四、カミとキが重なる村
この地域に古くから伝わる伝統工芸品、木彫り細工の銘柄である。花明家はその昔、天皇への貢物としてこの木彫り細工を献上していた。この土地を治める大名は、この洗練された美しい彫り物に甚く感動したそうだ。着色をせず、イチイの木目を活かす木彫りは年月を経ることで自然と色が深まり光沢が増していく。その不思議な変化は古ければ古いほど色合いの変化を楽しませ、置物としてお偉い方を喜ばせたという。後に花明家の名は知れ渡ることになり、この地域の木彫り工芸といえば花明、という地位を築くに至った。
それからというもの、当時、神姫村に住んでいた花明家の一代目はお上への献上物としてだけでなく庶民も扱える茶道具や人形、食器なども手掛けるようになり、この地域に広く浸透していった。また、神姫村には伝統的なお祭りがあり古くから多くの神様に愛されているものであった為、能面も神聖なものとして花明の者が彫ることになったのだ。
花明家の栄達は、高価な貢物としてだけでなく庶民にも愛された所にある。その二足のわらじは見事に足並みが揃い、今でもその信念は愁次の父親の代まで受け継がれていた。
近年、神姫村にも観光客が訪れることが多くなり、お土産として花明一刀彫の工芸品を求める人も少なくなかった。節句人形や、兜、動物の置物、また根付などの小物類はお土産の定番になるほど人気商品となっている。
特に動物の置物には、動物霊が宿り神に迎えられるという言い伝えから神姫村ならではの付加価値も相まって、観光客を大いに喜ばせていた。
そして、愁次にとって花明の名を継ぐことはその伝統を受け継ぎ守っていかなければならない。守ることは即ち、父親の築いてきた歴史をそのまま引き継ぐことではない。もっと遠い昔、先代たちの歴史を見れば分かるように初代からこれまで、時代の移り変わりと共に花明の木彫り工芸も様々な形に変えてきた。
だからこそ、愁次の時代には愁次にしか出来ないモノを作っていかなければならない。
〝伝統を引き継ぐということは、今の形を壊すことを躊躇ってはいけない〟
それが、愁次の父親――誠一がいつも愁次に言っていることだった。だからといって、歴史から学ばず無闇に新しいことを始めれば良いということではない。
継がなければいけないのは「志」であって、形ではない。十人十色あるように、誠一の形を愁次自らの形に変えなければいけないのだ。そこには必ず、先代から受け継がれてきた志があって然る。それが理解出来た時、愁次は自らの言葉で伝統と向き合うことになるだろう。
今の愁次は大学を卒業するまでに、その答えを出さなければいけない。それが分かっているからこそ、愁次は自ら能面を彫ることを決めたのだった。
「……おはよう、父さん」
朝の作業場はシンと静まり返り、数十本はあるノミの手入れをしている誠一の姿があった。この時期は砥石も底冷えし、押さえる手は赤く小刻みに震えている。それは熱を帯びて血流が良くなっているのではなく、冷たくかじかみ身体の防衛本能で体内の熱を冷えた指先に循環させているのだ。
愁次は石油ストーブにマッチで火を点けて、誠一の脇に座った。
「おお、愁次か。おはよう」
この作業場は、商品の陳列棚と同じ広間にある。主に母親――美智代がレジに立ち、誠一はここで来客に挨拶を交わしながら作業をしていた。そんな日常は今も昔も変わらず、あと小一時間もすれば観光客が訪れ、ささやかな賑わいを見せるに違いない。
「あのさ、手ぶらじゃなんだから能面を掘ってきたんだ。見てくれないかな」
「ほう、見せてみなさい」
愁次は仕上げた能面を自信を持って誠一に渡す。愁次が彫ったのは男系と呼ばれる能面。女系と同じく当時の男性の顔を特徴的に捉えて形成されている面だ。別名、童子とも呼ばれ永遠の若さを表現した能面であり、同時に少年のような無垢な表情をしているものだ。
この面は今の愁次にとって自戒する意味でも彫るに値するものであった。一定の技術は習得しているものの、まだまだ芸術と呼べるほどのものではない。これからさらに成長していく為にも、驕らず、腐らず、自分の未熟さを忘れずに研鑽するという意味も込められている。
ひとしきり眺めた誠一はその意を汲み、一つ頷いて。
「腕は鈍らせてはいないようだな。ただ、まだ表情が硬い。口角の彫り込みが甘いんだ。きっと、愁次も難しい顔をして彫っていたんだな」
ふっと口元を緩ませ、愁次を見る。誠一は愁次が彫っている様子すらも見通しているようだった。一所懸命ながらも、良いものを彫ろうとして夢中になっていたのだろう。しかし、彫り師の心情が作品に表れることを誠一はよく知っていた。だから静かに諭す。
「綺麗に彫ろうとしなくていい。良いものを作ろうとすればするほど、愁次は肩に力が入る。見てみなさい、この神様は幸せそうに笑っとるか? 難しい顔をして、何か複雑な悩みを抱えておるように見える。能は芸だ、芸は人を楽しませる。織恵ちゃんを思い出しなさい、あの子はこの村を元気にしてくれるよ」
「父さん、織恵は女だよ。童子の面は男性をモチーフにしたんだ」
「いやいや、男は女性に幸福をもらう。だから幸せを感じられるんだ。その時、こんな表情はしないだろう? この神様も、女系の神様に幸をもらい表情も綻ぶはずだ」
