第4話 長逗留は大歓迎です!(前編)


 そのお客様が竜泉閣を訪れたのは、夏も盛りの八月のことだった。


 山の中の温泉宿にとって、夏場のシーズンは客足が鈍くなるなかなか鬼門の季節である。やっぱり夏のレジャーといえば海。海辺の旅館やホテルに旅行客は向かう傾向にある(正直に言うと私も海へ遊びに行きたい……)。


 もちろん近くに川があり、そこから小川を引いているので夏の竜泉閣もなかなか捨てたものではない。河童の次郎吉のおかげで夏でも冷たい竜泉閣自慢の小川は知る人ぞ知るうちの売りの一つでもある。ただ旅館業の場合、知る人ぞ知る、ではあんまりよろしくない。竜泉閣の経営状況を考えればお客様には来れるだけ来てもらわないといけないのだ。梅雨の時に継春に見せられたまっ白な予約状況とその際に知ったこの宿の借金の額は、その時以来すっかり私のトラウマとなっている。


 昔のバブルの頃(と言っても私自身は良く知らないのだけど)と違って、今では社員旅行で温泉旅館を訪れてくれるような団体客はすっかり減ってしまっている。一方で最近は女性のみのグループ客も多く、同年代の女性である若女将の采配が求められるところなのだけど、いかんせん新米若女将の私は毎日の仕事に追われてなかなかそこまで手が回っていないのが実情だった。

 なんにせよ、昔のように大口の団体客が見込めなくなった以上、個人のお客様をいかに取り込んでいけるかがこれからの温泉旅館の課題であり、しかもできることならばなるべく長期で宿泊してもらえるとなお良いのだけど、果たしていまどきそんなお客様がいるのだろうか……。


♨♨♨


 そんな時、一人のお客様が竜泉閣を訪れた。

 その人は予約もなくふらりと訪れ、「すまないが、部屋は空いているだろうか、すこし長逗留をしたいのだが…」と尋ねてきた。フロントで受付の対応をする継春は満面の笑みで「はい、もちろんございます。景色の良い部屋が空いておりますので、よろしければそちらのお部屋にいたしましょうか?」と提案する。


 横で聞いていた私は、景色の良い部屋が長期間空いているというのも決して喜ばしいことではないんだけどな、と自嘲気味に考える。もちろんそんな気持ちはいっさい顔には出さず、笑顔の仮面はしっかりとつけたままだ。今年の四月からの数か月の間にすっかり私も営業スマイルというものを身に着けたのだ。人間の順応力って素晴らしい。部屋が空いてるのはまごうことなき事実ではあるしね……。


 その人は白髪に白髭をたくわえ、涼しげな着物姿で黒縁の丸眼鏡をかけた恰幅の良い男性だった。某全国的揚げ鳥フライドチキンチェーン店の創業者とか、三鷹の森の館主ジブリの監督をイメージしてもらえるといいかも。

 しかしその風貌はどう見ても普通のサラリーマンをしてきたようには見えない。私は気になって宿帳の職業欄を覗き込んでみると、そこは「作家」と書かれていた。

 作家!なるほど確かに言われてみればいかにも文豪でござい、といった風貌をしている。そうすると氏名欄に書かれた「山田太郎」はもしかするとペンネームなのだろうか。だけどそれにしてはどうにも地味すぎる気がする。いまどきお役所の書類記名例でも書かれなさそうな名前だ。


 私が「山田太郎」は果たしてペンネームか否かという問題について唸っていると、玄関から勢いよくスーツ姿の若い女性が飛び込んできた。その女性のベリーショートの髪の毛は飛び込んできた勢いで逆立っていて、まるで天を衝いているようだった。

こちらが声をかける間もなくその人はあたりを野獣の眼光で見回して、宿帳への記入を済ませて、ロビーでサービスのコーヒーを飲んで寛いでいる山田さんに焦点を合わせる。両の目を吊り上げながらつかつかと山田さんの所へ近づくと、ロビー中に響き渡るような大声で詰め寄る。


「山田先生!こんなところにいらっしゃったんですか。編集部でお取りした宿がありますのに、わざわざこんな所にいらっしゃらなくても」


 おそらくは怒り心頭で頭に血がのぼっているのだろう。とはいえ、ずいぶんと失礼な言いぐさである。こんな所とはなんだ、こんな所とは。せっかく身に着けた営業スマイルがぼろぼろと崩壊しそうになる。

