拾 『エリンは激怒した』
皇海は死んだ。三年も前に死んだ筈だった。
死因は果物ナイフによる心臓への刺突。
父親との言い争いの末に頬を張られ、それに激怒した弟の皇航が父親を刺し殺そうと襲いかかり、それを庇った。それが皇海の最期だった。
間違いなく死んだ筈だった。
航は殺したのだ。あの時に、自分の最愛の女性を。
航はその感触を覚えていた。刺し込んだナイフが肉を切り裂く瞬間を。
航はその光景を覚えていた。苦しいながらに痛みに耐えて混乱した航を慰めていた姉の顔を。
航はその匂いを覚えていた。姉が崩れ落ちた時の床に溜まった血の池の香りを。
しかし、目の前には間違いなくその女はいた。
航は崩れた。完全に床にへたりこんでしまわないよう、エリンが咄嗟に支えていた。
彼の心は疑問の一色に染まっていた。
何故、姉さんがここにいるのか。
ババアの正体は姉さんだったのか。
姉さんは、死んだんじゃなかったのか。
訳が、分からなかった。
「航、貴方には私が誰に見えているのですか?」
「…は?」
「……あれ、この声………」
場の全員が呆然としている中、その女はそんな事を言った。
「この姿が一体誰のものなのか、私には分かりません。ですがこの姿は貴方が望む人の形から取ったものです」
なんだ。なんだよそれ。
「お前は、姉さんじゃないのか?」
「…………いいえ、違います。私は貴方の姉ではありません」
「…もう、訳分かんねぇわ……」
そうして航は本格的に崩れ落ちる。
だって姉さんじゃねぇか、あの時のままの。三年前の姉さんそのままじゃねぇか。それでなんで違うなんて言うんだよ。もう誰だよお前はよ、ババア。
普段ならば、ババアと呼べば毎回必ず返ってくる筈の『ババアではありませんよ』という声が頭に流れる。だがこの時に限って、声はしなかった。前にいる女を見ても、女は何も言わなかった。
目の前の姉にそっくりな女は、間違いなくババアだと確信して出来てしまった。
「……エリン、悪ィ。俺部屋いるわ。出てくるまで構うな」
エリンの支えてくれた腕を解き、フラフラと壁に手を当てながら航は動き出す。
「え、あの。ご主人様……大丈夫…ですか?…」
「……」
航は何も答えなかった。答えてはくれなかった。
航は今まで、ピンチに陥ったときやエリンや仲間達が不安になったときには必ず『大丈夫だ』と口癖のように言ってきたし、実際いつも大丈夫だった。 しかしこの時だけは、航は何も言わなかった。どころかエリンに返事も、顔を向けることすらもなく一番居間から遠い部屋に入り込んでいった。
部屋の扉を閉めて、航は床に崩れ落ちた。
目を閉じ、頭を床に預けているうちに涙が流れ出た。
本当に弱い姿だった。
♡
「ご主人様……」
エリンは航を見送ることしか出来なかった。引き止められなかった。私を頼って欲しいと言えなかった。何か辛い事があるのならば話して欲しかった。
でも怖かった。踏み込んで嫌われてしまう事を恐れてしまった。
「誰、なんですか。あなたは」
「誰か、ですか。その質問は私にとっても少し難しいのです」
「どういうことよ!」
エリンが問うと女はそう答える。
納得のいかない返答にエレノアの声は少し荒っぽかった。
航が突如としては現れた謎のこの女を放置して部屋に行ったということは、この女を自分達に危害を加えない存在と認識したからと、皆理解していた。現にフェンリルも警戒を解いており、シロやクロも大人しくソファに座って様子を見ている。
心做しか耳やしっぽがヘタレてしまっていたのは航に同調してしまったからだった。
「私は自分がどういう存在なのかを覚えていません。初めはそれに困惑しましたが、唯一私の為すべき目的だけは覚えていました」
「なんですか、その目的って」
エリンがエリンじゃないようだった。目の前の女をムッと睨み、そして警戒というよりも、単純に嫌っているような素振りを一切隠さなかった。
「この世界の全ての奴隷を解放することです。航にその使命を課したのも私です」
「…やはりか。お主、記憶を失っていたのだろう?その時の事は覚えておらんのじゃな?」
「残念ながら。一切覚えていません」
「では、このおなごにも見覚えはないのじゃな?」
そう言ってパトリシアはエリンを指差す。その真意を誰も掴めずにいたが女は素直に答える。
「はい。これまで私は航を通して皆様を見ていたので今ではよく知っていますが、航とエリンさんが出会うまでは知りませんでした」
「そうか。いや気にするな。すまんのぅ、変なことを聞いて」
「いいえ、構いません。航や皆さんとは仲良くしたいと思っていますので」
「……軽々しくご主人様のお名前を呼ばないでください」
「えっ」
「わーお」
エリンの予想外の言葉にエレノアとフェンリルがびっくりし過ぎてそんな声が出てしまった。
「……何か、気に触ることをしてしまいましたか?」
「その姿でご主人様を騙して傷つけたじゃないですか!」
皆が初めて見るエリンの激怒だった。
「ご主人様はこれまで私達を引っ張っていってくれました。どんな時でも強くあろうと、辛い気持ちを私達の見えないところで抑えつけていました。どんな時でも気高くて、かっこよくて、弱い所なんて一度も私たちに見せたことは無かったんです!なのに、あなたの姿を見てご主人様はあんなにも憔悴されてしまいました。これが怒らずにいられますか?! 」
「え、エリン。落ち着く」
「フェンリルさんは?! 」
「ヒッ!? 」
「フェンリルさんはいいんですか!許せるんですか!」
「エリン、あなた少し止まって?」
「止まっていられません!私は絶対にあなたを許しません!ご主人様は優しいので明日になればケロッとした顔であなたを許すと思います。ですがそれでもご主人様はあなたのその姿を、お姉さんの姿を見る度に、また傷付く筈です!私の膝で寝ていた時、ご主人様はお姉さんの寝言を言っていたんです。それも甘えるようにです。あのご主人様がです!それがどういう意味か、あなたは分かっているんですか!」
女は言い返せかなった。というよりも言い返すべきではないと思った。
ここで何を言っても無駄な気がした。
ババアはきまぐれだったのだ。別にここで姿を見せる必要は無かった。けれども、ババアは航と面と向かって話がしたかったのだ。未だ一月足らずの間柄ではあっても、ババアは航を気に入ってしまった。
互いに姿を晒して会話をしたい。ただその一心でここに現れたのだ。
「例えご主人様があなたを許しても、私は絶対にあなたを認めません!」
「エリンがこんなことを言うなんて」といったようなエレノアやフェンリル。彼女たちも女同様、何も掛けられる言葉は無かった。気休めなら航が言ってくれる。その航が黙って行ってしまった。ならば今、自分に出来ることは無い。
エリン以外の誰もが、そう感じていた。
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