第11話 あーっ、お客様、困ります!

 

 年が明けてからも当初の予定通りではあるけれど大女将の不在は続き、ようやくその状態にもどうにか慣れてきたかなとようやく思えてきた頃、ある一人のお客様が竜泉閣を訪れた。

 

 竜泉閣の裏手にそびえる深山、臥竜山もすっかり白い化粧を纏ってしまい、雪深くなるシーズンオフの時期に、しかも男性のおひとりさまだったこともあって、チェックインの時点からその人は奇妙に印象に残る人だった。

 根津、と宿帳に記載したその人は、オールバックになでつけた髪をがっちりと整髪剤で固めており、ぴっちりとしたスーツ姿だった。痩せぎすで背は高いはずなのに、背中をかがめている姿勢で歩く姿は、こう言ってしまうとなんだけど、どことなく卑屈さを感じさせた。


 私がお部屋にご案内している間も根津様は落ち着かない様子できょろきょろと周囲を見回している。どうにもその様子が不思議だった私は「なにか気になりますでしょうか?」と尋ねてみる。すると根津様は私の言葉にはじかれたように背筋を伸ばすと慌てて手を振って「いえいえいえいえ、なんでもございません」と否定した。

 私はその様子にむしろ不審になったけれど、そのタイミングでちょうどご案内の部屋についたので、それ以上は何も言わずにお部屋の説明を続けた。根津様は部屋に入ってからも押し入れを開け閉めしてみたり、寒いというのにわざわざ窓を開けて、そこから外を覗いてみたりと、どうにも落ち着かない。

 私は念のために気になったことを聞いてみた。


「あの、わざわざこちらのお部屋をご指定でしたが、ご希望でしたら同じお値段でもっと見晴らしの良い部屋が空いてございますが、ご案内いたしましょうか?」


 そう、この根津様は他にも部屋が空いているというのにわざわざ一階の一番奥まった部屋を指定してきたのだった。当然同じことをチェックイン時にフロントでもお聞きしていて、そのままで良いとは聞いていた。でも部屋の様子を確認されてからもしかしたら気も変わるかと思い、改めて尋ねたというところ。


 すると根津様はさらに慌てたように「いやいやいやいや!こちらで結構でございます。いやもう素敵なお部屋で、わたくし感動いたしました」と言ってくる。

「それは、ありがとうございます」と、まるでとってつけたような褒め言葉にお礼を述べつつも、思わず不審そうな視線になってしまったのを感じたからなのか、根津様はさらに言葉を付け加えてくる。


「いやいやいやいや、わたくし昔から端っこが好きでしてね。ほらハムとかパンとかも端っこが美味しいでございましょ?宿のお部屋についてもそんな感じなんでございますよ」

「それなら良いのですが……」

「ええもうホント、大丈夫ですから、ね?」


 そうかたくなに言われてしまえばこちらも無理にとは言えない。それ以上何も言えずに私はすごすごと退散した。

 フロントで帳簿とにらめっこしている継春にも根津様のことを相談してみるけど、「まあ、話を聞く限り確かに行動はすごく怪しいけどね……。部屋の選択も本人の希望ならこちらからは何も言えないしなぁ」と困った様子。とりあえずは一番自由に動ける私がこまめに様子を伺うということで落ち着いた。


 とはいえ私も色んな対応があるからずっと部屋の前にはりつくことはできないのだけど、しかし根津様はチェックインしてからはどうも宿の中をあちこち歩き回っているようだった。ロビーだけでなく次郎吉の住処となっている中庭の日本庭園、先日カラオケ大会が開催された大広間のあたりをふらついている根津様を見かけた。

 そのときはお声がけしなかったものの、別フロアの客室付近にいるのを見かけたときはさすがに声をかけざるを得なかった。


「あの、根津様?こちらは根津様のご宿泊されている部屋とは別フロアとなりますが……」


 私が声をかけるとぶるぶるぶると首を左右に小刻みに振りながら「いやいやいやいや、すいません。ちょっと迷ってしまいまして」と説明しながら、慌ててきびすを返して去って行くのだった。


