10話 仮入部
「あれ、聞いてない? うちの水泳部、昨年度で廃部になっちゃったの」
水泳帽をかぶった女子の先輩はキョトンとした顔でいった。
えっ。
と、絶句したのは水緒である。
──今日から一週間は部活動の仮入部期間です。
という担任のことばに、待ってましたと勇み足で駆けてきたこの屋外プール。ちらほらと泳ぐ人影が見えたので、意気揚々と仮入部の用紙を手にプールサイドに足を踏み入れたのだが……その用紙を見るなり冒頭のことばを言われてしまったのである。
どうやら彼女たちは元水泳部員らしい。
「え、じゃあ、え。なんでいま……泳いで──」
「水泳部が廃部になっちゃった代わりに、毎週月水金の放課後はプールを開放するって校長先生が言ってくれたの。あなた新入生でしょ、年齢とか関係ないから泳ぎたかったら月水金の放課後、好きにここ使って。もちろん使う人はローテーションで昼休みにプール掃除をやるんだけどね」
「…………」
水緒はもはやことばにならない。
いや、プール掃除はいい。いくらでもやってやる。が、水泳部がないという現実は水緒にとってあまりにも衝撃で、受け止めきれずにズシャッと膝から崩れ落ちた。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
「す、水泳部──」
とにかく水のなかにいるのが好きな水緒にとって、水泳ということばほど魅惑的なものはなかった。もはや、ほかに選択肢もない。あまりのショックで涙を浮かべる水緒を見て、女子生徒は申し訳なさそうにわらった。
「ごめんね。水泳部……私たちも続けたかったんだけど、うち弱小だったし部員も少ないし、顧問をやってた先生も昨年度で異動になっちゃったんだ。でもさ、部活っていうのはもうないけど、泳ぐのが好きっていうなら月水金の放課後はだいたい元水泳部員がここに来てるから。いっしょに泳ごうよ」
「……あ、そ、そっか」
「そうだよそうだよ。私は三年の月森千夏。あなたは?」
「あ、天沢水緒です」
「水緒ちゃんね。よろしく! 受験勉強が本格的になるまでは、私もここに顔出してるからさ」
といって千夏がわらう。
それを見て、水緒もつられて笑みがこぼれた。
月森千夏──この短時間で、水緒は彼女のことが好きになっていた。たしかに部活がなくても、ここに泳ぎに来ることはできる。そしてまたこの千夏と話すこともできると思えば、水緒の沈んでいた心はすっかり浮上した。
「はい!」
「それじゃ、ここのプールの使用ルールについて説明するね。……」
────。
午後五時。
プール見学を終えた水緒は昇降口にて拳をにぎりしめ「よしっ」とひとり空につきあげた。そのうしろから「水緒」と声がかかる。振り向いた先にいたのは仮入部を終えたらしい新田こころだった。
つきあげた拳をそのままに、
「あ、こころー!」
と水緒がうれしそうに跳ねる。
「どうしたの。楽しそうだね、水泳部廃部だったんでしょ?」
「ウン、でも放課後にプールが開放されてるんだって。見にいってよかったよ。元水泳部の先輩がいたんだけど、とってもいい人であたし好きになっちゃった!」
「へえ。よかったじゃん」
「こころは吹奏楽部だよね。どうだった?」
昇降口から外に出た。
すでに空は茜色に染まっている。阿龍の色みたい──と水緒は心のうちでひっそりと思った。
「うん。けっこう本気でやってるみたいだったから、おもしろそうだよ」
「入部する?」
「そうだね。ほかにやりたい部活があるわけでもないし。……」
といったこころの目線が、はたと部室棟に向いた。
ちょうどサッカー部の集団が歩いてくる。そこに黒いエナメルバッグを肩から下げた片倉大地と石橋英二もいた。どうやらサッカー部に仮入部をし、先輩たちよりひと足先に帰るところのようだ。
あざーっしたァ、と頭を下げている。
水緒は眉をしかめた。
「なんかよく会うなァ、あいつ」
「片倉くん?」
「うん。あそっか、こころとおなじクラスなんだっけ」
「まあね。……もう帰ろ」
「あ、うん」
こころはさっさと踵を返して校門を出る。
彼女の家は大龍神社とは反対側にあるため、いっしょに帰るといってもここでお別れなのがさびしいところだ。
「…………」
水緒はすぐに顔に出る。
その心を察したか、こころは苦笑して水緒とおなじ方へ歩き出した。
「あれ?」そっちだっけ、という顔をする。
こころは駅の方角を指さした。
「駅前の保育園。弟の迎え、ついて来てくれる?」
「行くゥ!」
水緒はとびあがってよろこんだ。
※
ひまわり保育園。
鮮やかに飾り付けられた看板に書かれた文字を一瞥し、水緒は保育園に踏み込んだ。こころの弟に会ったことはあるが、保育園まで来たのははじめてだ。
『ひとみ』という名札を下げた保育士の女性は、こころの顔を見るなりパッとわらった。
「あ、かおるくんのお姉ちゃん。待っててね、いま呼びに行くから」
「おねがいします」
すると呼びに行くまでもなく、ひとりの園児がひょっこりと教室から顔を覗かせた。彼が、こころの弟──新田かおるである。
どうやら姉の声が聞こえたので、あわてて覗きに出てきたようだ。
「かおる、帰るよ」
「まってー!」
ばたばたと教室の奥へもどっていく。帰り支度をしに行ったらしい。
そのあいだに、と保育士──ひとみ先生と呼ばれている──がちいさな冊子を持ってきた。
「はい連絡帳。これお母さんに渡してくれる?」
「はい。あ……そうだ。私、明日から部活がはじまるんで、これからはたぶん六時すぎになっちゃうと思います」
「ああそっか、こころちゃん高校生になったんだもんね。部活なにに入るの?」
「吹奏楽部に」
「わ、似合うよこころちゃん。そっちの子はお友だち?」
「ええ。小学校からいっしょで──水緒。この人、かおるの担任の篠塚瞳先生」
「天沢水緒です!」
と水緒が頭をさげると、瞳はアッと声をあげた。
「天沢ってもしかしてあそこの、大龍神社の子?」
「うれしい。ひとみ先生うちのこと知ってるの」
「この町一番の神社だもん。私ずっとここで育ってるからさ、初詣もいっつも大龍神社なんだよ」
「げへへへ、ありがとうございます。これからもなにとぞご贔屓に」
下品にわらって揉み手をする水緒に、瞳はくすくすとわらう。
おねえちゃん、と息を切らせて駆けてきたかおるがようやく靴を履くのを見て、こころは瞳に向き直り頭を下げた。
「ひとみ先生、さよなら」
「はーいさようなら。かおるクン、またあしたね」
「ばばーい」
かおるは上機嫌に手を振ってから、しっかりとこころの手をにぎる。
そのときになってはじめて水緒の存在に気がついたのか、かおるは「みおちゃん!」と目を見開いた。くりくりと大きい目がたいそう可愛らしい。
「いま気付いたのかおるくん。あたしずっとこころのとなりにいたんだよ」
「おねえちゃんがまぶしくってみえなかった」
「…………」
「ごめん、水緒」
こころは笑いをこらえてつぶやいた。
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