第5話 激辛、真夏の麻辣火鍋

 一般的に暑いと食欲が減退すると言われている。


 確かにジリジリと日差しが照りつける太陽の下では、ムンムンと湯気の立つ牛丼やカツ丼なんかは食べたくないし、どんなに美味しいラーメン屋が空いていたって、少しばかり遠慮したくなってしまう。


 暑い日に熱々なのはちょっと……と思うだろう。


 が、それは一般的な話であって私の知ったことではない。


 私は真夏日だろうが関係なく食欲旺盛な男だ。もちろん気分によって冷たいものが欲しくなる日も当然ある。


 冷やし中華、素麺、ざるそば、ぶっかけ冷うどん、冷製パスタに冷や汁かけ飯。まあこれらは暑い日に食べればたちどころにスッキリするし、減退した食欲でも十分に栄養を摂取できる。冷たくしたとろろなんかもいい。


 だが冷えたものばかり食べるのは億劫だ。身体にもよくない。


 暑いときこそ熱いものを。昔から言われていることだが、真夏に汗をかきかき必死になって食べる料理は、それはそれで爽快なのだ。


 ではどんなものを食べるのか。


 暑いときこそ熱いもの。暑いときこそ辛いもの。


 私は、真夏の火鍋ひなべが好きだ。




 火鍋は中華料理のひとつ。日本ではそんなにメジャーでこそないものの上野や横浜、中華料理屋が立ち並ぶ地域に行けば一軒くらいは火鍋の専門店が見つかるだろう。


 読んで字の如く、火鍋は辛い。鳥や豚などをベースにした出汁に様々な中華スパイスをぶち込んで、麻と辣によって形成される代表的な中国の鍋料理だ。


 花椒の痺れるような辛さが「マー」。唐辛子のひりひりが「ラー」を意味する。


 つまり、大いに痺れて大いに辛い。


 誤解のないように言っておくが火鍋の辛さは常に旨味と共にある。まかり間違ってもただいたずらに辛いだけの冗談メニューではない。我慢して食べる辛さなぞ、料理の本分ではない。



 私が火鍋を最初に口にしたのは、グルメな先輩に連れて行かれたとある火鍋専門店Dであった。


 Dは個人経営の火鍋専門店で席数は決して多くない。品がよく美人なママさんといつも忙しそうな厨房のマスター、基本その二人で切り盛りされている。


 二人とも中国の方のようだが、最近はママに勝るとも劣らない美人の日本人女性が入っていた。ひょっとするとこの店が人気の理由は味だけではないのかもしれない。


 最初に断っておくが、私はD以外の火鍋専門店に行ったことがない。だから決して火鍋全般に明るいわけではないのだ。それ故に今回はあくまで「Dではこういうシステムである」ということを念頭において読んでいただきたい。それは一般的な火鍋ではない!と言われても困ってしまうので。



 


 Dには火鍋以外の四川料理で美味しいものがいくつかある。しかしいつだったか紹介した町中華とは全くもって異なるものであり、同じ中華と名がついてもここまで違うかと驚愕するほどである。


 そのひとつが「茹でた豚バラの薄切りにネギと山ほどの唐辛子とニンニクをのせて醤油ベースのタレで味付けしたもの」である。こちらやたら名前が長いがDのメニューに記載されている名前が「豚の唐辛子とニンニクのせ」というのだからしょうがない。


 こちらは家でも作れそうなごく簡単な料理ではあるのだが、山ほどの唐辛子と生のニンニクをあれほど料理に使用する勇気が自分にあるかと聞かれると答えに困る。悪ふざけの域をゆうに超えているので。


 しかし美味い。硬めに炊いた白飯が傍にあれば、丼何杯いけるか挑戦したくなる。もちろん、酒のつまみとしても最高だ。ただし、辛いものとニンニクが苦手であれば絶対に口にできない。


 ガツンとニンニク、ガツンと唐辛子。そしてガツンと塩気のきいた味。豚バラとニンニク以外特に何も具は無いのだが、シンプルイズベストに美味い。ザクザクとしたニンニクと唐辛子の歯応えが、とてつもない辛みと爽快な食感を呼び寄せる。


 この、色々がガツンと効いた豚肉を頬張ったあと、紹興酒をひと口あおれば、行ったこともない香港の路地裏にいる気分になる。




 さて、メインである火鍋だがこちらは実に自由度の高い料理だ。


 まずスープを選ぶ。基本は二種類から。


 紅湯ホンタン白湯パイタンか。白湯は辛いのが苦手な人でも食べられる。ベースは恐らく鶏出汁だろう。白濁してるのは牛乳もしくは豆乳が入っている場合が多いそうだ。


 白湯にもナツメグなどの薬膳的な香辛料がいくつか入っているが、どれもクセのないもので比較的食べ易い。しかし、これはこれで悪くないのだが美味しさでいうと圧倒的に紅湯に軍配が上がる。


 妻は辛いものが苦手な方で、Dに通い始めた頃は白湯鍋しか頼んでいなかった。そして私が火鍋屋に行きたいというと「うーん……」という顔をする。曰く「白湯はそこまで美味いとは思えない」という。


 そこで私が辛さをかなり抑えめにしてもらった紅湯を頼んで食べさせてみると「全然違う!美味しい!」と目を見開いていた。


 このことからも分かるように、白湯=辛さを除いた紅湯ではないのだ。根本的に全く別の代物という認識が正しい。


 さて、紅湯だが唐辛子以外に恐らく花椒ホワジャやオイスターソース、鶏ガラにクコの実や五香粉ウーシャンフェンといった中国特有の香辛料などが入っている。


 なんでそんなに具体的に言い当てれてるかって?実は私こそ、神の舌を持った男だから、とか言ってみたいが本当は家で作ってみようとしてDのママさんにレシピを聞いたことがあったからである。