♨♨♨


「やっぱりおかしいって!」


私はフロント裏の小部屋で継春に報告する。継春も困ったように腕を組んで顔をしかめていた。


「だって根津様の部屋は一階なのよ? 階段を上がらない限り他のフロアには行けないということは、わざわざ階段を上がっていったってことでしょ? いくら方向音痴でも、一階と二階を間違える事ってある?」

「確かに、それはおかしいよね」

「もしや空き巣?」

「うちに取るような高価な物ってあるかなぁ……?」


経理担当の継春が日頃の心労からかとても悲しいことを言ってくるけど、しかしうちのものならばともかく(いや、それはそれで問題ではあるのだけど)他のお客様の持ち物が盗まれてしまっては大事になる。


「うん。もし次に変なところで見かけたら僕も声をかけてみるよ」


 ところがその私達のやりとりを察したのか、それとも私が声をかけたことで警戒を増したのか、それ以降根津様が宿の中をうろつく姿を見かけることはなく、夕飯の時刻となった。

 夕飯時は宿のスタッフが調理や配膳などの対応にどうしても集中するため、必然的に他の場所が手薄になる時間である。もしかしたらそれを狙うかもしれない、と思ってフロント付近に常駐している継春には警戒を頼んでいたのだけど、肩すかしのように根津様は夕食会場に現れて、ゆっくりと時間をかけて食事を楽しんでいる。

 すると今日の配膳係となっている莉子ちゃんが、根津様の様子を見て、こそこそとこちらに言ってきた。


「ねえねえ、優菜。あの人怪しくない?」

「うん、まあ怪しいとは私も思うんだけどね」

「だって田中さんと一対一になっているのに無言でご飯食べてるよ」


 怪しいって、そこなのか。まあお膳幽霊であるところの田中さんの社交力は凄いものがあるけどさ。


「ほら、相手にされなくてなんだか田中さんもしょんぼりしちゃってるし」


 何それ見たい。私は配膳を片付けるついでに田中さんと根津様の様子をうかがう。 

 田中さん、そんなに悲しそうにこっちに訴えかけられても困るんだけど。私よりも大きな体をしているのにこちらを小動物のようなうるうるした瞳で見ないで欲しい、ついつい笑ってしまいそうになる。

 考えてみると田中さん、最近はずいぶんと頻繁に出てくるようになったなぁ。私が竜泉閣に来てすぐの頃はもう少しこっそりと出てきていた気がするけど。そう考えると竜泉閣にいるあやかしたち全員が、なんだか以前よりも積極的に表に出てくるようになった気がする。

 それは良いことなのかどうなのか、私には分からないけど、でもなんとなく竜泉閣全体の雰囲気が賑やかになったような気がしていた。


 ……はっ。いかん、思考が逸れていた。思わず横に逸れていた思考を元に戻して、私は根津様にお声がけする。


「根津様、お食事はいかがでしょうか?お口に合いますか?」

「いやいやいやいや、あの、たいへん美味しゅうございます」


 どうにも慌てた様子で昔の料理評論家みたいなコメントを返す根津様。

「そうですか、それは良かったです」と私は笑顔で応対しながら「よろしければお飲み物などいかがですか?」とついでにお酒を薦めてみる。お酒に酔ってしまえば変な悪さもできないだろう、という気持ちがないわけでもない。

 しかし私の思惑とは裏腹に根津様は「いやいやいやいや、もう十分なお料理で、お腹いっぱいでございますので」とこちらに言うと、そそくさと席を立って部屋に戻っていってしまった。

 あ、しまった。これはちょっと追い込みすぎてしまったかもしれない。ごめん、田中さん。ごめんて。謝るからあんまりこっちを見ないで欲しい。田中さんのこちらを見る目に悲しみと共にちょこっとだけ恨みがましさの色が混じった気がした。


