三、疑惑
「……おはよう、私」
二月の寒波は今年もこの村を白く染める。目が覚めて身体を起こすと、窓から見える冬空は期待を裏切らず白いカーテンがなびき、その隙間を縫うように切々と雪が降っていた。
室内の冷え切った空気は私の頭を、新雪を踏み締めた時のような清々しい気持ちにさせてくれる。お陰様で私の寝覚めは良い。一つ伸びをして深呼吸をするのが、私が起きてから最初にする習慣だった。
ふと気がついて、胸元に視線を落とす。昨日、一時だけあった希望の膨らみは無い……。しかし、その膨らみに詰まっていたモノを考えると、パートナーが喜んでくれるようなモノではなかった。普段見慣れた緩やかな傾斜は、もう一度欲しいと後ろ髪を引かれる思いよりも、〝おかえり〟などと声を掛けたくなるような安心感の方が強かった。
決して、全く胸が無いとは言っていない。……おかえり、私。
実家に帰ってくると、この村の積雪も相まってまだまだ新芽が息吹く季節には程遠いと思ってしまうけれど、大学では「春休み」と呼ぶ。むしろこれから、素敵な空の贈り物が大量に送られてくるというのに、この村は春の訪れを先延ばしにされていた。
とはいえ、その地域性も地元に帰ってきたのだと実感させてくれるには十分過ぎるほど、私は三年振りの帰郷に浸っているのかもしれない。
もう三年も経ったのだ。何かに没頭するというのは、こうも時間の流れを加速させるのだろうか……。大学生活は楽しい。同じ大学でも学部が違えば見地の違う人とも接する。その中で私の分野は、地域社会に根付く人々の暮らしに対してコミュニケーションを通して諍いや誤解、様々な不和を紐解くことにある。その為には心理学的な見地からのアプローチも必要と考えて、学問として学ぶだけでなく、密に人と接し世代を超えてたくさんの人と話をしてきた。
そこで学び取ったものは私の中で噛み砕かれて、私の言葉に翻訳される。そして、私の言葉は誰かに伝える為に様々な形、情報、色に変えて発せられる。そうして相手が、一人ひとりが、地元を愛し生きがいを持って人生を歩めるようになってくれたらと、私は思っている。社会福祉学は私たちの、引いては自分自身のより良い人生をどう生きるかを自分に問いかける学問である。
でも私が一番変えたいのは、自分が生まれたこの村……。神姫村は、昔から「神」と「鬼」という形で二者対立している。とはいっても、日頃から諍いが絶えないとか、犬猿の仲とかそういうことではない。
私が変えたいのはもっと根本的な部分。習慣とは恐ろしいもので、皆がそれを拠り所にしてしまっていることにあった。
神様は傲慢で、人を誑かし、虚栄心が強い。鬼は嫉妬深く、憎悪に狂い、人を裏切る。そんなマイナスイメージが、この村の人たちの心の奥底に潜んでいるのだ。
いつの時代からか、神側の血筋と鬼側の血筋とで分かれ、何か不利益を被れば、やれ神は○○だから。やれ鬼は××だからと醜い感情が顔をもたげてしまう。
そこで道祖神様は、生贄という禊を作り仮初めの平定を敢行した。しかしそれは、結果誰かに罪を被せるという形で、人の最も弱い部分を刺激するものでもあった。やがて慣行に従い、暗黙の了解となっていた時代が長く続いた……。
その慣習はもはや、悪弊とも言い換えられる。それから長い年月を掛けて時代が変わろうとも、恐ろしい禊が決行されなくなった現代においても、人の心が変わらなければ何も変わらない。
そうして今も、神側と鬼側という見えない境界は存在していて、それがこの村を一枚岩にしきれない要因になっていた。
私はもう、神も鬼も無い、同じ神姫村の住人として地元を愛して欲しい。そして、素晴らしい伝統工芸である和紙と木彫り――小鳥和紙と、花明一刀彫――を、これから生まれてくる私たちの後生、村の子供たちに受け継いでいきたい。それがきっと、遠い遠い昔、禊なんて必要無かった時代に道祖神様が夢見てくれた、この村の本当の姿ではないかと私は思っている。
その為に私は、どうしたら村の人たちが悪弊を乗り越えてくれるのか、どうしたら醜い諍いもなく天照大神様が子供たちを笑顔にしてくれたように、地元愛に溢れた村に出来るのかを、この三年間様々な人たちを見て考えてきた――。
だから私は、大学を卒業したらまた帰ってくる。小鳥居神社の跡継ぎでもあるし、お婿さんをもらわないといけない。そして祭事は、小鳥居家の役目。皆が一つになれるのは、やっぱり神姫祭なのだ。
日めくりカレンダーを眺めて、お祭りがもう目前に迫っているのだと再認識した。
「もうすぐ、か……」
私はカレンダーに手をのばし、昨日だった日付を一枚破った。
しばらくして、私はメモ帳の切れ端を手に取る。
