第2話 うちは料理が自慢です!
「ああ、美味しい……」
目の前の料理をお箸でそっと掴み、口に運んで咀嚼して、飲み下すと同時に思わずため息が漏れた。
「優菜は本当にまかないをおいしそうに食べるよね」
向かいで夕飯を食べている夫の継春が、そんな私の様子を見て感心したような、呆れたような顔で声をかけてくる。この旅館では私たちも含めて従業員みんなが板長のまかない料理で日々生活している。お客様からもこの旅館の料理はちょっとした評判なのだ。
「だって、板長の料理って本当に美味しいのよ。シンプルな料理ほどその美味しさがわかるっていうけど、この冷や豆腐なんて絶品よ。私、以前は洋酒派だったんだけど、板長の料理を食べるようになってからすっかり日本酒にはまっちゃったもの」
そう言ってから澄み切った液体をおちょこで口に運ぶ。口当たりは柔らかで、すっと喉を通っていき、後からふわりと芳醇な香りが鼻腔を抜けてゆく。
「あー、幸せ……。板長のまかない料理を毎日食べられるだけでも継春と結婚したかいがあるわ」
「旦那としては非常に複雑なんだけどね、その言葉」
継春と結婚する前はイラストレーターをやっていた私だけど、一人暮らしの時の食事はそれはひどいものだった。もともと宵っ張りなうえに締め切りに追われだすと余裕がなくなるから、必然的に食事は雑なものになる。
深夜にとんこつ味の大盛りカップラーメンをほおばり、ウィスキーの水割りで流し込みながらイラストを仕上げたこともある。それに比べて今はなんと幸せなことか。継春にはこの幸せがわからないのだ。何しろ子供のころからここの食事を食べているのである。うらやましい。
「優菜も毎日食べてるだけじゃなくて、たまには板長を手伝ってみたら?」
「……あー、それもそうね。まだきちんと行ったことがないし、こんど厨房に行ってみる」
♨♨♨
翌日の夕方。昼の慌ただしい時間も過ぎ、そろそろ夕食の仕込みが始まろうかという時間に私は厨房を訪れた。入り口から中を覗き込んでおそるおそる声をかける。
「すいません、優菜ですけど、板長さんはいますか?」
「おや若女将。いったいどうしたんですか、こんな時間に厨房に来られるなんて珍しいですね」
ちょうど板長の藪塚さんが包丁の手入れをしているところだった。私や継春より少し年上、髪を短めに刈り上げた、ワイルド系のなかなかのイケメンでもある。それもそのはず、若いころはだいぶやんちゃしていたらしく、仲間と共にさんざん暴れていたところを先代の板長に拾われて今に至るという経歴の持ち主だ。趣味のバイクはハーレーダビッドソン。うーん、いかにも。
「ごめんね板長。もしかして邪魔しちゃった?」
「いえいえ、ちょうど研ぎおわったところですよ」
「あの、なにか手伝うことないかな?」
私が言うと板長はちょっとびっくりした顔でこちらを見てきた。いや、そんな風にこの女食べるだけじゃないのか……みたいな顔されても、私の方もどうにもリアクションに困ってしまう。
板長は気を取り直すようにしてきょろきょろとあたりを見回すと、調理台の上に置いてある段ボールを掴むと、中にある胡瓜を指し示す。
「ええと、そうですね、それじゃあ若女将はこの胡瓜をそこの流しで洗ってもらえますか」
「まかせて!」
私はさっそく胡瓜をザルにあけると、残った土を勝手口のそばにある流しで洗い落としていく。取れたて新鮮、なにしろ旅館のすぐ裏手に趣味も兼ねて板長自ら畑を作っており、これはそこで採れた胡瓜なのだ。他にもいろんな季節の野菜を育てているけど、お客様からは特に胡瓜の評判が良い。
元やんちゃで今は野菜づくりが趣味のワイルド系イケメン。さぞかしモテるだろうと思いきや、彼女はいないそうだ。以前になんとなく聞いてみたところ、顔を真っ赤にして首を振り、いやいや、そんなのいませんよ!と慌てていたのを思い出す。
