第12話 登場、狸親父!
根津氏が去ってから数日後、継春と私は麓の町にある地元銀行の会議室にいた。いかにも会議室、といった部屋で打ち合わせをする経験はこれまであまりしてこなかったので、なんだか妙に緊張してしまう。
私も継春も今日はスーツ姿でここを訪れている。スーツに袖を通したのも随分と久しぶりだ。竜泉閣で若女将を始めてからは、ずっと着物姿で通してきた。最初は慣れない着物だったけど、今ではスーツの方がむしろ着慣れなくて、緊張が加速しているのはそのせいもあるのかもしれない。
先日根津氏が派手にダイブした露天風呂を改修した資金なんかはこの銀行から借り入れを行っているのだけれど、その銀行から突然に折り入った話があると言われて、宿の代表者である継春と私がここを訪れたという次第だった。
会議室に通されてしばし待ったあと、まだ季節は冬だというのにハンカチで汗をふきながら小太りの担当者が現れた。
「やあやあどうも、本日はご足労いただきまして」
銀行ってこんなに普段から愛想がよかったっけ?と不思議になるくらいに不自然な笑みを浮かべた担当者は、小脇に抱えていたタブレット端末をテーブルの上に置くと、こちらに向かって深々と頭を下げた。それに対してこちらも恐縮した様子で頭を下げながら継春が答える。
「いえ、そちらには借り入れの件も含めて以前からずいぶんとお世話になっておりますし」
経理担当として竜泉閣の金銭面の対応をしている継春は、銀行の担当者とも普段からやりとりしているらしい。その継春にしても今日は面食らったような表情をしているから、担当者のこの態度は彼にとっても意外なものだったらしい。
挨拶もそこそこに、担当者が汗を拭きつつ本題を切り出してきた。
「実はですね、今日おいでいただきました件はですね、そちらの宿をまるごと買い取りたいという方が現れまして」
「……は?」
あまりにも意外なその言葉に、私は継春と二人してその場で固まってしまう。鳩が豆鉄砲を喰らうとはまさにこのこと、はたから見れば私たちは随分と間抜けな顔をしていたのではないだろうか。
「買い取るだけでなく、そちらで借り入れしている資金も全額肩代わりいただけるとのことで、当行としましてはこちら無下には出来ない申し出となっておりまして、はい」
「いや、その、ちょっと待ってください」
こちらの反応に構わず話を続ける担当者に対して慌てて継春が言う。私もいきなりの話の展開にまったく思考が追いついていかない。竜泉閣をまるごと買い取る?どこの誰が?私の脳裏にまず最初に浮かんだ疑問をまるでテレパシーが通じたかのように継春が向こうにぶつけてくれた。
「いきなりすぎて話についていけていないのですが、まず、いったいどこの誰が竜泉閣を買い取るという話をしているのですか?」
継春も突然のことに戸惑いを隠せないが、必死に冷静になろうとしている様子が窺えた。机の下でスーツのズボンを千切れるかと思うほど強く握りしめている。
「ああはい、それはですね、直接お会いになられたほうが良いかと存じまして、本日おいでいただいております、はい」
銀行の担当者がその言葉を発すると同時に、部屋の奥へと繋がっている扉が開いた。扉の後ろからまず姿を現したのは、きっちりとなでつけたオールバックにスーツ姿の痩せ男、お風呂ダイブの根津氏だった。
「いやいやいやいや、またお会いいたしましたね。ご無沙汰しております。根津でございます」
「あっ!」と思わず叫びそうになる口をぱっと押さえて私は視線だけでそろりと部屋に入ってくる根津氏を追いかけた。ここで彼の姿を見て、ようやくその目的に思い至った。彼が先日竜泉閣内をうろつき回っていたのは、この為だったのだ。
あの日宿泊している間、彼は竜泉閣の値踏みをしていたのだろう。それであればあの様々な奇妙な行動にも納得がいく。例えば露天風呂での奇行は源泉の出所を探っていたのではないだろうか。
しかし彼はあくまで鑑定士のはず。ということは。
私がそう考えると同時に根津氏の後ろからのっそりと恰幅のよい一人の男性が姿を現した。ぱっと見た第一印象を正直に述べると、あれである。昔ながらのホテルとか飲み屋さんの入り口で小首をかしげてこちらを見上げ、ぬぼっと立っている、信楽焼のあれ。
その人はまさに狸親父という言葉がふさわしい風貌をしていた。ぜひ首の後ろに編み笠を着けて、大福帳と徳利を両手にぶらさげていただきたいものである。むかしばなしで化かすと言えば狸が定番ではあるけれど、そういえば竜泉閣には狸のあやかしはいなかったな。思考が状況について行っていないからだろうか、私がそんな場違いなことを考えていると目の前の信楽狸殿はこちらをゆっくりと見て名乗った。