そこには、昨日の謎を書き写しておいた。おいそれと持ち歩けるものではないので、文章だけを抜き出しておけば、いつでも見返して考察することが出来るからだ。……詰まる所、まだ誰にも打ち明けられていない。
許可無く入ってはいけない場所で珍しいものを見つけ、それを壊してしまった負い目と、ちょっとしたなぞなぞ問題気分で謎解きに挑戦してみたい好奇心と、先輩から聞かされた物騒な昔話で本当は関わらない方が良いんじゃないかという後ろめたい気持ち。三者が私の中でせめぎ合い、程よく拮抗していた。
でも、私は少し違う見方をしたかった。この謎が神様の謎掛けであれ挑戦であれ、これに挑むことで、出題者は何を思ってこの謎を提示したのかを探れるかもしれない。
それはつまり、天照大神様が子供たちに何を思ってこの謎を問いかけたのかを想像するということ。謎の本分は解くことにある。しかし、謎に限らずもっと広義に言えば、誰かが私に問いかけたなら、そこには必ず意図があるはずだ。逆に私が誰かに質問をぶつけたのなら、必然的に何かを考えている。
それはコミュニケーションを取る事でしか学べない。今日までたくさんの人と話してきて、質問の裏には相手の意図があることをひしひしと感じることが出来た。
私たちは日々学校で、数々の問題を解いている。テストであれ、問題集であれ、設問や問題を解くことが至上目的になってしまい、その裏に隠された出題者の意図を蔑ろにしている。いや、その観点で読み解く人は少ないだろう。
私はそこに、答えよりも大切なものがあることを知った。だから、私がこの謎に興味を持ったのは、〝彼女〟がどうしてこの謎を提示したのか。それを見つけたいからだった。
すると、馴染みのある懐かしい音階が私の耳に届いた。
居間から聞こえる機嫌が良さそうな声はお母さんの鼻歌だ。それは朝の小鳥のさえずりのような大きさだけれど、小さい頃から子守唄代わりに聞いていたので私の心が落ち着く音色だった。吸い寄せられるように、足が向かう。
「お母~さん。何か良い事でもあったの?」
「ん~? 織恵が三年振りに、帰ってきたことかしら」
お母さんは洗濯物をたたみながら、伏し目がちに微笑んで見せる。私はその横顔が好きだった。お母さんの機嫌が私の帰郷にあるなんて、くすぐったいようで嬉しくなってしまう。私もたたむのを手伝う為に、お母さんの隣に腰を下ろした。
「お母さんその唄好きだよね。機嫌が良い時はいつも口ずさんでる。名前何て言ったっけ?」
「あら、言ったこと無かったかしら。
え……。花鳥風月って――。
記憶に新しい単語が出てきて少し驚いてしまった。確か、あの掛け軸の最初にあった一番大きな文字も「花鳥風月」だ。
「じゃ、じゃあ……歌詞もあるの」
「ええ、もちろん。お囃子が無いから違和感があるかもしれないけれど」
そう言ってお母さんは、神楽舞が始まった時のように厳かに、だけれども子守唄を聞かせてくれる時のように優しい声音で唄ってくれた。
〝花は咲き、鳥は羽ばたき、風は凪ぎ、月は照らす
花を添えれば、鳥はさえずり、風が鳴くとき、月が満ちる
花が枯れ、鳥が落とされ、風がやみ、月が陰る時
花を摘み、鳥を弔い、風が渇いて、月が欠ける
静かな木、家を守りて、もう一度
生ける水面に灯火を〟
違う……。あの掛け軸に書かれた言葉とは異なっている。
同じ名前というだけで、繋がりは無いのだろうか。しかし、この唄は歌詞を聞くとまた印象が変わるのだと思った。お母さんの優しい子守唄の印象が強いだけに、そう感じてしまうのかもしれない。
前半はまだ明るい雰囲気なのに、後半は物悲しい。そして最後は繰り返すように〝もう一度〟という言葉が主張している。神楽歌という側面がありながらも、この詩は永遠に終わらない、繰り返される人の営みのようにも感じられた。
「織恵もそろそろお祭りで唄えるようにならないとね。今年、一緒に唄ってみる?」
「わ、私はまだいいよ。お母さんまだまだ現役なんだし! 私、お母さんの唄好きだよ!」
私にとってこの唄は、お母さんが唄ってくれる子守唄だ。お祭りで
だから今、子守唄のように優しくはっきりと唄ってくれたので、初めてこの唄の言葉を聞き取ることが出来た。
「そう? そういえば……今日、愁次君も帰ってくるのよね。迎えにいってらっしゃいな」
「そうだった! 洗濯物途中でごめんね、行って来ます!」
私は急いで部屋に戻り、外出する準備を始めた。
家を出る頃には朝方に見えた雪の姿はなく、だけれども少し灰色がかった雪雲はサラサラの粉雪を降らせる明るいものより、どこか気乗りしないどんよりとした重さが見て取れる。
息を吐き出してみる。肌を刺すような寒さの中に私の吐息は白く軽いはずなのに、手に当たる頃にはどんよりと重さを感じるように霧散した。