奇麗に胡瓜を洗い終わったところで今度は千切りを頼まれた。包丁の扱いにもだいぶ慣れてきたけれど、なにしろお客様に提供するものだ。時間はかかって構わないと言われたので丁寧に刻んでいく。ずっと無言なのも気まずいので、板長に雑談を持ちかける。
「板長はさ」
「はい?なんです?」
「やっぱり今でも彼女はいないの?」
私が言った瞬間に、ガシャンと大きな音がしてそちらを見ると、板長が床一面に盛大に小麦粉をぶちまけていた。
「大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄ろうとするけれど、大丈夫ですと手で制される。板長の顔はみるからに真っ赤だった。
「あの、びっくりするので、突然変なこと聞かないでくださいよ……」
「あー、うん、なんかごめんね?」
「はい……」
いそいそと小さくなって小麦粉を片付ける板長。かわいい。……いやいや待て待て、私には継春がいるではないか。頭をぶんぶんと振って、私は胡瓜の千切りの作業に戻る。こちらも少し動揺していたのか、まな板の端っこに寄せていた胡瓜の一部がぽろりと床に落ちてしまった。
慌てて拾おうとしたその時だった。
にゅるっ、と調理台の下から緑色の小さな手が伸びたかと思うと、落ちた胡瓜を引っ掴んで再び調理台の下へ引っ込んだのだ。
「~~~~~~!?!!」
私は包丁を持ったまま、言葉にならない悲鳴を上げて、ずざざっ、と後ずさる。後ろの壁にぶつかって、掛けられていた調理器具がガランと音を立てた。その音を聞いて今度は板長が私に駆け寄ってきた。
「どうしたんですか、若女将!?」
「い、いまそこで、その、胡瓜が」
震える手で調理台の下を指さす。板長はつかつかと調理台に歩み寄ると恐れもせずに下を覗き込んで言う。
「なにもいませんよ」
「確かに見たの!緑色の手が、にゅるって」
「……あー」
何かを察したように板長がつぶやく。いや、待ってなんなのそのリアクションは。普通、緑色の手、とか聞いたら何を言っているんだという反応が返って来るでしょ。納得したような反応をするって、おかしくない?私の葛藤をよそに、板長はこちらに向かって言ってくる。
「たぶんですね、それは
「次郎吉……?」
「なんていうんですかね、その、いわゆる河童です」
「河童!?」
板長はなんでそんなに冷静なの?というか、そもそもなんで旅館に河童がいるの?次々に泡のように疑問が浮かんでパニックになりかけている私を見て、板長が説明を始める。
「この旅館、敷地内に小川が引いてあるじゃないですか」
「うん」
確かにこの旅館にはすぐ外を流れる川から小さな川が引かれている。それは旅館の中庭にある日本庭園を経由して、再び元の川と合流している。不思議なことに夏場に元の川の水温が上がっていても、小川の水は冷たさを保っており、真夏の足湯ならぬ足水のサービスはお客様からも評判らしい。
「その小川に住み着いているのが、河童の次郎吉です。水がいつも冷たいのも次郎吉のご利益らしいです」
「いや待って、説明になってないし」
「いやー、説明のしようがないんですよね。俺も先代の板長からそう聞いているだけですし、そういうものなんです」
そういえば、日本庭園の隅に、ちょっとした祠が立っている。板長は毎朝新鮮な野菜をその祠に供えるのが日課だった。
「そうです、それが次郎吉の祠です。あ、そういえば今朝はばたばたしててお供え忘れてましたね。だから次郎吉もきっと腹が減ったんですよ」
私はつかつかと板長に近づくと、その両肩をがしっと掴む。顔を赤くしてどきまぎしている板長に、私は地獄から響くような声で告げる。