誠一は職人ではあるけれど、無口で背中で語るような気質ではなかった。修正は言葉で教え、技術は惜しまず伝えた。まるで、早く自分の所まで上ってこいと言わんばかりの指導である。
自分の経験してきたことを、そのまま愁次に試練として与えるのではなく辛かったことや失敗したことは予防線として教え、出来ることをとことん伸ばしてきた。だから愁次の成長は早く、一通りの彫り細工は手懐けるようになった。躓いた時は考え方から教え、愁次の自力で克服させてきた。今店にある彫り物くらいであればどれも彫ることが出来、商品として出しても恥ずかしくないと誠一は思っていた。
だからこそ、そろそろ愁次にも大きな仕事を経験させようと考えていたのだろう。
「愁次、今年の神姫祭で姫が被る能面を作ってみないか?」
「え……俺が?」
愁次は少し驚いた表情を見せるが、ぐっと拳を握った所を見るとやってみたいという好奇心の方が強そうである。誠一は深く頷くと、立ち上がって過去の能面を取り出した。
「鬼の面と、神の面。それから、今年は小麻が必要らしい。小麻は小鳥和紙を使うから織恵ちゃんに頼んでもいい。どうだ、やってみないか?」
愁次は一度目を閉じた。しかしそれは、考え込む様子ではなく武者震いを抑えるような間であった。いつかはこの日が来ることを愁次は予想していたが、それが三年振りの帰郷をした今回になった。多少の不安はあるものの、それが良い緊張感となって愁次を後押ししていた。
「ああ、やってみる! どれから手を付けた方がいい? 鬼の面から?」
「まぁ慌てるな。順番に教えよう。まずは、神の面を――」
すでに室内はストーブの熱でほんのり暖かくなり、愁次の熱も相まって空気が手を邪魔することはなかった。朝御飯の準備が出来たことを告げようと美智代が顔を出したが、二人が熱心に作業場で話している所を見て、もう少し後にしようと部屋へ戻っていった。
ノミを研ぐ愁次の手は、期待と高揚でほんのり赤く染まっていた。
しばらくして、朝食を終えた頃。
お店の開店時間を迎え、観光客がちらほらと来店していた。いつものように、美智代は商品棚を整理しながらレジに回り、誠一は依頼の品物を彫っている。愁次はというと、朝方誠一から託された姫が被る能面を彫ろうとしていた。
しかし、いざ彫ろうとしたところで愁次の手は止まる。今まで誠一が作ってきた面をそのまま彫れば良いのだが、何か趣向を凝らしたいと考えていたのだ。それは昨日、楓の話を聞いたときから愁次の中で小さく芽生えていた気持ち。若くして神姫祭の指揮を執るという大役を任された楓。さほど歳が変わらない近しい人が、大きな仕事を任された為に触発されるものがあったのだろう。
この時誠一はあえて黙して、自分の作業に当たっていた。もとより愁次の納得のいくようにやらせるつもりだったのだ。考えがまとまるまで水を差すまいとして、息子の成長を見守るように微笑をたたえていた。
「こんにちはー!」
一際元気に来店したのは、とても可愛い客だった。まだ中学に上がったかどうかというくらいの男の子二人組。彼らは商品棚に陳列されている彫り物を眺めながら、ひそひそと何かを話している。
買い物に来たのなら、その芸術に一喜一憂し気に入ったものを手にとって購入していくだろう。しかし二人組は何やら難しい顔をして、じっと商品を眺めている。
不思議に思った美智代は声を掛けようとしたが、他の客が精算に来たのでレジに戻り横目で様子を窺うことにした。彼らの漏れ聞こえる声から察するに、作品に感嘆したり、自分たちにも作れたりするのかという好奇心、そして「俺はこれが作りたい」という具体的な作品まで決まっているようだった。
そうして美智代がしばらく聞き耳を立てていると、一人の男の子が弾けるように言い放つ。
「俺、決めた!」
買うものが決まったのかと思い美智代はレジで待っていたが、レジの前を通り過ぎ向かった先は、誠一の居る作業場であった。
「おじさん! 俺もコレ作りたいです!」
少年が手にしていたのは、
誠一はその行動に驚きもしたが、普段から木彫りの体験教室もやっている為、花明一刀彫に興味を持つ者は大歓迎だった。しかし、いつもと変わらず自分が教えてしまうのも味気ない。そこで誠一は考えた。三年振りに帰郷した愁次に、二人を任せてみようと思ったのだ。
「……おお、そうか。でもごめんなぁ、今日は体験教室の日じゃあないんだ」
「ええ……」
「だが君らは運が良い。今日は遠い所で勉強していた先生が帰ってきておる。特別に、二人は先生に教えてもらうといい。愁次?」
構想を練っていた愁次は不意をつかれたように振り向いた。
「先生!? 俺にこれの彫り方教えてください!」
「え、ちょっと待った! どういうこと!?」
「僕もお願いします!」
瞬く間に詰め寄られた愁次に逃げ場は無い。困惑する愁次をよそに、誠一は話を進めてしまう。
「愁次、二人に簡単な彫り方を教えてあげなさい。二人も慌てなくていいから、しっかり教わりなさい。ほら、道具はここにあるから隣の作業台でやってごらん」
そう言って誠一は、必要な道具と程度の良いイチイの廃材を二つ用意した。
もちろん愁次が人に教えるのはこれが始めてである。しかし、学ぶ側から教える側に至るのは人の営みの中では常であろう。伝統とて、そうして受け継がれてゆくものだ。