 結果は惨憺たるもので、結果として二つのことが分かった。


 ひとつ。紅湯に必要なスパイスや調味料が種類が多いうえに独特過ぎて、余った場合に何に使っていいか分からない。


 ひとつ。臭いが家に充満するとしばらくとれない。


 以上のことから火鍋は外食するに限ると結論が出た。


 私はもちろん紅湯の辛さ普通を選ぶ。


 スープが決まれば具材選び。

 

 まず肉を選ぶ。


 豚・鶏・牛・羊から選べる。した茹でされた豚や牛のホルモンなどもある。


 羊やホルモンは臭みが気になると思われがちだが、そもそも鍋の出汁自体にクセのある香辛料がふんだんに使われているの全くで気にならない。むしろそのための香辛料なのだろう。


 野菜は基本のセットとして白菜、ネギがある。キノコ類も豊富で木耳にエノキが基本でしめじや舞茸、椎茸も選べる。


 それ以外で基本セットについてくるのはマ○ニー的な春雨と豆腐(絹)そしてワカメの茎だ。


 野菜やキノコが豊富なのは嬉しかったが何よりワカメの茎に驚いた。単なるカサ増しかと思ったが食べてみるとなかなかの伏兵で、コリコリとした食感がなんとも良い。ワカメ本体に比べて臭いがほとんどないので鍋全体の邪魔もしていない。


 私はいつも豚と基本の野菜を多めにしてもらう。



 最後にツケダレを選ぶ。


 ゴマダレと生卵、そしてごま油ニンニクダレの三種類から選ぶ。前者二つはなんの変哲もないタレだ。ゴマダレは市販だし生卵も特に変わったところはない。私は選ばない。


 私のいつもはごま油ニンニクダレだ。これはたっぷりのごま油に刻んだニンニクが入っている。塩気はほとんどない。火鍋はそれ自体に濃く味がついているのでタレはマイルドにさせる役割のようだ。


 このごま油ニンニクダレがより一層食欲を掻き立てる。



 サブウェイ並のカスタマイズオーダーを終えると、驚くべき速さで料理がやってくる。


 グツグツとした一人用の鍋の中では真っ赤な紅湯に浸かった肉と野菜がちょうどいい具合に煮えている。


 まずはひと口そのままで。


 辛っ、美味い。


 先行 ずっしりとした辛み。そのあとに花椒の爽快な香りが鼻に抜けていく。辛みに負けないちゃんと塩気のきいた味付けが麻と辣によって絶妙に引き立てられている。


 野菜はほどよく火が通っていて卓に来た瞬間にはもう口にすることができる。こちらも最初はタレを絡めず食べる。味がしみて美味い。


 ここでの火鍋は作って食べるのではなく、すでに出来上がったものをいただくのだ。実に無駄がない。


 肉と野菜には辛みと香辛料の香り、そして溢れんばかりの旨味がまとわりついている。正直言って素材ひとつひとつの味なんぞは分からない。カオスでありながらなんとかひとつにまとまっている。これでどこをとっても美味いというのはある意味奇跡だ。どこまでも同じ味でどこまでも美味い。


 日本式の鍋で味わえない異国臭と攻撃的な辛みが、私のマゾヒスティックな部分を刺激し異常な中毒性を抱かせる。


 食べている最中は汗が止まらない。だが同時に、箸を動かす手と、口へ運ぶことも止められないのだ。「嗚呼辛い、嗚呼辛い」と言いながら食べる。これが実に気持ちいいのだ。


 ニンニクダレを忘れてはならない。ごま油に刻んだニンニクがどっぷり入っている暴力的な代物だ。暴力的な辛みに暴力的なニンニク。単純で粗暴な料理なのだが、これがクセになる。ニンニクの香りと麻と辣が混ざり合いさらに旨さを加速させる。なんだかもうここまでくると恐ろしい。蠱惑的だ。


 白飯がまたすすむすすむ。酒もいいが白飯もいい。一人前半の火鍋で白飯お茶碗二杯。食べすぎなのだが、白飯が火鍋の辛さを和らげ、旨味だけを残すものだから仕方ない。自ずとすすんでしまうのだ。


 いつも最後のしめに中華麺はいかがかと聞かれる。しかし、抗えない白飯の誘惑に負け、私はいつも満腹を超えた満腹であり中華麺を断念する。まだ見ぬ中華麺はさぞかし美味いに違いない。


 火鍋と白飯を平らげ、汗だくになった身体に間髪入れずキンキンに冷えた水を流し込む。この世の始まりかと思うほどの爽やかさが全身を通り過ぎていく。


 

 よくテレビのバラエティやYouTubeで激辛料理を食べさせられる企画を見て思う。


 あんな状況でしかもただ辛いだけのものを食べさせられていては爽快でもなんでもないだろうなと。辛いものは自ら食べるからこそ美味い。そして、ただ辛いだけでなく、ちゃんと奥に旨味がなくてはいけない。


 そうでなくては、私のように食べ終わった後の爽やかな笑顔は出せないだろうに、と。


 もちろん辛いものを大量に食べてしまったので、次の日の朝は地獄が待っている。しかし、ここは食レポエッセイなので詳細は控えておく。


 夏の火鍋は食べている最中も食べ終わった直後も、実に気持ちがいいものだ。私はこれを夏バテ知らずのメニューであると断言する。



 次の深夜に続く

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