空は、心を映す鏡だと誰かが言っていた。自分の気持ちが分からない時、空を見上げれば客観的に捉えられるのかもしれない。さほど気にしていないつもりでも、引いても開かないドアを自分の勘違いだと思い込み、ひたすら引いて開けようとしているのだ。やはりここは、押してみるという選択が必要なのではないかという写し鏡のお告げなのだろう。私はそれを受け入れるように、両手を大きく広げ一つ深呼吸してから歩き出した。
私が生まれたこの場所は、大きな合併などには与せず未だ村という呼称を残している。村内は
お気に入りの場所は縁側の軒下である。大きな茅葺き屋根はとても厚くしっかりしていて、下から見上げると
ここは田舎だから、ちょっと一休みで縁側に座らせてもらってたって怒られない。村長さんや、雨霧さんの所のような大きな家なら十人くらい座れるのではないだろうか。小さい頃は時々、暖かいお茶とお菓子を目当てに遊びにいったものだ。香り立つお茶の湯気が、忘れていた寒さを思い出させてくれるくらいに人の温かさを感じた。
また、神姫村は山の斜面に位置している為、緩やかな斜面にそって道が枝分かれしていて、村の景観を一望できる。少し歩くと、六体の石仏が道の端に並んでいる。多くの神様が逗留していたので、村のあちこちには小さな祠や、お地蔵様が点在しているのだ。それぞれに謂れがあるけれど、それはいつも神様たちがこの村を見守ってくれているのだと感じて、私は不思議と夜に歩いていても怖くなかったものだ。
路面は綺麗に除雪され、両脇の積雪は私の腰まで高さがありふわふわの雪のベッドに飛び込みたい衝動に駆られる。
田植えの時期を待つ車田を通り過ぎ、ウチの神社の鳥居を仰ぎ見て、小さな祠に会釈をすれば見えてくるのは、神姫村一番の名所――
道中の一つひとつが懐かしくて、噛み締めるように歩いてきたが、やはりここは別格だった。池というには広すぎる面積で、およそ村の三分の一を占めるだろう。その大きな佇まいはそれだけで壮観だった。新緑の湖面は、その深さを物語っている。
「お。愁次ー! おかえりー!」
湖佳橋から眺めていると、入り口に愁次の姿が見えた。大声を出したところで愁次には蚊の音か何かくらいの大きさでしか届かないだろうけれど、大手を振って叫んだ。
愁次は私に気づいてくれたらしく、片手を挙げて応えてくれた。
「おう、ただいま。相変わらず元気だけはいいな」
「それ〝だけ〟が取り柄みたいに言わないように。ま、元気は私の専売特許だけど」
「押し売りはしないように。さっきまで降ってた雪も収まったし、それだけで十分だよ」
「私の元気はお天道様にも評判が良いんだから。この村の天気は、私が決めてると言っても過言じゃない」
「そんな神様は居ない、太陽は皆に平等だ。織恵に媚びて、毎日夏にされても困るからな」
「な、なにおぅ? 確かに夏は好きだけど、四季があってこそだよ! それじゃあ私が年中夏女みたいじゃない! 私の名前を思い出しなさいよ!」
出会い頭の憎まれ口も、愁次相手なら悪い気はしない。けれど、私は小さい頃から「小鳥ちゃん」という愛称で呼ばれていた。愁次はちゃんと名前で呼んでくれるけど、村の人たちや楠木先輩は未だに小鳥ちゃんと言う。それは小鳥居神社の娘として、親しみを込めて呼んでくれてるのは分かるのだけど、ちょっと複雑……。
織恵の「織」は、織物としての意味だけじゃなくて、読み方を変えると「シキ」。即ち四季という響きが私は好きで大切にしたいと思っている。とはいえ、周りからすれば私はまだまだ〝ちゃん〟なのかもしれない……。
「やぁ、小鳥ちゃん。騒がしいと思ったらやっぱり君だったか。それと……久しぶりだね、シュウジ。三年振りかな」
「あ……楓先輩、お久しぶりです。元気そうですね」
私が愁次と騒いでいると、楠木先輩がやってきた。やっぱり名前では呼んでくれない人がここに。
「今帰ってきたばかり? それなら献血していってよ、血が足りないんだ。今月は神姫祭があるから忙しいんだけど、献血周りも大変でね。こうして歩きながら、声を掛けて回ることも少なくなくて」
「いやいや、疲れた身体に鞭打って血も抜かれたら俺倒れますって……。〝血が足りない〟なんて先輩、人間の言う台詞じゃないですよ」
「お礼に野菜ジュースが出るよ。なんなら、トマトジュースにしてもいい!」
先輩は拝むように両手を合掌して頭を下げた。
「あっはは! 楠木先輩、愁次はモノじゃ釣られないですよー。お昼奢ってくれるなら、話は別ですけど? もちろん私の分も!」