誠一も愁次が生まれる以前から体験教室を開催していて、人に教える難しさを痛感していた。教えるということは、一筋縄ではいかない。自分が理解していることをそのまま教えたところで、相手が正確に理解しているとは言い難い。ましてや相手は、ノミの持ち方すら知らない子供である。
相手に教えること、伝えること。それは経験によってしか磨かれないことを、誠一は知っている。だからこそ誠一は、そうした試行錯誤の末に今の教え方に至ったのだ。それは相手によって変わってくるもので、愁次には特別苦労したというよりも、愁次に合った教え方を選んだといった方が正しいのかもしれない。
だから最初から愁次が、この少年二人に対して上手に教えられるとは誠一も思っていない。あくまで補佐として、三人の作業を見守ろうと考えていた。
「あっ、待て待て! そうやったら危ないってさっき教えたろ? もし刃が滑ったら、自分の手に刺さっちゃうからな。左手はこう持って……そう、いい感じだ」
「先生、ここ変になっちゃったんだけど……」
「あぁ! ここは彫らないようにってさっき言ったろ? 鼻がえぐれちゃったか……。そしたら、こっちのノミに持ち替えて――」
作業を始めておよそ十分。愁次は道具の扱い方と注意点を説明してから、少年二人に作業を教えていた。実際に二人は人生初の木彫り体験である。取り組む姿勢は真剣そのもの。
しかし、その真剣さとは裏腹に、案の定愁次の言葉はなかなか伝わらず四苦八苦していた。その様子を誠一は遠巻きに眺めながら、微笑ましく思う。まるで自身の若い頃を思い出すように、自然と頬が綻んでいた。
「愁次、ゆ~っくりでいいぞ。焦るな焦るな」
「そうなんだけど……。あ、母さん! 絆創膏持ってきてくれる?」
どうやら持ち方を注意された子は、少し指を切ってしまったようだった。しかしそれもまた教訓。次はどのような持ち方をしたら指を切らずに済むか、少年は考えるだろう。
愁次の言葉を失敗によって自分に落とし込む。それは、彼らにとってさらに上達の助けになるだろう。教える側の愁次は、自分の伝え方の何が悪かったのかを分析し、また違う生徒を迎えた時には違う言葉を選び伝えるはずだ。
そうして切磋琢磨していくことで、お互いに成長していける。初めは誰でも不器用ながら一つずつ克服していくものだ。愁次は今まで自分の中で理解していた方法で、相手が上手く出来なかったとき、教えることの難しさを知る。そして、少年たちは失敗しながらも段々と自分が彫りたかった作品が出来上がってきて、作ることの楽しさを学ぶ。
さらに誠一は、愁次には教えることの楽しさも見出して欲しいと考えていた。それはこれから伝統と向き合ったとき、愁次の時代らしいものを作って欲しいと願っているからだ。誠一から教わったことだけでなく自分の言葉で誰かに教えれば、足りないものや新しい発見と出会い、さらに花明一刀彫の伝統はまた表情を変える。
その助けとなるのが、今愁次が必死に伝えようとしている〝人に教える〟ということだった。
「おお! いい感じじゃないか! そうそう、そうやって持てば危なくないだろ? しっかり力も入る。もうちょっとで完成だな」
「先生、ここはどうやって彫ったらいいですか?」
「お、どの部分だ? ここはな、角度を変えて……こうやって見るんだ。そうすると、彫りたい場所がはっきり見えるだろ? そこにまっすぐに当ててやる。ほら、こんな感じ」
「すげぇー! 先生職人みたい!」
「はは。こ、これでも一応、先生だからな」
褒められれば誰でも嬉しくなるものだ。愁次は、自分の言った事が少しでも伝わったことに安堵して、おどけてみせる。
気分を良くした愁次は見本を作るために、もう一つイチイの廃材を持ってきて自分でも実演して見せた。それは無意識だったのかもしれないが、言葉や身振りだけで伝わらない部分というのはどうしても出てしまう。その時に見取り稽古というものがあるとおり、それを補う為に実際に作業中の所作や、作業後の形を見せるやり方がある。
見ての通り、愁次はこの短時間の間にもしっかり成長していたのだ。意図があったにせよ無かったにせよ、少年たちは愁次の姿を見てより一層理解度は上がったことだろう。
「お父さん、何ニヤニヤしてるのさ」
「いや、はは……。予想以上だったな。これならいつでも愁次にこの店を任せても良さそうだな」
「ふふ。お父さんにはまだまだ現役で居てもらわなきゃ困るよ。そうさねぇ、次は……ウチの守り神様でも彫って頂かんとね」
美智代は誠一の肩を叩いて景気付ける。もちろん、誠一も職人として腕が動かなくなるまで彫るのを辞めないだろう。将来、ノミを置く時がやってきたとしてもその頃にはこの店も、愁次の手掛けた作品で溢れかえることになるはず。
そうなった時は、愁次の子――孫もあの少年たちのように彫り物を楽しんでくれるだろうかと、誠一と美智代は未来に想いを馳せていた。
「二人とも! ちょっと手を休めて見てくれ。ここの部分だけど――」
愁次の講義は続く。教えたいという思いが無ければ、自ら言葉を発することはないだろう。それくらい今の愁次は、この少年たちに自分の持てるものを伝えたいと思っているに違いなかった。
それからしばらく時間が経った。