「これはどうも。わしは田沼吉蔵と申します。いやはや先日はうちの顧問鑑定士の根津がプライベートでお世話になったようで」
チェックアウトの時に仕事の名刺を差し出してきて、プライベートも何もあったもんじゃないとは思うけれど、どうやら向こうはあくまであの日の根津氏の行動はプライベートということにしておきたいらしい。
「田沼不動産、という会社で社長をやらせてもらってますが、ご存じですかな」
名刺をこちらに差し出しながら、一応はへりくだった様子でこちらにご存じですかと聞いてくるも、その態度は自分たちの事を知らないわけがないだろうと言外に述べていた。聞いてすぐには思い浮かばなかったが、口中で小さく「田沼……田沼、た・ぬ・ま?」とつぶやいているうちに、その名前に心当たりが浮かんできた。
「もしかして、TNMリゾートの?」
私が竜泉閣に来る直前、近くに出来た複合型リゾート施設がある。竜泉閣とは客層が異なっていたため、幸いにも大きく客離れが発生したという訳ではなかったみたいなのだけど、それでもオープンしたてのしばらくは新規のお客様なんかはけっこう向こうに取られてしまったらしいという話を聞いていた。
それがTNMリゾートだった。私が来てから目にしていた竜泉閣の苦境も、多少なりともTNMリゾートの影響はあるだろう。ありていに言ってしまうと商売敵である。それの経営者がうちを買い取ろうと言ってきているということだ。目の前にいる狸親父は表情だけは柔和な笑みを浮かべているが、目の奥に爛々と灯る光はまったく笑っていなかった。
「そうです、そうです。あのTNMリゾートはうちが運営しているのですよ。おかげさまでオープン以来、お客は右肩上がりで増えておりまして。実はですな、今度新館を建てようと思っているのですよ。それで、竜泉閣さんの土地も含めてまるごと買い取りたいと思っておりましてな」
田沼氏はまるでスイッチが入ったかのように上機嫌でぺらぺらと述べてくる。向こうにとってもうちは商売敵であるはずなのだけど、彼の態度から推測するとこちらの事は歯牙にもかけていない様子だった。
「いや、ですが」
演説のごとくにとめどない話をどうにか遮って継春は抗弁しようとするが、そこはビジネスの経験値が違うのか、あっさりとそれを手で制すると田沼氏はさらに言葉を続けてくる。
「ええ、ええ、当然でしょう。いきなりのことですからそちらが驚くのも当然です。しかしですな、我々は夏までには新館の営業を始めたいと思っておりまして、時間が無いのです。それで大変不躾ながら銀行さんにもご協力いただいてですね、こういった場を設けさせていただいた次第なのですよ、ねえ?」
田沼氏は銀行の担当者氏にちらりと目線をやって、同意を促した。担当者氏は田沼氏を招き入れた時点で自分の役目は終わったと油断していたのか、突然に話を振られたことでしどろもどろになりながら田沼氏の言葉に相づちを打つ。
「ああ、えっと、はい、そうですね。うちとしても田沼不動産様はとても勢いのある企業様ですので、今度の新館建設計画にも融資させていただいております」
思わず口から零れ落ちてしまったのだろう言葉だったのかもしれないけど、彼の言葉を聞いて私は継春と顔を見合わせた。新館計画に銀行もお金を出しているということは、ほとんど向こうの味方みたいなものじゃないだろうか。私達の視線の意味するところに気がついたのか、慌てて担当者は弁解する。
「あ、いえ、その、田沼不動産様には新事業も含めて他にも色々と融資させていただいておりまして、そのですね」
漏らした言葉を必死で取り繕おうとして余計に無駄なことを話してしまう担当者氏に業を煮やしたのか、田沼氏は無理矢理に言葉を重ねて彼の口を塞ぐ。
「まあとにかくそんなわけでですな、我々としてはどうかお譲りいただけないかと思っとるわけなんですわ。いかがでしょう、そちらもずいぶんと銀行さんには融資を受けていらっしゃるようですが、どうも、なかなか、返済の方は予定通りとはいっていないという話も耳にしますが?」
狸の田沼氏の言葉に痛いところを突かれる私達。彼が遠回しにいやらしく言ってきたように、私たちの返済計画は当初の予定と比べると遅れ気味になってしまっているのは確かだった。
「我々にお任せいただけましたら融資の返済も含めて対応させていただきますよ」
