第5話 長逗留は大歓迎です!(後編)
竜泉閣の夜はけっこう早い。その日宿泊されているお客様に若い方が多いとそうでもないけれど、うちみたいな比較的年配のお客様が多い宿だと、日付が変わる前には宿の雰囲気はずいぶんと静かなものになる。ロビーにあるお土産ショップで商品の補充をしていてすっかり遅くなった私は、継春と住んでいる自室へと向かっていた。
通り道でもあるのでそれとなく客室の様子を見て回る。ほとんどの部屋はすでに寝静まっているようだった。作家さんは夜も遅いのだろうかと気になったので、山田先生の宿泊されている部屋の方にも回ってみる。
照明が落とされている廊下の角を曲がったところで、奥の方に人影が見えた。ちょうど山田先生の部屋のあたりだ。もしかして山田先生だろうかとも思ったけれど、それにしてはその人影はずいぶんと小柄だった。不思議に思っている間にその人影はするするとこちらに近づいてくる。
それは小さな女の子だった。
おかっぱ頭に牡丹柄の着物を身に着けて、悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見つめている。宿泊客のお子さんではない。それは夕食の席で見たから分かっている。あの子は夕食の席で終始賑やかだったし、もっと快活そうな子だった。
私の目の前まで音もなくやってきたこの女の子は、身に纏っている雰囲気が違う。薄暮を形にしたような儚さと、幼子特有の無邪気さを掛け合わせたような存在感。なによりその瞳は縦に細い瞳孔を備えていた。暗がりで妖しく光る猫の瞳。足元に纏わりつくのは同じ瞳を持つ漆黒の猫。暗闇から溶け出してきたようなその猫は、二本に分かれて揺れる尻尾を備えていた。
その子はするするとこちらに近づくと私の手を引き、そこから数歩歩みだす。状況についていけずに私がその場で固まっていると、彼女の手に引っ張られて私の中から何かが抜けていった気がした。女の子はそのまま溶けるように暗がりに消えていき、黒猫もいつの間にか周りの闇と同化するように消えている。
女の子がいなくなってからもしばらくの間、私はその場に立ちすくんでいた。あの子はいったいなんだったのだろうか。山田先生の宿泊されている部屋から出てきたようにも思えたのが気になったけれど、さすがにこんな時間にお部屋を尋ねるわけにもいかない。私は狐につままれたような心地のまま自分の部屋へと戻って、一足先に熟睡している継春の寝顔を横目に見ながら眠りについた。
♨♨♨
昨晩は謎のあやかしに遭遇したこともあり、布団に入るのが普段よりもずいぶんと遅くなってしまったので、翌日まで疲れを引きずってしまうことも覚悟していた。しかしいざ目覚めてみると思った以上に心も体もすっきりとしている。体に溜まった悪いものが一度に抜けていったかのような爽快な気分だった。
今日の早番となっていた継春は私が起きるとすでに仕事に出ているようだった。私も着物に着替えてロビーに向かう。朝のロビーでは並んだソファーのひとつに腰かけて、山田先生が無料サービスのモーニングコーヒーを嗜んでいた。昨夜のことが気になった私は先生に声をかけてみる。
「山田先生、おはようございます。昨夜はよく眠れましたでしょうか」
こちらを向いた山田先生のお顔は、心なしか昨日よりもしゃっきりしているように見えた。気分も良いのか私の問いかけに先生は上機嫌で答える。
「いやあ、もうぐっすりと眠らせてもらいましたよ。普段は宵っ張りの上に眠りが浅くて疲れが取れないことがよくあるんですが、昨晩はよく眠れて、とても良い夢を見ました。これなら執筆もはかどりそうですよ」
「そうでしたか、それはなによりです。どんな夢だったんですか」
「ええ、まあ、そのなんというか良い夢でした」
私の質問に急にぽりぽりと頭を掻いて微妙に口を濁す山田先生。気まずそうにコーヒーを啜っている。不自然な態度が気になったものの、それ以上しつこく聞くのもはばかられたので、私は黙ってその場を離れた。
フロントの裏に回ると、ちょうど継春がパソコンに向かって事務作業をしていた。もしかしたら昨日のあやかしの事も彼なら知っているかもしれないと思い、私は彼に声をかけると昨夜の出来事を簡単に説明した。
「昨夜女の子の姿をしたあやかしに遭遇したんだけど、継春は心当たりある?」
「……ああ、うん、知ってはいるけど、そうか、優菜は初めて会うんだっけ」
継春は一拍遅れて返事を返してきた。明らかに態度がおかしい。不審に思った私は更に詳しく、そのあやかしが山田先生の部屋のあたりに現れたことも説明した。
「私はその子と廊下で会ったんだけど、どうも山田先生も遭遇しているみたいなんだよね。はっきりとは口にしていないけど」
「山田先生のところに出たとしても、害はないと思うよ。先生ならむしろ良かったと思うんじゃないかな」
継春はフロントのカウンター越しにロビーにいる山田先生をちらりと見ながら妙にはっきりと断言する。やはり継春は何か知っているようだ、私はさらに問い詰めてみる。
「なんでそんなに断言できるのよ。あの女の子はなにもしてこないの?」
「別に害はないはずだよ」
それだけ言うと私から視線を外し、パソコンの画面を見つめる継春。なんだかさっきの山田先生と似たような態度だった。怪しい。あやかしよりよっぽど怪しい。継春はしばらく意味もなくパソコン画面にマウスカーソルをうろうろさせていたけれど、私が送る疑惑の眼差しについに観念したのか、こちらに向き直って話し始めた。