おそらく愁次や誠一ほどの腕前になれば、卓上置物の簡易的なものであれば一時間もせずに仕上げられるだろう。
それを少年たちは三時間ほど掛けて彫り抜いた。時刻はそろそろお昼を迎えようとしていた。一所懸命に夢中になる少年たちも、教える愁次も時間を忘れて作業をしていたのだ。
「先生ー。大体出来たー」
「うん、二人ともいい出来になってきたな。それじゃあ、最後の仕上げだ!」
「僕、手が痛くなってきちゃったよ」
「最後だから頑張れ。ひっくり返して底の面に、自分の名前を彫るんだ」
花明一刀彫の特徴は、鋭利な彫り跡や木目を活かしてそのまま残すところにある。それが長い時間を掛けて、じわりじわりと色に深みが増していく。したがってヤスリでこするという仕上げはしない。
この仕上げの作業は、魂を込めるという意味で名前を刻む。愁次が一番大事にしている工程だった。
「二人にとってこれが初めての作品だ。ちゃんと気持ちを込めて彫るんだぞ」
「はーい」
二人は最後の仕上げを今まで以上に真剣な顔付きで彫った。その横顔を見て、愁次はホッと胸を撫で下ろす。初めてとはいえ、今出来る精一杯を愁次も尽くしたのだ。言葉が足らない部分や、もっと細かい拘りなどはこれから伝えていけばいい。
一人で一つの作品を彫り上げる達成感とは違うものを愁次は感じていた。その表情は心なしか満足気だった。
「出来たー!」
二人は同時に歓声を上げる。
「はーい、みんなお疲れ様。ちょっと休憩しましょ。お茶でも飲みなさいな」
美智代がお茶とお菓子をお盆に載せて持ってきた。子供たちは作業場に自分の作品を置き、美智代に群がる。
「はは……現金だな」
愁次は軽くため息をつきながらも、表情は柔らかい。
「どれ、二人の彫ったものを持ってきてみなさい」
誠一は少年たちの作品が早く見たいようだった。お菓子に手を伸ばそうとしている二人は思い出したように駆け戻り自分の力作を持ってくる。
「おじさんこれ! 俺が彫ったやつ!」
「僕のも見て!」
「そうかそうか、順番に見るからな。……ほほう、これはなかなか」
「やったぜ!」
誠一は二人の作品をまじまじと見つめ、ここは良い、こちらはもっとこうしてみたらどうか、などと楽しそうに談笑していた。まるで孫と戯れるおじいちゃんである。
愁次は遠目にそれを眺めながら、お茶を飲む。これで愁次の仕事は一段落した。いつもは誠一が体験教室をやっていた為、自身は参加したことは無かったが教えることの楽しさが芽生え始めた愁次はまたやりたいとすら感じていた。今回は臨時とはいえ、愁次にとっても大きな収穫になっただろう。
「お疲れ様、愁次。最後の方見てたわ、様になってたじゃない」
声の主は魅月だった。普段どおり艶やかな着物を着ており、一切の無駄を感じさせない仕草で小さく笑ってみせる。室内の温かさで愁次たちは上着を脱いでいたが、外から来た魅月は上着を羽織っていた。
傘の接地面が少し濡れ広がっているところを見ると、どうやら外は雪が降り出したらしい。
「あ、魅月さん。こんにちは」
「こんにちは。これを一つ頂けるかしら」
魅月が手に持っていたのは、花明店の商品だ。財布にぶら下げられるくらいの小物で、猫の顔が彫られているものだ。
花明家の商店へはふらりと訪れ、まず間違いなく猫の意匠が施されたものを買っていく魅月。愛猫家と噂されるほど魅月は猫を好いているが、愁次は雨霧家で猫と遭遇したことは無かった。だから愁次の中で魅月は旧家の娘というのを抜きにしたら、定期的にお店で猫の商品を買っていく客、という認識が強かった。
誠一の話では、部屋に一つ飾りが欲しいという依頼で猫の置物を頼まれることは何度かあったそうだ。年頃の女性ならぬいぐるみを欲しがりそうなものだが、猫に囲まれているのなら置物でも構わないのだろう――愁次はそう思っていた。しかし、魅月の自室を愁次は見たことがないので、猫のぬいぐるみがたくさんあるのかどうかは定かではない。
今回は猫の顔に一つ鈴が付いていて、軽く振れば涼やかな音がする。精算が終わったら早速財布に括り付けていた。
「三年振りに帰ってきたのに、早速お仕事なんて大変ね」
「そうでもないですよ。まぁそれなりに楽しかったですし。でも今年は大きな仕事がもらえたんで、そっちの方が楽しみではあるんですけどね」
「大きい仕事?」
「実は、今年の祭りで使う能面……鬼姫と神姫が被る能面を俺が作ることになったんです。魅月さんが被るのも精一杯作るんで楽しみにしててください」
「あら、それは楽しみね、ふふ。でもしっかり作ってね、ごつごつしたのとか嫌よ?」
「大丈夫ですよ。面は付けるのを前提に彫りますから、内側はちゃんとケアします」
愁次は今回、帰郷の際に彫った男系の面を自分でも被ってみた。その時の付け具合や目の高さなど、被る人を想定しなければ面として作品とは呼べないと痛感していたのだ。
愁次は、ぶっつけ本番などではなく何度か試着してもらおうと考えていた。
「だから、形が出来たら何度か被ってもらって、気になる所を細かく調整しようと思ってるんです。その方が魅月さんも、安心出来ますよね」
「そうね、そうしてもらえると有難いわ。……変なの作ってきたら、本気で怒るから。覚悟しておいてね」
「だ、大丈夫ですって! 信用ないなぁ」
「冗談よ、ふふふ」