「参ったな……。まぁ、気が変わったらいつでも来てよ。あまぎり会の本部の場所は覚えてるでしょ? 僕が居なかったら、スタッフに〝楠木楓に言われて来た〟って言えば大丈夫だから」
先輩は地元のNPO団体「あまぎり会」に籍を置いている。その活動内容は多岐にわたるが、この時期は保険組合と共同で献血のお手伝いをしていることが多い。友人として採血されにいってもいいかなとは思う。
しかし、私も愁次もタダでは転ばない。意地悪く渋ってみせるのだ。
「それはそうと、良い報せと悪い報せがあるんだけど、どっちから聞きたい?」
先輩はさらっと話題を切り替えて問いかける。あまりに自然に聞かれたので、身構えることもなく答えてしまった。
「後味悪いのは嫌なので、悪い報せからお願いします。愁次もそれでいい?」
「ああ。俺はどっちでも」
そういって愁次は、荷物を担ぎ直す仕草をする。重たくはなさそうだけど、ここまで電車で二時間は掛かる。少し疲れもあるのかもしれない。それに気づいた先輩は、近くの東屋を指差した。
「立ち話もなんだから、そこに座ろうか。そんなに時間は取らせないから」
佳ノ湖を目の前にした屋根付きの休憩スペースがある。そこは木造のベンチのようになっていて、まるで鳥篭のような東屋だ。とはいえ、何かを飼っているわけでもないし、ましてや人を飼う籠でもない。もしもそこで鳥を飼おうものなら、鍵の付いていない玄関のようなもので、鳥はふと何かの拍子に飛んでいってしまうだろう。あくまでデザインの印象である。
言い換えるなら、青い鳥が逃げた後の鳥籠なのかもしれない――。
先ほどまで雪が降っていたが、屋根があるお陰で表面は濡れていない。にもかかわらず、先輩は厚手のハンカチを敷いて私にそこへ座るように促した。この辺り先輩は紳士だなと思う。私はお礼を言ってから、そこに座らせてもらった。
「さて、悪い報せの方だけど……」
先輩は両手を組んで、テーブルの上に置いた。まずは愁次の方を向いて話す。
「帰ってきたばかりで申し訳ないね。こんな話をするのも変かもしれないんだけど、今献血周りであまぎり会の人たちが動いてるって話したよね。そこで、ちょっと嫌なことを聞いたんだ」
「……何です?」
愁次は怪訝そうな顔をして、先輩を見返した。
「昨日、神社に盗人が入ったらしい。シュウジも覚えてるだろう? あの滅多に開かない幣殿。そこから大事な祭具が盗まれていたらしいんだ」
え――。先輩、それって……。
「物騒ですね。警察には届けたんですか?」
「いや、祭りの前だからね。もう観光客もちらほら来てる。小鳥居神社の神主さん……小鳥ちゃんのお父さんと町会、それからあまぎり会で会合があって、祭りが終わるまでは様子を見ようってことになった。それが無くても神姫祭は出来るからね。ただ、祭りが終わるまでは内密にってことだったから、多分小鳥ちゃんも聞いてないよね?」
「あ……はい……」
「まぁ大事なものが無くなってたなら織恵の方は大変だろうな。けど、俺の家にも何か影響があるんですか?」
「シュウジの……花明家の方っていうよりも、二人に言っておこうと思ったんだ。これからシュウジは村長さんの所とか、挨拶には行くだろう? 三年振りだし、顔くらいは出しておかないとさ。その時、ちょっと嫌な思いをするかもしれないから、先に心の準備だけはしておいて欲しいってこと」
そこで一つ、先輩は間をおいた。少しだけ周りを気にして、それから私の方を見た。
「町会の役員とか、お年寄りたちは……すごく怒ってた。バチ当たり者だとか、神様を冒涜してるとか。それこそ神側は鬼側を疑ってたし、鬼側も神側を非難してた。もうすごい怒号の応酬だったよ。でも、あまぎり会は冷静で、ここで騒ぎ立てても意味が無いって皆を鎮めた。さすがに雨霧さんくらいになると、あの場面でも落ち着いてたけど。僕は外の人……観光客を装って悪い人が来たんじゃないかと思うけど……。とりあえずその場は、祭が行えるように調整して、それが落ち着いたら調べようっていう話になったんだ。ただ……殊のほか溝は深いのかもしれない。警察を呼んだら解決なんて、僕たちが思ってるほど簡単じゃないのかもしれない」
先輩の視線はいつしか私から逸れていた。組んだ手をおでこに持っていき、一つため息をついた。その仕草から、私を責めているようには見えなかった。
「だから、今お年寄りたちは気が立っててさ。あまぎり会でもピリピリしてて、少しやりづらいよ。シュウジたちもこれからお年寄りたちと会うと思うけど、嫌なとばっちりを食うかもしれないから、気をつけてね」
これは先輩からの忠告なのだろうか……。先輩の意図が掴みきれず、私は困惑する。確かに入ってはいけない場所なのは分かっていたけれど、そんなにマズいことだったの……?
