第3話 梅雨は旅館も大変なのです!


 竜泉閣の中庭、日本庭園の中に咲く紫陽花がしっとりと雨露に打たれている。今年の梅雨はどうやら長雨らしい。じとじとと湿った空気に包まれていると、なんだかこちらもどんよりしてしまう。私はロビーの掃除機掛けを中断し、掃除機に持たれかかってため息をついた。夫の継春を見ると、彼も受付カウンターの中でノートパソコンの画面を見つめてどんよりとしていた。


「ねえどうしたの、どんよりした顔して」


 私は自分のことを棚に上げて聞いてみる。継春はきりきりと壊れた人形のように振り向くと、うつろな瞳でこちらを見てきた。


「これじゃあどんよりもするよ」


 掃除機をほっぽり出して近づいた私に向けてノートパソコンをくるりと回し、画面を見せてくる。彼が見ていたのは今月の部屋の予約状況だった。なんだか全体的に白い。


「え、もしかして今月ってこんなに空室があるの?」

「そうなんだよ。梅雨時は旅館にとって結構厳しい季節でね。ゴールデンウィークの反動もあるし、雨が降ると観光もしにくいでしょ?どうしても客足が鈍るんだよね」

「私としては大変な客室掃除が減ってちょっとだけ嬉しかったり」


 聞こえないよう口中でにこっそりとつぶやいたつもりの私の不届きな言葉を、耳聡く聞き逃さなかった継春が暗い顔で言う。


「優菜もこれを見たらそんなことを言っていられないと思うよ。そういえば君にはちゃんと見せたことなかったね」


 継春はカチャカチャとノートパソコンを操作して、予約システムとは別に会計ソフトを立ち上げると、その中のとある画面を見せてきた。いくつかの項目に分かれた表の中に数字が並んでいる。確かにいままで見たことがない画面だった。「なにこれ?」と画面を指さして問いかける私に「この旅館の収支計算書」と継春が答える。私は身を乗り出して画面を覗き込んだ。


「ええと、どれどれ……なんだ、収支トントンくらいじゃない。脅かさないでよ」

「一番下をよく見てみて。数年前に大雨の水害で露天風呂を修理した時のローンがまだ残ってるんだよ」


 私は継春からマウスを受け取ると、マウスのホイールをくるくると回して画面をスクロールさせ、下の方をよく見てみる。そこには見たことの無い額の数字が並んでいた。


「え、ちょっと待って、いち、じゅう、ひゃく……」


 指折り数え始めてはみたものの、途中で桁を考えるのを私は放棄した。これは……たしかに継春の言う通りけっこうやばいのではないだろうか。危機感に襲われた私の心を、焦りの気持ちが支配する。何か梅雨時でももっとお客様に来てもらえる企画を考えないといけない。

 しばらくうんうんと唸りながら考えていると、思考に集中するあまりに姿勢がおろそかになっていたようで、通りがかった大女将が私の姿を見て軽く注意を促す。


「ほら若女将、裾が乱れてますよ」


 その言葉でようやく着物の乱れに気がついた私は慌てて身なりを整える。「すいません、油断してました……。お義母さん、いや大女将はいつもぴしっとしてますね。なにかコツでもあるんですか?」

「そうねえ、もしかしてお茶をやっているからかしら」


 その言葉を聞いて私の脳裏に閃くものがあった。私はその場で大女将と継春に新しいアイデアを提案してみる。


「あの、ちょっと提案なんですけど、梅雨の時期限定のイベントとして、空いている客室を使って茶の湯体験とかできませんかね。せっかくの和室なんだし、この時期は宿の中にいてもできるアクティビティがあってもいいと思うんですよね」


 ふとした思い付きで発案したアイデアだったけれど、幸いにも大女将が乗り気になってくれた。


「いいじゃない。それならお茶の道具も準備しないといけないわね。ここ最近はとんとご無沙汰だったからお道具もしまいっぱなしで、ちょっと手入れしないと」

「私、手伝います!」


 自室に戻ろうとする大女将について行こうとすると、くるりとこちらを振り向いて制止された。


「その前にあなたはそこに落ちてる除機を片付けなさいね」

「……はい、すいません」


 私はほっぽり出してあった掃除機をいそいそと片付けるのであった。


 ♨♨♨


 さて、大女将に茶の湯体験会について了承をもらったものの、さすがにそれだけでは押しが弱い。何か他に出来ることはないだろうか。ちょうど厨房の前を通りかかったので、ちらっと中を覗いてみる。先日の河童と豆腐小僧との衝撃的な遭遇から、私は厨房から無意識に足が遠のいていたのだ。