愁次にとって魅月は年上の出来るお姉さんという印象だった。何枚も役者が上で、話のペースはいつも魅月が主導権を握る。
口元で魅月の笑顔が鳴った。それは先ほど財布に付けた猫の鈴の音だ。口元に手を添えて、小さく笑う仕草は相変わらず美しい所作であった。
この大仕事に対して、魅月なりの激励だったのかもしれない。愁次はそう感じながらも、口には出さなかった。
「あと、今年は小麻も新しく作るみたいで、これからちょっと織恵の所に行ってこようと思います」
「あ、そうね……。それが良いと思うわ」
小麻が必要になったのは例の件が絡んでいることを魅月も知っていた。何か思う所もあるのかもしれない、薄く目を閉じ流し目で視線を落とす様は絵画に描かれた四季美人のようだった。
「織恵は、何か言ってた……?」
そう言って見上げた魅月に、愁次は一瞬ドキリとさせられる。当人は意識していないのだろうが、何かを探るような上目遣いに愁次は目を合わせられなかった。
視線を泳がせて言う。
「い、いや。特には何も」
「そう……。それじゃあ、私はもう戻るわ。お面、楽しみにしてるからね」
「はい、ありがとうございました」
愁次は形式的な挨拶を返していた。それは決して冷たくあしらったのでなく、いつも花明店をご利用頂きありがとうございます、という意味を込めてのものだ。魅月も颯爽と扉を開けて退出するところを見ると、目的は達成されて満足ということなのだろう。
「俺もそろそろ、織恵の所に行ってみるか」
もうお昼時ではあるけれど、愁次は早めに用事を片付けたいと思っていた。小麻もだが、二つも能面を彫らなければいけない。その為の時間が惜しいのだ。
昼食は帰ってから食べると言い残し、愁次は家を出た。
小鳥居神社から程近い、宿泊施設の隣に小鳥居本家は鎮座していた。
その佇まいは他の旧家に見劣りしない立派な茅葺き屋根である。小鳥居家は、神姫村の四大名家――雨霧家、花明家、水沢家、小鳥居家――に名を連ねているが、祭事を任されることになったのは、元より神と同じ音を踏む〝紙作り〟を営んでいたからだった。それくらい神姫村にとって紙というのは神聖なものだと考えられている。
それは花明一刀彫と並ぶ伝統文化であり、およそ八百年の歴史があると言われている。その製法は他の紙とは異なる。神姫村独自の製法が、今なお受け継がれていた。
材料は
また様々な工程があるが、今月一杯は雪晒しに掛かりきりになるため小鳥居家では、紙作りの体験教室としてこの作業も子供たちと一緒に行うことも少なくなかった。
時間は少し遡り、雪雲が空を覆う中その裏側には太陽が昇り、朝というには少し遅いくらいの頃。小鳥居家の前庭には織恵を中心にした人垣が出来ていた。
今日は小鳥居本家で紙作りの体験教室の日。地元の子供と観光客の家族が歴史ある伝統文化に触れようと多くの人が集まっていた。割合にして、今年は地元の子供よりも観光客の家族の方が多そうである。
朝からこれだけの人が集まっているのは、神姫村で宿泊している観光客が多いからだろう。神姫村にある宿泊施設は三軒あり、一戸十室前後だが、家族で泊まるには十分な広さがある。小鳥居家の近くの旅館は、神側の家系――
都会の人には神姫村の古民家は珍しくもあり、そこに泊まりたいと思う人も少なくなかった。村人の中にはホームステイを受け入れている所も多々あり、季節問わず観光客は足しげく訪れている。
特に神姫祭を控えたこの時期は、一年を通しても一番人が集まるといっても過言ではなかった。また、年々観光客が増える傾向にあるので村の宿泊施設をもう一つ増やそうかという話も持ち上がっている。
このように、神姫村は織水市に属しながらも未だ〝村〟という名前を残しているのは観光地としての景観維持と、宿泊産業が確立されているからであった。
織恵は地元を愛していたし、もっと多くの人が神姫村に訪れて欲しいと思っていた。
その為には、伝統の対を成す花明一刀彫と共にこの小鳥和紙も、若い世代に広く伝えていきたい。その熱意は、本家の体験教室で先生役を引き継ぐということにも繋がっていた。
「おはようございまーす! 今日は皆さん集まって下さってありがとうございます!」
織恵の第一声は、曇天を明るくさせてくれるような爽快さで、朝の冷たい空気を響かせた。口元の白い息を見ると空気は決して温かくはないけれど、元気な織恵の姿を見ていると観光客も自分たちだけ震えてはいられないと思うようだ。特に子供は反応が素直に返ってくる。寒いだの、早くだの、何をするだの、織恵が全て聞いていたら倒れてしまうかもしれない。
しかし、小学校の先生というのは一クラス三十人前後の児童を同時に相手する。それを思えば、織恵が目の前にしている人数はそこまで多くない。加えて保護者がいてくれるのだから、その負担は比べるものではないのかもしれない。
今日は織恵の他に、祖母の
「はーい! 早速やっていきます。今日はまず初めに、雪晒しをやります! ここに準備されてる楮を一人一束ずつ持ってくださいね! あ、小さい子たちはお父さんかお母さんに一緒に持ってもらってね~」
織恵はさながら小学校の先生だ。愁次に比べ、織恵は人に教えることに躊躇いはなく進んで前に出ていくようで、その楽しさは身をもって知っているようだった。