ぽんぽんと狸が太鼓を叩くようにして上機嫌で腹を叩く田沼氏。後ろでは根津氏が揉み手でもしそうな勢いでにやにやと下卑た笑みを浮かべていた。彼らは完全に私達の足下を見に来ている。きっとうちの経営状態の情報についても銀行経由で彼らに渡っているのだろう。私はテーブルの向かいに座る彼らに聞こえないように顔を近づけて小声で継春に聞いてみる。
「ねえ、正直な所、うちの経営状態っていまどうなの?」
「……正直厳しいよ。そういう意味では悪い話ではない。ないけども」
経理担当として普段最も竜泉閣の経営状態に直面している継春の言葉は重かった。だけど、そうは言っても彼にとってはすんなりと受け入れられるようなものではなかったらしい。
それは私にだってもちろんそうだ。私が一番気になったのは、あやかしたちのこと。私は田沼氏に尋ねてみる。
「あの、仮に、あくまで仮になんですけど、宿を引き渡した場合、建物とかはどうなるんですか?」
ひいてはそこに住む、竜泉閣のあやかしたちはいったいどうなってしまうのか。彼らがいつごろからどうやって竜泉閣に住み着いているのかはよくわからないところもあるけれど、座敷童なんかは建物に取り憑いているという話を聞く。竜泉閣の建物が無くなってしまったら、お華ちゃんは行く場所がなくなってしまうんじゃないだろうか。もちろんお華ちゃんだけじゃない。豆腐小僧だって、厨房にあるあの大型の冷蔵庫がなければ困るだろうし、河童の次郎吉だって日本庭園の祠が無くなってしまっては、どこにいればいいのかわからなくなってしまうんじゃないだろうか。
私の質問に対して、田沼氏はなにをわかりきったことを聞いてくるのかというように、こちらを小馬鹿にしたような態度でこちらに答えてくる。
「それは当然、取り壊させていただきますよ。なにしろリゾート施設の新館を建てるのです。あの古くさい……おっと失礼。古式ゆかしい建物を新館というわけにはいきませんからな。それにこの地域にとってもうちの最新リゾートが出来る方がよいに決まっているでしょう」
彼のその言葉で、私は決心がついた。
「お断りさせていただきます」
正面から田沼氏を見据えてきっぱりと告げる。継春は一瞬驚いたようにこちらを見たものの、すぐに私と同じように正面の田沼氏に向かって告げていた。
「僕も同じ考えです。田沼氏の申し出は大変ありがたいですが、僕たちは竜泉閣を続けたいと思っています」
なぜか私たちの回答に対して一番狼狽しているのが銀行の担当者氏だった。田沼氏とこちらの間に挟まれるようにしてテーブルの横に座っていた彼は、いかにも意外だといった顔でこちらを見たあと、我に返ったように田沼氏とこちらを交互に見比べておろおろし始めた。田沼氏の横に座る根津氏もこちらに向ける愛想笑いを顔に貼り付けたままではいるものの、その眉は痙攣したようにピクピクと動いている。私達の正面にどっかりと座る田沼氏だけが唯一、私達の言葉に動揺を見せずにいた。
継春は田沼氏に質問を投げかける。
「そちらが欲しいのは、つまるところ竜泉閣が保有している源泉なのでしょう?あのあたりで源泉を保有しているのは、うちだけですからね」
継春の言葉を受け止めて、田沼氏は目をつぶり、ゆっくりと左右に首を振る。そして顔を上げるとさきほどまでのこちらを懐柔するような笑いとは種類の違う、まるでかみついてくるかのような笑いを浮かべてこちらに告げてきた。
「ええ、ええ、そうですな、おっしゃる通り。新館の売りとして我々はぜひともあの源泉が欲しいのですよ」
芝居がかった仕草で両手を広げる田沼氏。大仰なその仕草はしかしそれこそが彼の本性だと告げていた。彼は広げた両手を翻し、こちらを指さして言う。
「しかしどうやら今のお考えではお譲りいただけないようだ。ふむ。契約にはお互いの合意が必要です。しかしこの話は悪い話ではないことはおわかりのはずだ。いいでしょう、今日はいったん引き上げましょう。しかしぜひじっくりとお考えになっていただきたい。後悔しますよ」
彼の物言いは態度と共にどんどん大仰になっていったけれど、私は最後の言葉が気になっていた。普通は後悔させません、というのではないかと思ったけれど、まるで予言のように「後悔しますよ」と彼は言った。
銀行から引き上げる道すがら、継春と二人、無言で帰り道を歩いている間も私はずっとそれが気にかかっていた。
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