「説明するとね、彼女はいわゆる座敷童、屋敷に住み着くあやかしなんだ。昨日優菜も体験したと思うけど、彼女には精神的な老廃物、心のもやもやみたいなものを取り去ってくれる能力があるんだよ」
「それと山田先生が良い夢を見たっていう話とはどういう関係があるの?」
「寝ている間にその能力を使われた場合は、子供の頃に返って彼女の遊び相手になった夢を見るんだよ。たぶん山田先生には願ったりなんじゃないかな」
「ねえそれ、さっきも気になったんだけど、どういう意味?」
「あ、そうか、それも優菜は知らなかったんだね。チェックインの時に聞いたんだけど、山田先生は童話の作家さんなんだよ」
継春はウェブで山田先生の作品を検索すると、作品一覧を見せてくれた。童話や昔ばなしに題を取ったものも多く、失礼ながら先生の見た目からは想像できない、可愛らしいお話が多かった。絵本の原作などもやっているらしい。
「なるほど童話作家だからあんなシンプルなペンネームなのね」
「いや、山田太郎は先生のご本名らしいよ」
「あ、そうなの?それはまたシンプルなお名前で」
妙なところで私が感心していると、背後から声がかかった。
「あら、子供向けの絵本なんて探して一体どうしたの?」
二人そろって後ろを振り向くと、いつの間にかそこには大女将が立っていた。継春が大女将の質問に答える。
「優菜にうちの座敷童の話をしていた流れで童話とか昔ばなしの話になって」
「ああ、そういうこと」
「大女将も座敷童の女の子のことを知っているんですか」
「そりゃあね。あの子には随分とお世話になったからねぇ」
はて、お世話とはいったいどういうことだろうか。私が不思議そうな顔を浮かべていることに気づいた大女将が説明してくれた。
「お世話になったっていうのはね、小さいときの継春の面倒を、彼女がよく見てくれていたのよ」
「ええ?」
驚いて継春の方を見ると、彼は恥ずかしそうな顔をしてそっぽを向いていた。詳しく聞いてみると、継春が小さいときは団体客も多く竜泉閣も今よりずっと忙しかったそうで、大女将も継春の面倒をあまり見られずに不憫に思っていたそうだ。大女将の夫、つまり継春の父親も突然の病気で早くに亡くなっており、継春はよく一人で留守番をしていたとのこと。
そんな時、疲れた体で大女将(その頃は私と同じ若女将だけど)が部屋に戻ると、継春が小さいお手玉を握ってすやすやと眠っていたそうだ。
心当たりのないお手玉のことを聞いてみると、幼い継春は「女の子にもらった」と言っており、一人で部屋で留守番をしている間、お手玉やわらべ歌を歌って一緒に遊んでもらったらしい。それは良かったね、といったものの不思議に思った大女将は、先代の大女将に尋ねたところ、その女の子はこの竜泉閣に昔からいる座敷童のお華ちゃんだろうと聞かされた。
継春にその人はお華ちゃん、というらしいよと告げると、「おはなちゃん!」と嬉しそうに頷いたという。それからというもの、継春からは毎日のように今日はおはなちゃんとこうやって遊んだ、といった話を聞かされたそうで、継春が大きくなるまですっかりお華ちゃんのお世話になったらしい。
なるほど、それじゃああの女の子は継春の幼馴染みたいなものなのか。大女将の話を聞き終わって継春の方を見ると、彼はなんとも恥ずかしそうに下を向いていた。
「だからあんまり優菜にはこの話したくなかったんだよ」
小さいときの話なんだし、可愛いエピソードなのだからそこまで恥ずかしそうにすることもないのではと思ったものの、彼なりに私の怖いもの嫌いを気にして言わなかったのかもしれない。最初にあやかしの話を聞いた時はなにしろ彼に土下座をさせてしまったし、それはさすがにやりすぎだったと反省している。
しかし今回の件も含めて、私もだいぶこの宿に慣れてきた気がする。あやかしも確かに最初はびっくりするけど、言われるように害を及ぼすわけではなさそうだし、大女将から聞いた昔の頃のようにもっとこの宿を盛り立てていかないと、と私はひそかに決意したのだった。
♨♨♨
一月ほどの滞在を経て、山田太郎先生は竜泉閣をチェックアウトされることになった。これほど長く滞在された方はあまりいなかったので、お見送りには宿のスタッフのかなりの人数が集まっていた。もしかしたらお膳幽霊の田中さんもそこには交じっていたかもしれない。執筆を無事に終えた山田先生は晴ればれとした表情だ。
「若女将、本当にここはいい宿ですよ、おかげで最高に筆がはかどりました」
「それはなによりです。私たちもおもてなしした甲斐がありました。ぜひまたいらしてください」
「もちろんです。贔屓にさせていただきますよ」
初日こそ血走った眼をしていた本吉女史も、山田先生の執筆が軽快に進んだからか、いまやすっかり穏やかな表情となっていた。
「本当にお世話になりました。遅筆で知られる山田先生の筆がこんなに進んだなんて初めてなんです。おかげで安心して編集部に戻れます。編集部でもこの宿のことは話題になっているんですよ」
それは良かった。文豪ではなかったけれども、作家ご用達の宿というキャッチフレーズはこの宿の一つの売りになるかもしれない。
山田先生の長逗留の間にそろそろ夏の終わりの気配が見えてきていた。紅葉、そして冬のシーズンは山の温泉旅館にとってはかきいれ時でもある。このタイミングで宣伝してくれるのはありがたいけど、他にも宣伝が必要だよなぁと思いながら、私たちは山田先生を見送ったのだった。
そう、宣伝。この宣伝がトラブルを引き起こすことになるのだけど、それはもう少し後の話になる。
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