「お願いだから、お供え物は忘れないようにして」
「……はい」
私が手に掴んだままの包丁をちらりと見ながら、板長は神妙に頷いた。
そのあとはとてもじゃないけど千切りを続ける気にはなれなかった。せめて何か準備でもしておこうと、何か出すものない?と板長に問いかけると、じゃあ豆腐を冷蔵庫から出しておいてください、と頼まれた。
胡瓜の千切りと豆腐、それに自家製のザーサイで作る冷や豆腐はシンプルながらこの旅館の人気メニューだ。
昨晩私が日本酒と共に楽しんでいたのもそれ。豆腐屋さんからこだわりのものを板長が直接仕入れているらしいけど、それを除いてもこの旅館の驚くほど甘い豆腐を私はほかで食べたことは無い。
板場の隅には大型の業務用冷蔵庫が据え付けてある。家庭にあるものと違って大型のタンスくらいのサイズで扉が両開きのものだ。
人ひとりなら入れそうなくらいは大きい。
私は冷蔵庫の扉を開けて右奥に入れてあるという豆腐を取り出そうとした。ふと見ると、冷蔵庫の中にいた着物姿の男の子が皿にのった豆腐を持って差し出してくる。……私は無言で豆腐を受け取り、バァンと勢いよく冷蔵庫の扉を閉め、崩れないようにゆっくりと調理台に豆腐を置いてから悲鳴を上げる。
「ああああああ、もう!2回も!なんなの!」
びっくりした板長が再びこちらに駆け寄ってくる。
「今度はどうしました、若女将」
「豆腐持った男の子から!これ!受け取った!」
よくわからない怒りと恐怖で微妙に片言になりながら調理台の上の豆腐を指さす。ぷるりとした豆腐はいかにもおいしそうである。板長は納得した顔で答える。
「ああ、きっと豆腐小僧ですね。直接受け取るなんてすごいですよ、若女将」
「なんなのもう!なにあれ?!」
「いや、ですから豆腐小僧です。あの冷蔵庫に食材を入れておくと、さらにおいしくしてくれるそうです」
「……それも先代の板長から聞いたの?」
「はい。俺はまだ直接見たことはないですから、もしかして気に入られたんじゃないですかね?」
まったく嬉しくない。というかそういうのがまだあるなら河童のくだりの時に一緒に説明してほしかった。この旅館の人たちはなんで人がお化けに出会ってからじゃないと説明してくれないのだろうか。
「言っても信じてもらえないことが多いですから」
「いきなり遭遇する私の身にもなってほしい」
「いや、さっきも言いましたけど、俺もこの旅館長いですけど、直接見ることってあんまりないんですよ。日に2回も会うって相当気に入られたんじゃないんですかね」
そう告げる板長の表情はどことなく羨ましげだった。
「板長、あとは任せるわ……」
私は精神的な疲れから、がっくりと肩を落として板場を後にしたのだった。
♨♨♨
その日の夜にも、板長自慢の冷や豆腐が食卓に並んだ。板長の話では、あの私が直接受け取った豆腐らしい。私はしばし憎々しげに豆腐を見つめていたが、食材に罪は無い。恐る恐る箸をつけ、口に運ぶ。
くやしいけど、これまで食べたどの冷豆腐よりもそれは美味しかった。
向かいに座る継春は昼間の話を板長から聞いてからしばらく興奮気味だった。
「いや優菜は凄いよ。まだここにきて日も浅いのにそんなに遭遇するなんて、板長の言うように気に入られたんだと思うよ。これからもちょくちょく板場に顔を出してあげるといいんじゃないかな」
そんな風に邪気のない瞳でこちらに提案してくる。ぷるぷるの豆腐を見ながら私は恨めし気に呟いた。
「私、食べる専門でいい」
あやかし風味の絶品冷豆腐を味わいながら、私は継春にきっぱりとそう宣言した。
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