しかし、本当にそうならば悠長に情報集めなどやっていられないだろう。

「この村の伝承になぞらえて、〝〟にされる」

「雛流しって……。あ、分かりましたよ先輩。私を怖がらせようったって、そうはいきません。神姫祭で行う雛灯篭は、参列者たちがこの一年であった嫌なこととか、辛かったことを灯篭に込めて流して、これからの一年をまた新しい気持ちで生きていこうっていうイベントです。そうさせてくれる神様に感謝するお祭りなんですよ」

「……小鳥ちゃんは、神童って誰のことだと思う?」

 織恵が本来の神姫祭の意味を説くも、楓は表情を変えず話題転換をした。織恵はその様子に少し怪訝に思いながらも、渋々答える。

「し、神童? マユラのことじゃないんですか?」

「そうだね。……小鳥ちゃんは、忘れてるんだよ。いや、みんな忘れてるんだ。神姫村で神童と呼ばれているのは、マユラという子。そう誰もが口にする。でも違うんだ、神童と呼ばれていた人は別に居て……雛流しにされた」

「先輩の言っている意味がよく分からないです。雛流しにされたっていうのは、消えたってことですか?」

「僕は、〝〟んじゃないかと思ってる。小鳥ちゃんはこの三年間村を出ていたから分からないかもしれないけど、色々なことがあったんだよ。そしていつも、あまぎり会が関与してるんだ。村の調整役で黒子を演じる雨霧家が、裏で暗躍してるのは間違いない。おかしいと思わないかい? 祭事は小鳥居家が昔から担っていたはずなのに、いつの頃からか、あまぎり会が主導になってる」

「それは、そうですけど……」

「僕は三年前、ある人が居なくなったことを覚えてた。でも皆、彼女がいたことすら覚えていないんだ。その時思った、彼女はある謎を解いてるって祭りの前に話してたんだ。それが解明できなかったから消されたんだって。だってそうだろう? 伝承どおりじゃないか、天照大神の謎が解けなかったら生贄にされて、その代償に皆の記憶を食べてしまうんだ。ヤツらにとってその謎は公には出来ないもので、伝承を利用して〝ミヅキ〟を消した。だから今も騒いでる。幣殿が滅多に開けられないのも、何か表に出せないものが隠されてるんじゃないかな……」

「ぁ……」

 織恵は絶句した。楓が雨霧家を疑っていることを初めて知ったのだ。

 演技しているようには見えない。しかし、織恵が何よりも驚いたのは、消えた記憶についてだった。それは、織恵自身のものではない。かつて愁次が、そのようなことを仄めかしていたことを思い出したのだ。

 三年前、村を出る少し前に、愁次は自らの不思議な記憶の正体が知りたいと言っていた。その為に、大学に行くのだと……。しかしそれ以降、愁次がその話をすることは無かった。

 愁次に姉が居たという話は、織恵には無い記憶だったから。


 誰も知らないのに、自分だけが知っている記憶――。


 その不可解な現象は、さらに昔、織恵たちが小学生の頃に遡る。

 愁次が一時、ひどく気落ちしていたことがあった。不思議に思った織恵は愁次に問うと、不可解な記憶に苛まれているという。

 自分には姉が居たはずなのに、姉が居なくなってしまった。両親に聞いても、お前は一人っ子だと言われ、村の人に聞いても姉を知る者はいない。

 そして織恵にも、愁次に姉がいたことは覚えていなかったのだ……。

 当時織恵は、愁次がどうしてそこまで、居ない姉にこだわるのか分からなかった。それでも日々陰を濃くしていく愁次の表情が見るに耐えなくなり、献身的に寄り添うことにした。

 それから愁次は、徐々に不可思議な記憶は気のせいだと思えるようになり、織恵の存在は立ち直るきっかけになったのだった。

 情緒不安定だった愁次の心は安定を取り戻したかのように思えたが、その奥にはずっと消えない記憶を抱えていて、自身を大学で学ばせるに至った。


 そういったものが織恵の頭の中に去来していたため、楓の言葉を否定出来ないでいた。

「どうしてこの村では、姫という存在が神聖視されてるんだろうね……。どうして今、この村には〝二人の姫〟がいるんだろう」

「……」

 織恵は答えられない。神側の人間として、祭事という明るい世界を見てきた織恵には、鬼側で生きてきた楓が抱える闇に立ち向かえる言葉を、持っていないのだから。

「僕は小鳥ちゃんに消えて欲しくないんだ。だからもう、あの謎を解くしかない」

「私、は……」

 織恵の心が揺れる。今まで気がつかない振りをして抑えていたものが、胸から、口から溢れ出すかのように心臓を強く脈動させた。


 執行猶予は、残り数日――。

 神姫祭が終わるまでに、この謎が解けなければ織恵は……消える。

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