私たちくらいの世代ではそこまで信仰にあつい人はいないけれど、お年寄りの人たちは信仰にあつい人は多い。ごめんなさいで許してもらえる範疇を越えてしまったのだろうか……。
「……ここの人たちが、ちょっと熱くなり過ぎるっていうのは分かってるんで、大丈夫ですよ先輩。気ぃ利かせてくれてありがとうございます」
愁次は当事者ではないから、先輩の気遣いに素直に感謝出来る。でも、私はどう受け取っていいものか少し躊躇ってしまった。
「あと、良い報せって何ですか? お昼奢ってくれるんですか?」
「ん、んん……。君らはどうしても僕に奢らせたいみたいだね……。それはそうと、個人的な報告で恐縮だけど今度の神姫祭はさ、全体の指揮を僕が取ることになったんだ。今までの神姫祭の良さも引き継ぎつつ、新しいこともやってみたいと思ってる」
「す、すごいじゃないですか! 楠木先輩まだ若いのに、大出世ですね! 私、今年の神姫祭、今まで以上に楽しみですよ」
「いや待て織恵。まだ喜ぶのは早いぞ。楓先輩がディレクターをするなら、知り合いの俺たちには、何か力仕事でもやらせる気かもしれない……!」
「ははっ。まだ詳細は決まってないけど、協力してくれるなら何か役を演じてもらおうかな?」
愁次が墓穴を掘った。先輩は普段やられ役が多いけど、基本的にはノリの良い人だ。私たちの奢り作戦に対しての反撃に見える。何をやらされるかは分からないけれど、せっかく久々のお祭りなのだから、穏便に楽しく過ごしたいものだ。
「お、俺は灯篭の枠組みを作るっていう大役があるんで……」
「わた、私は舞台のお手伝いがあるかなー……なんて」
「ふふ……冗談だよ。二人に力仕事なんてさせないよ。それこそ出店の割引券だったり、舞台を見る時に前列の席を確保したりとか、細かいイベントの景品のサンプルとか色々、融通してあげられるかもっていう話さ」
さすがに太っ腹だ。いや、細身の長身だけれど。
全体の指揮なんて、色んな調整とか当日の運営とか想像もつかないくらい大変だと思う。なのに、ここまで私たちにだけ良くしてもらうのも引け目を感じてしまう。
「まぁ、二人以外にも雨霧さんとか水沢姉妹とか、東吾さんとか……僕に言ってくれれば出来る限りのことはするつもりだよ。間違っても何か仕事を押し付けたりはしないから、安心して」
「了解です。でも、ホントすごいですよね。俺らとあんまり歳変わらないのに、そういうのってもっとベテランの人がやるものだと思ってました」
「ああ、ここまでくるのに三年も掛かったよ……。ずっと、お祭りとかそういうことを自分で動かしてみたかったんだ。もちろん、何も知らない若造が陣頭指揮なんて任せてもらえない。だから、まずはあまぎり会に入って色々と勉強したんだ。そして、町会の支持を得る為に地域の活動にもたくさん参加したし、あまぎり会が主催するイベントにも積極的に入れてもらってね。上の人たちに気に入ってもらえるまで、すごく色んなことをやってきたよ。ようやく自信もついてきた頃に、雨霧さんに声を掛けてもらえたんだ。今年の神姫祭、君が作ってみないかって。あまぎり会の推薦も貰えて、町会の人たちも納得してくれて……僕もようやく、ここまでこられたんだってね」
そう語る先輩に、大きな執念のようなものを感じた。加えて、一瞬だけ寂しそうな表情を見せたのを私は見逃さなかった。しかし、私の視線に気づいた先輩はいつものごとく涼しそうに笑った。
「でも、丁度良かった……。あれから二人は村を出て、大学に行ったきり顔を見せなかったからもう戻ってこないのかと思ってたよ。でも三年振りとはいえ、僕が作ることになった初めての神姫祭に昔馴染みの二人が来てくれて僕も嬉しいんだ。きっと良い祭にするから、楽しみにしててね」
先輩はグッと拳を握って見せて、今回のお祭りを作ることに自信があると言いたげだ。そして、「そろそろ戻らないと……」と先輩が立ち上がったので、私たちも立ち上がる。
しかし私は、先輩に確かめたいことがあった。愁次がいては話しづらいので、先に行っててもらうことにする。
「それじゃあ、俺たちも行きますね」
「あ、愁次ごめん。村長さん所に行くんだよね? ちょっと先に行っててくれる? 私、楠木先輩に祭の舞台のことで相談しておかないといけないことがあるの。今年のディレクターさんみたいだからね~」
「小鳥ちゃん……。〝みたい〟じゃなくて、本当にやるんだよ」
「ん、そうか。分かった」
「すぐ行くから! ごめんね」
愁次は、「おう」とだけ行って歩いていった。湖佳橋を渡って私の声が届かなくなる距離まで見送ってから、先輩に向き直る。
「楠木先輩……。さっきの話、本当ですか?」
「……半分ね。ただ、沈静化はしてないよ。分かってると思うけど、シュウジにも小鳥ちゃんがアレを持ってることは言わないほうがいい。花明家も町会役員だからね」
「愁次は、簡単に言いふらしたりしません。愁次になら……」
「小鳥ちゃん自身の問題でもあるんだよ。祭事を任されている小鳥居家の娘がバチ当たりなことをしたってなると神主さんの立場も悪い。自分の家のようなものとはいえ、幣殿とか祭具は、ちょっと借りてましたって訳にはいかないみたい。町会では〝おおごと〟みたいな認識だよ」
「でも、どうして町会が知ってるんですか? 誰もいなかったはずなのに……」
「まさかとは思うけど、お母さんとかに言ってないよね?」
「まさか! 結局、言えませんでしたよ……」
「念の為言っとくけど、僕も驚いてる。どこから漏れたか分からないけど、今朝の会合で議題に上がってた。とりあえず、ボロが出ないように注意してね」