 根津様の怪しさはこれだけに留まらなかった。


 食事を終えた根津様はいったん部屋に戻ってから竜泉閣自慢の大浴場に向かったらしい。私はもちろん男湯には入れないので、これはお風呂場のメンテナンスも兼ねて男湯の様子をうかがった継春からの伝聞となる。

 本来はおくつろぎの邪魔にもなるのでお客様のあまりいない時間を見計らって大浴場のこまごまとしたメンテナンス作業はやるのだけど、根津様がのれんをくぐって浴場に入っていったところをたまたま目撃した継春は、今回はあえて夕食後の時間帯で作業を実施したらしい。

 根津様はちょうど入浴中で、しかも偶然にもぽっかりと空いた時間帯だったのか、そのとき入浴しているのは根津様お一人だけのようだった。


 ひとくちに大浴場のメンテナンス作業と言っても、やることは色々とある。

 脱衣所にある使用済みのタオルを回収するとともにあたらしいタオルを補充する。綿棒や使い捨てカミソリなどの洗面台の鏡周りに置いてあるアメニティを補充する。床が濡れていれば人のいないタイミングを見計らって軽く拭き掃除をする。ゴミ捨てやあちこちに置かれている脱衣かごの整理も行う。

 なるべくお客様が気にならないように、静かに作業をすることを普段から意識していたからなのか、どうも継春が来ていることに根津様は気がついていなかったらしい。シャンプーやリンス、ボディーソープなどの補充もしようとして浴場の引き戸を開けた継春が見たのは、露天の岩場によじ登ってお湯の補充口を覗き込んでいる根津様だった。


 引き戸の音で振り向いた姿勢だった根津様は、体を妙な体勢でひねったからか、バランスを崩してそのまま湯船に落下した。

どばしゃぁん!と派手な音を立てて湯船に落ちた根津様に慌てて駆け寄る継春。


「だ、大丈夫ですか!?」


 継春の声に反応するようにざばん!と湯船の中で直立不動で根津様が立ち上がった。きっちりとなでつけた髪は湯船に浸かってもそのままの形を維持している。根津様は継春を手で制すると「いやいやいやいや、大丈夫ですので」と告げた。

 そのお腹は湯船に落ちる際に思い切り打ったのかだいぶ赤くなっていたらしい。本当に大丈夫ですか、もしどこか打っているなら救急車を呼ぶなり、麓の病院までお送りするなり対応いたしますが、と告げる継春を制して根津様は大丈夫だから、と脱衣所へ向かう。

 継春はその背中へ向けて「あの、そもそも温泉の湯出口を覗き込んで何をされていたのですか?」と尋ねた。

 ぴたり、と金縛りにあったように根津様は固まった後、機械仕掛けの人形のようにぎりぎりと振り向くと、「いやいやいや、良いお湯でしたので、どこから出ているのかな、と思いまして」とよく分からない理由を継春に告げて大浴場を去って行った。


「……とことん怪しいわね」


 継春から状況を聞いた私はつぶやく。


「怪しいのは確かなんだけどね」


 継春が困ったように答える。彼の言わんとしていることは分かる。行動は明らかに怪しいのだけど、その目的がさっぱり分からないのだ。


「物取りではなさそうだけどね」


 そう告げる継春に私もうなずいて同意する。


 結局、根津と名乗ったその人の正体が明らかになったのは、彼がチェックアウトする時だった。

 「お世話になりました、はい」と言いながら一泊分の料金を払う彼に、私は「あの、本当に昨日は大丈夫でしたか?他の者から湯船に落ちたと聞きましたが」と質問する。「いやいやいやいや、大丈夫でございますですよ。ご心配なく」と言いながら、彼は懐から一枚の名刺を取り出した。


「実はわたくし、こういう者でございまして」


私は名刺を受け取って、しげしげとその文面を眺める。


「不動産……鑑定士?」

「ええ、わたくし田沼不動産で不動産鑑定士をやらせていただいております。またお会いさせていただきますですよ」


にたり、と不穏な笑みを浮かべて根津様は去って行った。


彼の言葉通り、根津氏に再び出会うのはそのすぐ後だった。


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