子供たちは織恵に続いて、楮を持ち上げる。子供とは言っても年齢層は幅広い。小学生くらいの子から織恵と対して変わらない高校生くらいの子もいた。その後ろには観光客の大人たちも続いている。列を作って移動する様は、まるで授業参観である。
本家の裏手へと回ると、見渡す限りの雪原が広がっていた。村内の路面は綺麗に除雪されていたが、こちらは降った雪がそのまま放置されているため積雪表面は絨毯が敷かれているように綺麗に平らになっている。
「それじゃあ、私が先に進みますから一列になって並んでくださーい!」
織恵の号令と共に雪原を進むと、平らに敷かれた絨毯は人跡により窪みが出来る。そして、正面は自然と畑の畝のように盛り上がり、ここに置いて下さいというように雪のテーブルが出来るのだった。
「さぁ、自分の正面に優しく置いて下さーい。あっ! そこ! 乱暴に投げない!」
遊び盛りの子供たちの一部が、楮を雪に投げつける。目ざとく発見した織恵はすぐさま駆け寄って注意した。
「楮は千切れやすいから、ちゃんと優しく扱ってね。今みたいに投げないように、いい?」
「ええー。こんな茶色いのがホントに白くなるの?」
「なるの! でも千切れちゃったら綺麗に染まらないから、しっかり伸ばしてあげないと駄目なんだよ?」
「ふぁーい」
分かったのか分からないのか、気の抜けた返事をする子もいる。織恵は肩をすくめたが、後ろから袖を引っ張る少女に気づいてしゃがんで目線を合わせた。
「先生、もしかして、あれになるの?」
少女が指差したのは、本家の裏側にすでに雪晒しが終わった楮だった。
「そうだよ。皆さーん! 後ろを見てください、今はまだ茶色ですが、二週間もすればあのくらい白くなります。あれだけ綺麗に染める為にもしっかり丁寧に並べましょう!」
そうして一回目の搬送が終わったが、雪晒しにしなければいけない楮はまだまだたくさんある。もう一度戻って、また一人ずつ束をもって雪に晒す。それを五往復くらいしたところで外での体験は切り上げるのだ。
ある物全てをこの雪原一杯に並べようものなら、一日掛かってしまうだろう。今日は雪晒しと他にもやらないといけないものがある為、ここで終わりになる。
雪晒しは作業工程のほんの一部に過ぎないが、その作業に触れることで紙一枚作るのには大変な作業があるということを知るには、良い工程なのかもしれない。また織恵は、多くの人に手伝ってもらうことで高齢になった祖母の負担も、出来るだけ減らしたいと思っていた。体験教室という場を借りて、織恵も色々なことを考えているのだ。
そして、この時期の体験教室には必ずやることがあった。それは、神姫祭で使う灯篭を一人ずつ作っておかなければならない。本番当日に、灯篭を渡すことも出来るのだがそれはギリギリに来た観光客の為のもので、地元の人や前もって長めに滞在している人にはお手製の灯篭を作ることが慣例となっていた。
本家の作業場に移動した一行は、織恵の案内で各卓に散らばった。
作業台に用意されているのは、A4サイズほどの小鳥和紙だった。我先にと子供たちが椅子に座り、作業台を占拠してしまう。それもまた微笑ましい光景で、大人たちは自分の子供が何をするのか楽しそうに後ろから眺めている。
「それでは、神姫祭で使うオリジナルの灯篭を作りましょう! とはいっても、やることは簡単です。灯篭の枠組みは花明さんの所で準備して下さったので、皆さんにはウチの紙に好きな絵とか文字を書いてもらって、それを灯篭の外側に貼りたいと思います。灯篭の形は、この三種類! 好きな形が決まったら、それに合う大きさのものを描いてください。貼りづらい所はハサミで切って形を変えますので、絵とかはみ出ない様に気をつけてくださいね。それじゃあ、今座ってる皆からやっていきましょー!」
織恵の合図で一斉に灯篭の争奪戦が始まった。まずは枠組みの形を決めなければ、絵にしても文字にしても大きさが決められない。子供たちは次々に手にとって、好みの形を決めていくのだった。
「私この形がいい!」
「よーし、俺はこれにするー」
「この大きいやつがいい!」
「ああ皆大丈夫だよー! 灯篭の枠組みは皆の分あるから、ちょっと待ってねー!」
「先生! 私あの丸い形のがいい」
「先生~。僕はこっちの小さい方で」
「はーい! これだねー、どうぞ~。君はこっちだね、はーい」
枠組みは長方形、円筒形、台形の三種類。どれも上の部分から火を入れやすい形になっている。中央には蝋が立っていて、そこに火を灯すのだった。
子供たちに枠組みが行き届く頃には、最初に決めた子達は黙々と紙に絵を描いていた。その間に織恵はもう一つ作業台を用意して、大人たち用にサンプルを置いた。そうして大人たちも紙と枠組みを揃えて作業に取り掛かる。
色ペンと筆が用意されていて、まるで詩集のように達筆に文字を連ねる人もいれば、ペンで鮮やかに絵を描く人もいる。面白いもので、鮮やかな模様を描いて本物の古風な灯篭を作ろうとしている人もいた。経験者かもしれない。あとはそれを貼り付ければ完成だ。
皆が思い思いの作品を創作している雰囲気は、新しい何かが生まれる気がして織恵は好きだった。織恵も神姫祭で使う灯篭を作るだろう。しかし、一人で作っている時は自身の中で完結してしまって、誰かに見せるまでそれが目新しい物であるかは分からない。