気がつくと、声も小さくなっている。先輩に釘をさされるまでもなく、私は昨日誰にも話せていない。少しマズいなとは思ったけれど、そんなことになってるなんて……。でも、それなら先輩だって、共犯っていうんじゃ……。
「ところで、あの謎は解けた?」
「え? いえ、まださっぱりです。実は今朝、お母さんから聞いた話ですけど神楽歌に花鳥風月〟ってあるらしいんですが、歌詞を聞いたらあの文面とは全くの別物でした」
「花鳥風月……あの表題みたいなやつか」
「その神楽歌は小さい頃、よく子守唄代わりに聞かせてもらってたんですが、歌詞は初めて聞きました」
「なるほど……。でも、何か繋がりはあるのかもしれないね。情報が少なすぎて確信は持てないけど。とりあえず、持ち出したうんぬんはバレないように気をつけるとして、その謎解きは進めたほうがいいよ」
「え? どうしてですか?」
「もし仮にだけど、万が一見つかったときの保険になるかもしれない。ほら、伝承でも謎解きをするのは構わないけど、生贄になるのは解けなかった時でしょ? つまり、あの謎は誰も解けなくて幣殿にしまってあったけど、それを解けたら許してもらえるかもしれない。あるいは、怒りを鎮めて軽い罰くらいにはしてくれるんじゃない?」
先輩のその推測も、私には希望的観測にしか思えなかった。
腑に落ちない部分もあるけれど、今はそうするしかなさそうだった。
「……分かりました。くれぐれも気をつけます。謎も、考えてみます……」
そういって会釈をして、その場を離れた。打ち明けずに謎は解く、か……、それでもいいのかな……。
村の集会所は佳ノ湖から程近く、四、五分上っていった所にある。村の中央部に位置することから、私たちは集会所のことを「中央」と呼んでいた。
私が追いつく頃には、愁次はもう村長さんたちと話をしていて、漏れ聞こえる声は和やかなものだった。しかし、声を掛けようと手を上げた時、お年寄りの一人が言った言葉に閉口させられる。
「……しかし、バチ当たりもんが居るもんさね。よりによって大事なもんを持っていくなんてなや。大方、鬼の連中の仕業に決まっとる!」
「ちょっと岸谷さん、声が大きいよ。それはお祭りが終わるまでは言いっこなしだよ」
「そうは言ってもなぁ村長。あの鬼の態度は気に食わん。なぁにか知っとるんよ、あれは。鬼でねくても、馬鹿なことしくさる輩がおるんね」
「村長は何か聞いてないのかい? 小鳥居さんから何が無くなってたんか。今ぁ神側しかおらんから、少しくらいワシらにも教えてくれんと」
「んん……。まぁ、祭具なんだが、
「……うちが彫った箱に入ってるものなんですか?
「今年はとりあえず、新しい木で代用のものを作らんといけんよなぁ……」
……ちょっと待って。え、どういうこと……? 小麻って、何……?
落ち着いて、私。一回深呼吸をしよう。それから状況整理。私が思ってることと食い違いがあるようだ。一つずつ確認していこう。
大麻はもちろん知ってる。祭事でお父さんが場を清めたり、参拝者を厄払いしたりする時に使ってるもの。小麻はお祭りの時に、お母さんが舞台を清めたり、姫が舞を踊る時に使ったりするものだ。これは村長さんが言ってるとおり、間違いはない。
けど、盗まれたのが花明一刀彫の神代の箱に入った〝小麻〟……? 違う、あの箱に入ってたのは掛け軸だ。不思議な文章が書かれたなぞなぞのような代物だった。現に今、私の部屋にそれはある。あの時、小麻なんて見かけなかった。ましてや箱の大きさは掛け軸が丁度収まるくらいしかなかったから、箱の底に小麻が入るようなスペースなんて無かったはず……。
どういうことなの……? ひょっとして、盗まれたモノは私が持ち出してしまった掛け軸ではなくて、別にあるということ? いいえ、それはおかしい。あの場所は、おいそれと入れる所ではないし、祭具は色々あるけれど花明一刀彫の箱に入れるような小さいものは他には無かった気がする。
そういえば、私が気づいた時にはすでに扉が開いていた。先に誰かが侵入していて、持ち出された後だったって考えることも――。
「事件の予感かい? ワトソン君」
「ふぁい!?」
突然、背後から声を掛けられて変な声を出してしまった。気がつけば私は物陰に隠れるように立っていて、不審に思われたのかもしれない。
この見上げるような体格の良いおじ様は、一体……。
「ははは。ごめんよ、驚かせてしまったみたいだね。難しい顔をして考え込んでいるのが様になっていたから、つい、声を掛けてしまったんだよ。僕は
そういって大きい手を前に出して握手を求められた。この体格の良さとサイズ感は、楠木先輩とは違い、大人の逞しさを感じさせる。低く整った声は、およそ煙草を吸うとなるような低さではなく、非常に聞き取りやすい綺麗な低音だ。あごひげも整えられていて清潔感があるので、初対面だけど好感の持てるおじ様だった。
「初めまして、小鳥居織恵です。国中さんは、観光ですか? なかなか見掛けないダンディなおじ様なのでビックリです」
「参ったなぁ。これでもまだ四十なんだけど、ヒゲが渋すぎるか……。おじ様なんて言われると、歳の差を感じるね。ははは」
国中さんは朗らかに笑う。この渋さで落ち着き払っているのに意外と若い。ちょっと不思議な雰囲気がある人だ。
「私は一応この村の神社の娘なので、何かあったらいつでも遊びに来てくださいね!」
「ありがとう。ところで、小鳥居さんはこんな所で何の調査をしていたんだい?」
