第13話 竜泉閣、源泉秘話!
田沼氏の言葉の意味するところはその後すぐに判明した。銀行での面談のすぐ翌日から竜泉閣の周囲のあちこちで、いきなり大がかりな工事が始まったのだ。
その工事はもちろんあの田沼氏の指示で始まったものだ。あの狸親父は昨日の交渉の時にはまったくそのことを明かしていなかったけれど、やらその下準備を進めていたらしい。竜泉閣の周囲の土地を何カ所かこっそりと購入していたのだ。工事は同時多発的に始まり、長い杭を持った大型の重機が地面に深く穴を穿つ。あちこちでボーリング工事をしているのだった。
ごーん、ごーんと盛大な音を立てて地面が穿たれていく。その騒音は当然ながら竜泉閣まで響いてきており、工事現場に取り囲まれてしまった宿から客足を遠ざけるのには十分だった。
♨♨♨
「ホント、狡いことするよねー」
ロビーのソファーに座って両手で頬杖をつき、窓の外に見える何台もの重機を眺めながら莉子ちゃんが言う。その横で板長と次の季節のメニューを打ち合わせていた継春は、苦悩と感心の入り混じった複雑な表情で顔をしかめていた。
「でも確かにうまい手ではあるよ。もしボーリングが源泉に当たればもうけものだし、それでなくても実際にうちの客足を遠ざける効果もあるからね……」
「私有地内での工事ですから文句も言えませんし、この辺りは住宅地じゃありませんから、うち以外に文句を言う住民もいませんからね」
継春の言葉に板長が悔しそうに同意する。二人の言っている通り、確かに狡いとは思うけど、不法な手段を使ってきているわけではない。くそう、あの狸親父め。ぎりぎりと奥歯を噛みしめて拳を握り、悔しさを表明する私に対して、莉子ちゃんが素朴な疑問を投げかけてくる。
「で、その、田沼さんだっけ。そんなにここの源泉が欲しいものなの?」
「うん、私もそこが気になってホームページを見てみたんだけどね。TNMリゾートって、リゾートっていうだけあってそれぞれの設備はとても豪華なんだけど、温泉付きとは謳っていなかったんだよね。だから源泉を新館の売りにしたいっていうのはまあ分かるけど」
莉子ちゃんにそう答えながら、だけど内心では果たしてそこまでこだわるものなのかな、という疑問も拭えないでいた。現にいまの温泉がない既存施設でもTNMリゾートは十分に繁盛しているのだ。直接話した印象を思い出してみても、私はあの田沼吉蔵、タヌキチ親父の態度にはただのビジネスに対してだけではない、もっと複雑な感情があるように思えた。そんなに竜泉閣の源泉が彼にとって特別なのだろうか。
そこまで考えて、そういえば私ここの源泉ってまだ見たことがないかも、と気がついた。
私はその日の夜に自室で継春にそのことを告げた。
「あ、そうか、言われてみれば優菜にはまだ見せてなかったよね。じゃあ明日、ちょうど母さんのお見舞いに行くからその時に話をしようか」
「お義母さんに?」
「うん、源泉の鍵は宿の女将が肌身離さず持っているしきたりになってるんだよね。今は状況が状況だからときどき僕が借りてるけど」
なるほどそれは知らなかった、と思いながら私は「湯守室」と付けられた竜泉閣の奥まったところにある部屋を思い浮かべる。
湯守室はその名の通り竜泉閣で使用しているお湯の管理をしている部屋だ。
なにかの折りに昔の写真を見せてもらったことがあるけれど、かつて、先々代の頃、そこには巨大なたらいが置かれていたらしい。ほとんど湯船と言ってもいいそのたらいの横にはずっとつきっきりで湯守の人が待機している。湯守の人は川から引いてきた冷水と、源泉から湧き出てくる熱湯とを温度を見ながらかき混ぜて、適度な温度にしてから大浴場の湯船へと流すのだ。春夏秋冬の季節のみならずそ、の日の天候や気温、湿度によってもお湯の状態は微妙に変わってしまう。だから湯守はその違いを体で感じ取って細かくその日のお湯の状態を調整していたらしい。
でも今の竜泉閣には湯守選任の人はいない。
毎日のその作業では休みすらまともに取れないし、かといって誰でも出来るものでもない。代わりに先々代は大きなタンクを導入した。川の冷水と源泉の熱湯を温度をモニターしながら自動で弁を調整してくれる優れものだ。導入の時は周りにずいぶんと反対されたみたいだけど、「一日中良いお湯を提供するのであれば、これが一番だ」という言葉で最終的には決着が付いた。
当時の湯守担当の人自身が装置の導入に賛成したことも大きかったらしい。聞くともともとその人は蒸気機関車の運転手をしていた人らしく、当時としては機械を相棒とすることに抵抗のない人だった。陸蒸気もこのタンクも、人間様を助けてくれる相棒には違いあるめえ、と言ったとか、言わないとか。
なので今の竜泉閣の湯守室には、まるで工場のように巨大なタンクがででんと鎮座している。もちろん、このタンクのメンテナンスにもお金はかかるけど、でもこれが壊れてしまうとお湯が出せなくなってしまう。もちろん予備を考えて常に二台体勢で稼働させているけれど、それはもちろん一台よりも二倍のお金がかかっているということで、そこそこ馬鹿にはならない金額となっている。山奥の温泉宿の経営というのは意外と装置産業だったりするのだ。
そして、肝心の源泉はその湯守室のさらに奥まったところにある。源泉の出てくるところはちょうどロールプレイングゲームの祠みたいになっていて、入り口には重そうな木の扉が据え付けられている。子供だったら絶対に興味を引かれる佇まいをしている。