「おや、若女将、どうしたんです難しい顔して。おやつでもカビさせましたか?」

「なによ失礼ね。あ、でもこの前売れ残りのお饅頭をダメにしちゃったか。いやでも、もともと賞味期限切れだったし」

「……気を付けてくださいね」


 おそらく板長は冗談のつもりで言ってきたのだろうけど、残念ながら私は実際にやってしまっていた。板長は私をまるで給食のパンの残りを机の中でカビさせてしまった男子を見るような目で見てくる。そんな男子が小学生のころにクラスに一人はいたような気がする。


「板長も食中毒には気を付けてよね。一回でも出したら営業やばいから」

「ええ、承知してます。板場の方もこの時期はいつも以上に気を遣ってますよ」

「例の大型冷蔵庫とか、食材がいっぱい入るからって油断しちゃだめよ」

「その点はご心配なく」


 やたらと自信ありげな板長の様子を見て不思議に思い、詳しく理由を聞いてみると、どうやら豆腐小僧の住みかとなっているあの冷蔵庫、食材を入れておくと勝手に賞味期限順に並べなおされているらしい。豆腐小僧が気にして並べなおしているんじゃないんですかね、とは板長の談。「なにその便利機能、うちの冷蔵庫にもほしい」と思ったところで、私はそもそもの本題を思い出した。

 うちの旅館の売りの一つは板長の料理である。なにかこう、特別感のある料理などないだろうかと相談してみる。


「それなら茶懐石とかどうですかね」

「なにそれ?料亭とかの豪華な料理と違うの?」

「それは会席料理ですね。音が同じなので混同されやすいんですが、もともと懐石料理はお茶の席での食事のことなんですよ」

「へえ、それは知らなかった」

「本格的なものは予算の都合もあるので難しいですが、茶の湯体験に参加されるお客さんへの特別メニューをちょっと考えてみますよ」


 ♨♨♨


 茶の湯体験に茶懐石とパーツは揃ってきた気がするものの、何かさらにもう一押しないだろうかと私は思案する。宿にいながらにして楽しめるもの……。再びロビーに戻ってきたところで、ふと、雨に打たれながら色とりどりの花を咲かせている中庭の紫陽花が目に入ってきた。改めて見てみると、竜泉閣の中庭を構成している日本庭園はなかなかの景観だ。これを何かに使えないだろうかとじっと見ていたところを不審に思ったのか、仲居の莉子りこちゃんが私に声をかけてきた。


「優菜、そんなに中庭を眺めてどうしたの?」


 莉子ちゃんは板長の藪塚さんの幼馴染で、私とは年も近いので仲良くさせてもらっている。ちなみに彼女は今でこそ奇麗な黒髪を誇っているけど、ちょっと昔はやさぐれていて、目の前の紫陽花のようにそれはもうカラフルな髪色だったらしい。……そういえば紫陽花は土の状態で色が決まるんじゃなかっただろうか。それにしては目の前の紫陽花は赤、紫、ピンク、青と随分とカラフルな色合いを誇っている。


「ああ、そのこと。たしかにここの紫陽花ってカラフルだよね。私も聞いた話だけど、河童の次郎吉のおかげらしいよ」


 私の疑問に莉子ちゃんが答えてくれた。凄いな次郎吉。理屈は分からないけれど、なるほどそれでこんなに風情のある風景になっているのね。せっかくなので莉子ちゃんにもこれを何かに生かせないかと意見を聞いてみる。