おお、小鳥ちゃんと呼ばれること早二十一年。この村で小鳥居さんと呼ばれる日がくるなんて……。その呼び名に感動して、調査という単語に対して反論することも忘れていた。
「織恵ー! どうしたー?」
立ち話をしていたところに、愁次から声が掛かった。早く合流すると言っておきながら、物陰に隠れて聞き耳を立てていたなんて言えない。私は手を振って合図した。
「ごめーん! おまたせ。ちょっとそこで、観光の人に会って」
「おんや、国中さんじゃないの。今年も来てくれたんだねぇ、ありがとうねぇ」
「ご無沙汰してます。今年も短い期間ですが、お世話になります」
「国中さん? 初めまして、花明愁次って言います。よろしくお願いします」
「お、花明っていうとあの木彫りの? 本家本元じゃないか。伝統の木彫り工芸は僕も興味があってね。ずっとお店には行きたいと思ってるんだけど、なかなか時間が無くてね。本当に味わい深い、素晴らしい工芸品だよ」
国中さんは、何度か神姫祭に来たことがあるようだった。私と愁次は三年も離れていたから初対面だけど、割と早く打ち解けてくれたみたいだ。
「国中さんも気ぃつけなされ。近頃、物騒だでな。この時期は何かと神様たちもお動きなさるんね」
「え? 何かあったんですか?」
「ほぉら、岸谷さんも脅かしちゃダメだよ。いやいや、東吾君が気にすることじゃないん。気にせんと、お祭りを楽しんでもらえればそれでいいんよ」
「いくら毎年来てくれる国中さんでも、神様のお怒りに触れちゃあいかんよ? そん時にゃワシらでも庇いきれんでな」
「ごぉら! 澤田さんまで何言っとん! ごめんなぁ東吾君。ちょっとばかし、皆気が立ってるんよ。年寄りはそろそろ帰るん、今年も楽しんでってな。ほれ、会合は終わりだで! 帰ってビールでも飲みなぁ!」
村長の掛け声で中央に集まっていた役員たちは散り散りに帰っていく。その後姿を、国中さんは神妙な面持ちで見据えていた。
「……警告なのかな、余所者の僕に対する。余計なことをしたら、ただじゃ済まさないっていう」
「か、考え過ぎですよ! 水沢さん……村長も言ってましたけど、今祭りの直前で出店の位置を決めてるんですが、色々ゴタゴタしてて気が立ってるんですよ。あんまり気にしないでくださいね」
私も言葉を重ねるが、国中さんは遠くを見つめたまま考え込んでいるようだった。
「国中さんは、何か心当たりがあるんですか? 何度か祭りに来てくれてるみたいですけど」
「ちょっと愁次! 何言ってるの!?」
「いや、国中さんを悪く言ったり疑ったりするつもりはないよ。ただ、何か知ってるんじゃないかって思って」
愁次の言葉は失言だと思った、この状況で何を言い出すのかとヒヤヒヤするが、国中さんは憤慨する様子もなく落ち着いた様子だ。一つ息を吐き出して、こちらに振り返る。
「……僕は何も知らないよ。だから、知りたいんだ。実は、ある大学で民俗学を研究していてね。その傍ら臨時教員をしてる。もちろんそれだけじゃ食べていけないから、フィールドワークをしながら地元で家庭教師もしているんだ。研究室に篭って研究だけしていられるのは、名誉教授とかその位の地位に居る人くらいだろうね。大体の研究者は生活もままならないからね」
話し方から薄々感じていたけれど、やっぱり人に教えることをしている方なんだなと妙に納得してしまった。
「まぁそれは別の話だね。この村に住んでる二人を前にしていうのは躊躇いがあるけど、この神姫村は外から見て……異質なんだ」
「言葉は選ばなくていいですよ。俺ですら、そう思ってますから」
愁次は食い付くように国中さんに次を促す。何か確かめたいことでもあるのだろうか。
「ありがとう。まずこの地方では、祭事の時にイチイの木を使うよね。本来、祭事や神事の時は神の木と書いて榊っていう木を使うのが通例なんだ。でも、ここではイチイの木が神聖視されてる。神様が多く出入りしていたにもかかわらずね。それは独自の宗派〝あまぎり流〟っていう古神道に関係してるんじゃないかと思う。今もその教えはあるのかい?」
「知ってはいますけど、その程度です。織恵のとこはもっと詳しいかもしれませんが」
「ウチもそんなに厳しく教えられたわけじゃないですよ。一柱の神様じゃなくて八百万の神様がいるって教えられましたし、参拝する方法は〝二拝二拍手一拝〟とか、ごく一般的なものくらいです」
「そうだね、表面的には一般的な神道なんだと思う。でも、この村は不思議でね、二つの言い伝えがそれを歪ませてる。雛流しと、生贄能面。これは今も残る神と鬼っていう血族にそれぞれ伝わってて、解釈が異なるんだ。神派の人たちは、ずっと昔諍いを収める為に少女を生贄にして消してしまった。多分、殺されてしまったんだろうね。そして、その少女は皆の記憶を食んで、自分の存在すら無くしてしまう。一方鬼派は、同じように生贄を毎年双方から交互に出すんだけど、能面が示す通り元の顔が分からないくらいに潰して殺してしまう。でも時に死なない人もいて、違う顔になって別の人生を生きてるとも言われてるんだ。今で言う整形みたいなものかな」
国中さんはこの村のことを色々と調べているようだった。渦中にいる私たちは、昔話程度にしか思っていなかったことを、国中さんは客観的に見てこの村に対して思うことがありそうだった。
「私たちは村の人間ですから、小さい頃から昔話のような感覚で聞かされた覚えがあります。ちょっと怖いな、くらいにしか思わなかったですけど、でもそれが今も残ってるとは……考えにくいです」