 私だったら彼女の勢いにたじたじになりそうだなと思ったけれど、さすが作家の先生である山田さんは泰然自若な態度で彼女に告げる。


「いや本吉君、せっかく予約してくれたところ悪いんだけどね。僕はこちらの宿にお世話になることに決めたから」

「先生、そうおっしゃられても」


 そうだそうだ、頑張れ山田先生。すっかり山田先生派になった私は受付カウンターの裏から無言のエールを先生に送る。私のエールが通じたのかどうかはわからないけれど、すったもんだの問答の結果、晴れて山田先生は竜泉閣に宿泊されることになった。


「仕方がありません、でしたら私もこちらに泊まらせていただきます。担当編集から逃げようとしてもそうは行きませんからね」


 こころなしか血走った目で編集者だという女性が山田先生に告げる。山田先生もその目力に気圧されたのか、若干引きつった顔で同意するように頷いた。という事は先生には大変申し訳ないけれども、宿泊者が一人増えたことになる。継春も彼女に向けてほくほく顔で宿帳を差し出した。ちらりと横から覗き込めば、編集者の女性のお名前は「本吉なばな」さんだった。正直なところ、山田太郎よりよっぽど作家っぽい名前だと思う。


♨♨♨


 山田先生と本吉女史をそれぞれお部屋へとご案内したのち、私は浮かれ顔で厨房を訪れて、板長の藪塚さんに長期宿泊客が取れたことを嬉々として報告した。


「ねえねえ板長、ちょっと聞いてよ。長期宿泊のお客さんが取れたんだよ、しかも二人も!」


 私の言葉に包丁を研ぐ手を止めて、苦笑しながら板長が言う。


「若女将がめずらしく嬉しそうに厨房に現れたかと思えば、なるほどそういう理由ですか」


 板長は研いでいた包丁を目の前にかざすと、軽く指でなぞって研ぎの出来上がりを確認し、満足そうにうなずいてからそれをまな板の上に置き、こちらに向き直って話し出す。


「ですが、長期宿泊となると、夕食のメニューも考慮しなければですね。豪華な料理も毎日だと飽きてしまいますし、まかないに近い形で飽きのこないようなメニューにしないと」

「ああ、なるほど、それは考えてなかった。確かに板長の言うとおりだね」

「え? 若女将はそれを言うために厨房に来たんじゃないんですか?」

「ううん、ただなんとなく誰かに自慢してみたかっただけ」

「そうだったんですか……」


 私の答えを聞いてがっくりと板長がうなだれる。そこへ厨房の入り口から仲居の莉子ちゃんが現れた。


「ねえ藪くん、さっきどうやら長期のお客様が取れたみたいだから、なにか飽きの来ないメニューを考えといて……ってあれ? 若女将、いったいどしたの?」

「いや、自分の未熟さに落ち込んでいるだけだから気にしないで」


 私はぱたぱたと手を振りながら莉子ちゃんに言うと、板長よりもさらに深くうなだれる。やはり仲居としての年季が長いだけあって、私よりよっぽど莉子ちゃんの方がしっかりしている。私はまだまだ修行が足りないなぁ。そこまで考えてから、さきほどの莉子ちゃんの呼びかけを思い出す。……莉子ちゃんて、板長のこと藪くんって呼んでるんだ。


「なあ莉子、頼むから旅館では俺のことは板長と呼べって、前から言ってるだろ」

「ごめんごめん、ついいつもの癖で」


 そして板長は莉子ちゃんの事、莉子って呼び捨てなのか。前々から二人は幼馴染だとは聞いていたけど、思い返してみると仕事中に二人が会話しているのをあまり見たことがなかった。思いのほか親密な様子だったので、ついついからかいたくなってしまった。


「うちの宿は社内恋愛OKですよ、おふたりさん」


 半分冗談で言ったわりには二人の反応は過敏だった。どちらも顔を赤くして、声をそろえて言ってくる。


「「違いますから!」」


 果たしていったい何が違うのだろうか。私は唐笠お化けの件のお返しを莉子ちゃんに出来たことで満足しながら厨房をあとにしたのだった。


♨♨♨


 その日の夕食時、私は大広間で配膳を担当していた。

 今日のお客様は小さいお子さんのいる家族連れが一組、若いカップルが一組、年配のご夫婦が二組と、山田先生に本吉さんだった。配膳の配置はこの順番で並べてある。なんとなく家族連れより遠い方が山田先生たちはいいだろうと思ったからなんだけど、向かい合わせに二つ並べられたお膳の前で食事をされているのは山田先生だけだった。