「あんたは良くこっそりと忍び込もうとしていたわね」
「仕方ないだろ、子供だったんだから」
談話室のテーブルについて源泉についての話をしながら、大女将が懐かしむように苦笑を浮かべる。継春は拗ねたようにそっぽを向きながら言葉を返していた。
私と継春は昼の時間を見計らって、大女将が入院中の麓の病院にお見舞いに来ていた。今日の午前中はリハビリの時間だったらしく、軽い運動を済ませた後の大女将は上気しているようにも見えて、血色の良い顔は入院中の人にはとても見えないくらいだった。私は内心で胸をなで下ろす。なにしろ入院当初の女将の顔は見るからに青ざめていて、死神に取り憑かれているかのようだったからだ。
「緊急入院時でしたから心配していたんですけど、お義母さんが元気そうでとにかく良かったです」
「まあね、おしゃべりもたくさんしているからかしら」
そう言って朗らかに笑う大女将の横の椅子に、一瞬だけ幸子さんの姿が浮かび上がって見えた気がした。
それから私達は今竜泉閣に起こっている、田沼不動産による買収話を大女将に報告した。療養中の大女将に今回の件を伝えるかどうかは悩みどころではあったけど、先日のテレビ取材のこともあったし、今回の話が最終的にどうなるにせよ、知らせておくべきだという結論になったのだった。
さっきの元気そうな様子を見て問題ないだろうとは思ったのだけど、話を聞いた大女将の反応はこちらの想定以上だった。
「なんなのその話!ふざけてるわね。私が直接乗りこんでとっちめてやるわ!」
腕まくりをして今にも駆け出しそうにしている大女将を継春と二人ががりでどうにか宥める。ナースステーションの看護師さんも何事かとちらちらとこちらに視線を送ってきている。
「いやいやいやいや、あの、私達は大丈夫ですから、落ち着いてください」
私は思わず根津氏みたいな口調になりながら大女将を宥めた。継春も慌てて言う。
「そうだよ母さん、優菜もこう言ってるしさ。それにその源泉のことで相談なんだけど、例の鍵、優菜に預けてみない?」
継春にそう言われた大女将は、姿勢を正してこちらに向き直り、私の顔をじっと見つめる。急に真剣になった眼差しに戸惑いながらも、試されていると感じた私はまっすぐ目をそらさずに大女将の瞳を見つめ返す。しばらくの沈黙のあと、大女将は決心するように口を開いた。
「……そうね。まだまだ一人前とは言えないけれど、私もこういう状態だし、預けてみてもいいかしらね」
大女将はそう言うと、ベッドの横にある小物入れの引き出しから、紐の付いた古めかしい鍵を取り出した。目の前にそれを持ち上げて、恭しくこちらに差し出してくる。
「これが源泉の鍵よ。帰ったら継春と一緒に、一度見てみるといいわ。源泉は竜泉閣の中でも一番大事な場所なのよ」
私は「わかりました」と頷いてから両手を差し出して鍵を受け取り、それをハンカチに包んでから鞄に大事にしまい込んだ。
♨♨♨
宿に戻ってから、さっそく継春と二人で湯守室に入り、奥にある木の扉を封じている南京錠を、大女将から受け取った鍵で開ける。がちゃりと音を立てて南京錠が外れると、かんぬきを外して観音開きの両扉を開ける。
「……これが?」
「そう、これが竜泉閣の名前の由来となった、竜の泉だよ」
継春の言葉を聞きながら、私は扉の内側を見回す。小さなほこらのようになっているそこは、壁面がコンクリートで塗り固められて補強されてはいるものの、でこぼことした岩肌の表情はそのままで、この場所が竜泉閣の裏に位置する山、臥竜山の岩肌に食い込んでいることが分かる。
源泉というわけで常にお湯が湧き出ているのだから、蒸気が充満しているものかと想像していたのだけど、そういうことはなく、不思議に思っていると継春が天井付近を指さした。よくよく見てみると天井の一カ所に穴が開いており、湧き出た蒸気はそこから抜けていっているようだった。なるほど。
扉を開けた真正面には神棚が設置されていて、護符のようなものが安置されている。そしてその神棚の真下には、ゆらゆらと絶えずお湯が沸き出している泉があった。沸き出すお湯はとても澄んでいて、湯温は高め、川の水温と相殺してちょうど適温になるくらいの温度だ。泉はおよそ直径1メートル程度、一般的なマンホールの蓋よりもちょっと大きめぐらいのサイズだった。
近づいて覗き込むと予想以上にその深さは深く、奥の方ほど広がっていて、地面に埋め込まれた水瓶を覗き込んでいるような感覚だった。ただ水瓶と違うところは底の方は湯守室からの光も届いていないほど深く、まるで底が無いようにも見える。光の屈折の加減なのだろうか、ときおり蒼く揺らめく瞬間があり、じっと見ているとまるで吸い込まれそうな気がした。
「ほら、あまり覗き込むと危ないよ」
少し焦った様子の継春に肩を掴まれるまで、私は魅入られていたかのように泉の奥深くを覗き込んでいた。肩を引っ張られて目を離した瞬間、奥底にゆらりと巨大な生き物の影が見えたような気がした。……まさかね。
私は目に映った影を封じ込めるかのようにして扉を閉めて、かんぬきを再びかけた。
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