だから、人がたくさん居る中でこうした創作が出来ることを織恵は少し羨ましくも思う。その空気に触れているだけでも刺激になり、面白い発想に出会えたときは嬉しくなってしまうものだ。
次は自分も体験教室の場で作ろうと心に決める織恵。しかし、それを知ってか知らずか少年の一人が問いかけた。
「先生! 先生の作ったやつは無いんですか?」
「え? あるには、あるけど?」
「見せて! どんなのやつか見たい!」
「私も見たいです!」
織恵は虚をつかれたが、そう思ったのも束の間。自分の作品が日の目を見るなどと思っていなかったので途端に嬉しくなり、二つ返事で了承した。
「う、うん! 待ってて、今持ってくるから!」
小走りに駆けていく織恵の後姿は、まるで何かのコンクールで賞を目指す少女のようだった。心のどこかでは早く誰かに見せたくて、うずうずしていたに違いない。
「はい! これが私の力作です!」
「おー! すげぇー!」
「先生綺麗! 私もこのお花描きたい!」
織恵自慢の作品は、花柄模様が施されたものだった。小さい頃から紙に囲まれていた為、書くものには困らなかった織恵は自然とペンを走らせるようになった。特に何かを決めて描くわけではなかったが、目に映ったものを模写していたり、当時好きだった花をデッサンしたりするのは、織恵の中では無意識の日常になっていた。
今でも花が好きな織恵はこの時期に咲くカトレアを描いていたのだ。様々な色があり、大きさも多様で、花弁がフリルのように優雅にヒラヒラしているのが特徴だ。それを織恵なりにアレンジを加えて、鮮やかな花柄模様を模っていたのだった。
「いいよ~、ちょっと難しいけど頑張って描いてみよっか」
「はーい」
織恵が横について子供たちに絵の描き方を教えている。ひょっとすると、今回の灯篭の多くは花柄が施されているかもしれない。それもそれで、ライトアップされた花園が湖に浮かぶことになるのだから、また違った華やかさが生まれるだろう。
織恵は浮かべる時のことを想像して、好きな花がたくさん見える光景に想いを馳せつつ子供たちの絵を笑顔で見つめるのだった。
気がつけば今回の体験教室は、最後に織恵の絵描き講座に変わっていて、子供たちも大層喜んでいた。本来の目的である小鳥和紙を伝えることや、神姫祭で使う灯篭も作れたのだから大きな収穫だったといえる。
織恵のように人当たりが良く、一緒に楽しむことが出来る人は子供たちの輪に入っていきやすく、また大人たちの評判も良かった。誰が言い出したのか、最終的に織恵は子供たちから「小鳥ちゃん」と呼ばれていて、十分に溶け込んでしまっていた。
いくら織恵が、せめて名前にして欲しいと言っても子供たちにとっては語呂が良く、呼びやすいのだろう。村の人たちと同じように、小鳥ちゃんで定着してしまった。
織恵は少し不服そうだったが、子供たちに気に入れられたのだから悪い気はしない。最後にちょっとだけ抵抗をして、良しとするのだった。
「はい、それじゃあ今日はありがとうございました! また今後も体験教室をやって参りますので、こちらへいらっしゃった際にはぜひ参加してみてください。あ、祭りの日には忘れずに持ってきてくださいね。村の子たちも、いつでも遊びに来てくださいね。〝織恵先生〟がちゃんと教えます」
「はーい、小鳥ちゃん」
「小鳥ちゃんが先生なら、また遊びに来ます!」
「もー! こんにゃろー! わざと言ってるなー!?」
「わぁー! 逃げろー!」
きゃっきゃっと子供たちが駆け回る。しかし、最後の挨拶だったのもあって大人たちは温かく拍手で締めくくってくれた。それに対して織恵は恥ずかしそうに肩をすくめて頭を下げていた。その表情は明るい。今回の体験教室がより良いものになったのだと、座っていた夏よも感じていたに違いない。
孫の成長を間近で見られることほど、嬉しいことは無いのだから。
それから程なくして、夏よは雪晒しの作業に戻り織恵は作業場の片付けをしていた。
先ほどの賑やかさが太陽ならば、この静けさは雪のようだ。ただ織恵にとっては、その静けさも太陽が溶かしてくれるような気がしていた。
自分の作品を見て微笑む姿を見れば、その表情から織恵の心が見て取れる。
「こ、こんにちはー……」
少しだけ扉を開けて、申し訳なさそうに顔を出した少女がいた。織恵は不思議そうに相手を見やると、見覚えのある顔のようだった。
「かんな……? 叶那なの?」
「あっ、織恵さん! お久しぶりですー!」
「おっと。ちょっと叶那、久しぶり! 三年振りだね!」
「はい! 今年はもう高校生になりますよ、あたし」
「そうだよね~。あれ、髪短くしたんだ?」
「織恵さんみたいに可愛くしたかったんですが、上手くいかなくて。でもこの長さ、動きやすくて気に入ってます」
「そっか~。私は少し癖っ毛だから巻いちゃうんだけど、叶那は綺麗なストレートだからその方が似合ってるよ」
「そ、そうですか? あは、嬉しい」
織恵は普段から髪を短めに保っていた。ショートボブくらいの長さで、肩には掛かっていない。本人も言っているとおり、毛先は軽くカールしていて首元は露になっていた。もとより織恵は快活で、運動部で身体を動かしていた為、うっとうしいからという理由で短くしていたのだ。髪色は明るく、染めてはいなかったが日光に当たると赤毛に近くなる。