 本吉さんはどこか具合でも悪いのだろうか。ストレスの多そうな仕事であろうことはチェックインの様子で察せられたけれども。一方の山田先生は一人でにこやかに食事を楽しまれているご様子。最初は気難しそうな方だと思っていたけれど、意外とそうでもないのだろうか。 小さいお子さんが元気なこともあり、夕食の席はにぎやかに進んでいったけれど、本吉さんは結局最後まで現れなかった。

 お膳をまとめて厨房まで下げているときに今日客室を担当している莉子ちゃんと出くわしたので聞いてみる。


「ねえ、ちょっと聞きたいんだけどいい? 本吉さん、夕食の席にいらっしゃらなかったのだけど、もしかしてどこかご気分でも悪いのかな」

「え?いや本吉さんは部屋でお食事をとられると言って、わたしが配膳したけど」


 ん?それはおかしい。確かに山田先生の向かいにはお膳が配膳されていたのに。私が不思議に思っていると、ひとっ風呂浴びてきたのか少し緩めに浴衣を着て上気した顔の山田先生がこちらに声をかけてきた。


「ああ、若女将。夕飯の席での計らいには感謝するよ」

「はい?」

「気遣い頂いたように、この年でも一人の食事は侘しくてね。わざわざ向かいに同年代の方を話相手に配置してくれるとは」

「あ、はい、ええと、よろしかったでしょうか」

「いやいや久しぶりに人との話が弾んで楽しい夕食だったよ。あの方も長期滞在なのかな?明日以降もそうしてくれるとありがたい」

「はあ、検討いたします」


 私がそう答えると、ぜひよろしく、と言いながら山田先生は上機嫌で部屋に戻っていった。とりあえず訳も分からず相槌を打って凌いだけども、私はそんなことをした覚えはない。莉子ちゃんが不思議そうに聞いてくる。


「山田先生以外にお一人様っていらっしゃったっけ?」

「本吉さんだけのはずだけど、確かにお膳は山田先生の向かいに一膳用意されていたのよね」


 他には私にも心当たりはない。本吉さんが部屋でお食事を召し上がられたということは、山田先生の向かいのあのお膳は余分に準備されたものということになる。私の言葉を聞いて、莉子ちゃんは納得したようにうなずいた。


「ああ、じゃあきっと田中さんが山田先生のお相手をされていたんじゃないかな」

「ええっと、田中さん……?」

「ほら、優菜も知ってるでしょ。夕食時にたまに現れる、お膳のひと」


 そこまで言われて私は気がついた。それってもしかして私が最初に遭遇したあの怪異のこと?しかも田中さんって、しっかり名前まであるのか。


「私がここの宿に就職したとき、まだご存命だったから」

「そんな最近の話なの?」

「最近と言っても十年くらい前だけどね。よく食べて賑やかな人だったし、たぶん山田先生と年も近そうだったから話が合ったんじゃない?」


 そこまでプロフィールが詳細だとなんか生々しいなぁ。いや、山田先生が喜んでくれたならいいんだけども。不思議と食事の最中には配膳していてもお膳が増えていることがそこまで気にならない。その間向かいのお客様はどうしているのか、前から気になってはいたんだけど、まさか談笑しているとは。


「気が合いそうなひとがいるときだけ現れるんだよね、田中さん。話も弾んでいたみたいだし、山田先生のこと気に入ったんじゃない」

「本吉さんはそれでいいのかな。食事別々になっちゃうけど」

「私も聞いてみたけど、『食事の時くらいあの野郎、あ、いや、先生のお顔を見ないでいたいです』って言ってたよ」

「ああうん、それならいいや」


 作家と編集者。なかなかの事情が二人の間にはありそうだけど、うん、踏み込まないでいよう。お膳幽霊の田中さんにはぜひ山田先生の滞在中のお相手をしていただけると助かります。

 その願いが通じたのか、それとも本当に田中さんが山田先生を気に入ったのかはわからないけど、山田先生がいる間は珍しくも毎日田中さんは現れているようだった。 一人分の食事ロスは地味に痛いけど、毎日ご機嫌に食事をとられている山田先生を見ていると、まあしょうがないかと思えるのだった。


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