「それならさ、この風景をバックに和傘で写真撮影とかどうかな。最近はコスプレ撮影とかも流行っているみたいだし」

「あ、それはいいかも」

「実は前からコスプレに興味あったんだよね。けっこうアニメが好きでよく見てるんだけど、最近は和風のものも流行ってるんだよ」


 私には疎い分野なので今の流行りは知らなかったけれど、それならばこの古めかしい旅館だって見方を変えれば風情があるといえる。特に和風物のコスプレ撮影には向いているのではないだろうか。


「優菜も着物なんだし、試しにスマホで一枚撮ってみようよ。上手く撮れたらチラシにも出来るしさ」

「いや、私はいいよ、恥ずかしいし」

「まあまあ、そう言わずに」


 渋る私をぐいぐいと押してくる莉子ちゃんと一緒に、中庭へと向かう。「ほら、これも持って」と莉子ちゃんが渡してきたのは中庭への入り口付近に並べて置いてある和傘だった。そのうちの一本を広げて持ち、中庭の真ん中まで出てきたところで、傘を持つ右手の感触がおかしなことに気が付いた。なんというか、傘の持ち手にしてはずいぶんと柔らかいし、それになんだか妙に生暖かい。不思議に思ってなにげなく自分の右手に視線を移すと、毛深い足が目に入ってきた。

 ……なんだこれ。

 そのまますうっと見上げると、傘の内側に張り付くようしてぎょろりと大きく見開いた目玉とばっちり目が合った。


「いやあああああっ!?」


 私は慌てて和傘を放り投げる。放り投げた傘はひとりでに閉じると、一本足で器用にぴょんぴょんと飛びはねた後、すっと空中に消えていった。私の悲鳴を聞いて莉子ちゃんがこちらに駆け寄ってくる。


「優菜、大丈夫!?」

「いや、大丈夫は大丈夫なんだけど、なにあれ……」


呆然とする私の横まで来ると、和傘が消えていった先を見つめて莉子ちゃんが言う。


「あれって唐傘お化けじゃない? たしか唐傘小僧とも言うみたいだけど、ずいぶんと毛深かかったし、あの足はどう見ても大人の足だもんね。小僧では無いかな」

「いや呼び方はどうでもいいんだけど」

「ここの和傘のうちの一本がそういうものだとは聞いていたけど、いや、私も見たのは初めてだよ」

「なんでよりによってそういうのを引いちゃうのかなあ、私は……」


 運が悪いというのか、引きがいいというのか。どんよりと落ち込みそうになったところで本来の目的を思い出す。そもそも私たち、お試しで写真を撮ろうとしていたんじゃなかったっけ。


「ああ、それならすっごく良いのが撮れたよ」


 莉子ちゃんはそう言ってくすくすと笑いながら私にスマホの画面を見せてくる。そこにはアメリカのホームドラマのようにオーバーリアクションで両手を広げ、これ以上ないくらいに目を見開いた驚きの表情をしている私の一瞬の表情が見事なタイミングで捉えられていた。


「いやもう最高よ、この表情」


 お願いだから今すぐ消してと懇願する私に対して、「うふふ、どうしようかな」とにやにやしながらスマホを懐にしまい込もうとする莉子ちゃん。私は若女将の威厳も何も放り出して、彼女に平身低頭で頼み込んだのだった。


 ♨♨♨


 予想外のトラブルはあったものの、若女将として初めて発案した梅雨時期限定、茶の湯体験プランはお客様から非常に好評だった。板長は予算と見た目のトレードオフに苦戦はしたみたいだったけれど、特別メニューを松花堂弁当仕立てで準備してくれた。なにより莉子ちゃんアイデアの和傘を使ったコスプレ撮影が意外と好評で、普段のうちの客層とは違う若い子たちがこぞって宿泊に訪れてくれたのだった。


 お客様が楽しそうに和傘を開くたびに、私はいつ唐笠お化けが出てくるかとひやひやしていたのだけど、そこは空気を読んでくれたのかついに一度も唐笠お化けが飛び出てくることはなかった。もし一度でもやつが出てきたら、私はいま置いてある和傘をすべてばっきばきに折ってやるつもりでいたので、もしかするとその覚悟が伝わったのかもしれない。

 そんなこんなで旅館にとっては鬼門である梅雨を、竜泉閣は何とか黒字で乗り切ったのだった。

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