対して叶那は、織恵の記憶では肩に掛かるくらい髪を伸ばしていた。直毛で艶のある黒髪だったので、織恵とは違う髪質である。今もその黒髪は綺麗に整えられているが、織恵に憧れていたのか長さは頬に掛かるくらいになっていた。
二人の馴れ初めはおよそ三年前に遡る。叶那も今日のような体験教室の参加者の一人だった。当時中学に上がったばかりの叶那は大人しく、黙々と作業をしていた。
そんな叶那に織恵が興味を惹かれたのは、黒髪に一際映える花飾りをつけていたからだった。聞けば叶那も花が大好きで、他にも花のヘアピンやカチューシャを持っていると聞きすぐに意気投合。文字通り、会話に花が咲いたのだった。
あれから三年。今日の叶那は花のカチューシャを付けていて、叶那の横顔はとても華やかであった。
「それより、今日はどうしたの? もしかして、灯篭作りに来たの?」
「あ、いえ! 実はおっちゃんから聞いたんです。噂の〝ワトソン君〟が帰ってきてるぞって」
「おっちゃん? ワトソン……?」
織恵の頭上に疑問符が二つ並ぶ。無理も無い、叶那と東吾に接点があったなんて織恵は知る由もないのだから。
「えっと、国中東吾っていう男の人、昨日会いませんでした?」
「あ、あー……そういえば、なんとなく」
織恵は記憶の片隅に合った東吾のことを思い出す。出会い頭になぜかワトソンと呼ばれたことも。どうやら叶那は、東吾のことを〝おっちゃん〟と呼んでいるらしい。
「なるほどね。どうする? お祭りも近いし、灯篭作ってく?」
「うーん、今日は挨拶に来ただけなのでこれで帰りますね。久しぶりに織恵さんに会えて嬉しかったです。お祭りまでまだ時間あるので、また遊びに来てもいいですか?」
「もちろんだよ! 叶那ならいつでも大歓迎! 三年も会わなかったんだからさ、卒業前に中学校生活のこと教えてよ。好きな子とか出来たんじゃないの~?」
「そ、それは内緒です! また今度話しましょう!」
そういって叶那は織恵から離れ、ドアの方へ向かう。
しかし、ピタリと動きを止めて叶那は振り返った。
「あ、そういえば織恵さん。一つだけ聞いてもいいですか?」
その声音はどこか冷たくて、織恵は一瞬戸惑う。
「何か、嫌なことでもありました?」
「……え?」
「……いえ、何も無いならいいんです。また来ますね、それじゃ!」
叶那は何を確かめたかったのだろう。織恵にはその意図が分からず、叶那が出て行った扉を呆然と見つめていた。
すると、また扉が開いて織恵はビクッと身構える。
「あれ、今の子誰だっけ……。見覚えがある気がするんだけど」
「……愁次?」
入れ替わり入ってきたのは愁次だった。愁次は叶那とは面識が無いようだ。村のどこかですれ違っていたかもしれないが、三年前も話すことは無かったのかもしれない。
「あ、今の子は
「そうか。それより、今ちょっと大丈夫か?」
愁次は明るく問いかけた。織恵は断る理由も無いので、一つ頷いて作業場の椅子を開けた。
「楓先輩じゃないが、俺も大きな仕事が入った。神姫祭で使う能面はうちが作ってるのは知ってると思うけど、いつも父さんが作ってたんだ。それを今年は、俺が作る」
「そうなんだ、すごいね!」
「でだ、今年は小麻も作らなきゃいけなくて、イチイの木は俺が用意するから紙垂の方を織恵に頼めないかと思ってな。一緒に玉串もある程度作っておかなきゃいけないから、そっちの紙垂もお願いしたい。頼めそうか?」
「うん、それは構わないけど……」
「よし! サンキュ。……ん? どうした?」
愁次は織恵の表情が陰るのを見逃さなかった。織恵も意識したわけではないのだろうが、先ほどの叶那の言葉が織恵に何か訴えるものがあったのかもしれない。
逡巡する織恵。愁次はじっと打ち明けられるのを待っていた。
意を決したように織恵は顔を上げた。
「実は……私も、聞いて欲しいことがあるの。どっちかっていうと、悪い話」
「……おう。どんとこい」
織恵はもう一度キツく口を結んでから、愁次の目を見た。
「あの、昨日の話覚えてる? ウチの神社の幣殿に、神聖な場所に入った人がいるって」
「ああ、開かずの扉か。大事な祭具が盗まれたらしいな……小麻だったか、それでうちが新しく作ることになったんだと思うけど」
「実はそこに入ったの……私なの」
「え……? でも、織恵は身内だろ。そんなに大事にはならないんじゃ……いや、そういうことじゃないんだな?」
「うん……。昨日先輩が言ってたみたいに、信仰のあつい人たちがカンカンなのは本当みたい。お祖父ちゃんもなんだか不機嫌だった」
「俺はあんまり幣殿の方に行ったことないから分からないけど、誰かに見られてたのか?」
「愁次聞いて! 私が行った時にはもう開いてたの! でも、私開けた覚えないのに、鍵持ってて……訳分かんなくて!」
「お、落ち着けって! 大丈夫だから」
「でもおかしいの……! 盗まれた物は小麻だって騒いでるけど、私が持ってきちゃったのは……
「なんだって……?」
愁次はまだ知らない。この掛け軸が、神姫村の深い闇に二人を突き落とすことを――。
織恵が見つけてしまった謎は、遠い昔から続く怨恨の連鎖であることを……。
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