「大昔ならともかく、今のこの世の中生贄というのは大それたことだと思うよ。ただ、一番不思議な存在なのは、記憶を食べる少女。ただ人を殺すだけなら、記憶まで消し去るなんてことは出来ないはずさ」
「記憶……」
「愁次?」
横で愁次が何か思い詰めた表情で呟いている。少し心配になったが、国中さんは気にせず続けた。
「この村にはおよそ僕らには推し量れない何かが眠ってる。そう思って、
「そんなこと……」
私は信じたくなかった。東吾さんの言葉は何故か、楠木先輩と重なったから。今私が置かれている状況を話せないのがもどかしいけれど、隣の愁次が未だ神妙な顔つきなのが余計に不安感を煽る。
「でもね、僕が民俗学の見地から解き明かしたいのは……本当に知りたいのは〝真実〟じゃあないんだよ」
「え……?」
そう言って国中さんは寂しそうに目を細めた。私には国中さんが何を求めてこの村に来たのかはわからない。少なくとも、村長さんたちや国中さんの話を聞いて私の中の不安が膨らんでしまったのは事実。
いっそ全部吐き出して、謝るべきなのだろう。でも、まさかそんなことで……とも思う。ひょっとしたら私ではなく、小麻を盗んだ人の方なのかもしれないのだから。
「いや、長話をしてしまったね。今年の神姫祭も楽しみにしているよ。聞いたところによると、今回は若い子が企画するそうじゃないか。この村もどんどん変わっていくね。それじゃ、お疲れ様!」
国中さんは右手を上げて去っていった。
「あれ……雨霧さんじゃないか?」
愁次が指差す方を見ると、集会所から出てきた雨霧さんの姿が見えた。先ほどまで町会役員たちが会合をしていたみたいだから出席していたのかもしれない。片付けなどが終わったのだろう、最後の戸締りをしている。振り返った雨霧さんは私たちに気がついたようだ。
「こんにちは、愁次。織恵も、久しいわね。三年振りくらい?」
「お久しぶりです。丁度三年ですね。後姿に見覚えがあったので、雨霧さんじゃないかって思って。やっぱ美人は違いますね」
「あら、三年経ってお世辞も覚えたのかしら。そんなに畏まらなくていいのに。前みたいに魅月でいいよ。……織恵? どうかしたの?」
「あ、いえ! 大丈夫ですよ! 魅月さんも元気そうで良かったです」
この人も神姫村で古い家系に入る。ウチが祭事を担うのに対して、雨霧家は村全体の調整役でありまとめ役だ。あまぎり会もその名の通り、本家筋の人が役員を務めている。鬼側ではあるけれど、神側との仲介役でもあり村内の調和を取り持っている。
そんな家系の一人娘である魅月さんは、やはり躾が厳しかったのだろう。品行方正という言葉はこの人の為にあるといっても過言ではないかもしれない。また、愁次が褒めたように容姿端麗で、藍染で染めたかのような長い髪は背中まで伸びていて、鼻筋が立ち薄い唇の口角が上がると、同じ女性であることを忘れてしまうほど見惚れてしまう。
村に居るときの普段着が着物なので、柄模様が違うことはあっても出で立ちはいつも同じだった。おそらく着付けも一人でこなしてしまうのだろう。きつく締められた帯は、毎回形が違う。花のように開いているときもあれば、蝶のような形を造っている
こともあった。きっと、私たち世代のお洒落が出来ない分、ここだけは拘りをもって変えているのかもしれない。艶やかな魅月さんだからこそ映える普段着なのだ。全てにおいてこの人には勝てる気がしない。
その魅月さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいたのだから、慌てて退いて、心なしか頬が紅潮しているのが分かる。
「……そう。何を考えていたか分からないけれど、あまり思い詰めちゃ駄目よ。あなたの明るさは、この村には必要なんだから」
「ありがとう、ございます……」
「うん。何かあったら、いつでもいらっしゃい。愁次も。今年は二人が帰ってきてくれたから神姫祭が楽しみだわ。それじゃあ、またね」
小さく手を振って着物の袖を翻す。その所作ですら見ていて優雅だった。あれで私たちと四つしか違わないのだから、恐れ入る。私が普段、着物なんて着ていたら躓いて汚してしまうのが関の山だろう。女として、一生敵うとは思えない。それ以上に、憧れの方が強かった。
「あのさ……愁次」
「ん? どうした?」
「あ、ううん何でもない! 午後からまた雪降りそうだね」
「……村長さんたちの話か。あんま気にするなよ。あとは大人たちがうまくやるさ」
愁次の気遣いは嬉しい。付き合いが長いだけあって、私が不調なのは分かっているようだ。しかし、一目見ただけの魅月さんにも見抜かれるなんて、私は今相当ひどい顔してるのかな……。
いけないいけない! 前向きに行こう! なんてったって、魅月さんのお墨付きだもんね!
「よーし! 神姫祭に向けて、いっちゃん綺麗な紙を織るぞー!」
「お、おう……。吹っ切れたみたいだな。俺たちも一旦帰るか、迎えに来てくれてありがとうな」
「どういたしまして!」
私は両手をぎゅっと握って、空に突き出した。
一先ず怖い話は置いといて、神姫祭までにやらなきゃいけないことをやろう。そして、謎でもなんでも掛かって来い! まとめて解いてやるんだから!
私はウジウジしてた自分を吹き飛ばすつもりで、積もっている雪を手の平大に丸めて愁次に投げつけた。
「痛って! 何を……、うわっ。そっちがその気ならっ!」
「ちょっと! 痛っ! 今本気でぶつけたでしょー!?」
愁次からすれば、はた迷惑な雪合戦が始まったのだった。
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