少女と老人
翌日朝はやはり雪が降った。土地柄雪は珍しい。バルトロは咳で叩き起こされた。ごほんごほんと激しく続き、気管を息でやすり掛けられ、上手く呼吸ができずに苦しみもがく。やがて治まってくれると、散らかった部屋のくたびれたベッドから身を起こす。
体を見るとあちこちにあざがある。昨夜の若者たちから殴られたあとだ。動かすと少し痛いが気にするほどではない、慣れた痛みだ。ただ治るのが随分と遅くなったものだと自嘲する。
おとぎ話として伝わる吸血鬼は日光が敵だ。しかし実際はそうではない。こうしてカーテンを開け、寝ぼけた日の光を浴びても良い。日焼けしやすい肌は、治癒能力の高さですぐに戻るからずっと焼けないままに見えるのだ。昔は。
咳で乱れた息を整えながら洗面台の鏡の前に立つ。つやがなく、くすんだ白髪の短髪と無精ひげだらけのしわが目立つ顔が映る。白く血管としみが目立つ手で凍るような水で顔を洗っても、性別を超え誰の目も引く美男子と言われた若き姿に戻らない。
ずっと着ているのは色あせた黒のネルージャケットとスラックス。椎子やアルコ、ロメオに里衣子がいた頃はいつもきれいな服を着るようにしていたが無頓着になった。
のそのそと歩いて部屋を出、玄関でくたびれたブーツを履き、引き戸を開けると、墓の並ぶ光景が現れる。墓は区画に分かれて数十基あり、彼の小さな家は案内所を兼ねてこの霊園の中にある。ここを買い取り管理人として暮らしている。
積もらない程度の降雪の中、バルトロはまず霊園の門を開け、それから園内のごみ拾いをする。雑草を取り、枯れてしまったお供えの花を捨てていく。それが終わると家族の墓を磨き、花と水鉢の水を変え線香を立て、手を合わせる。何十年も変わらない団らんだ。
空襲で焼け果てたこの街も、今ではより大きく広く眩しく発展を遂げた都市の一つになっている。住まう人々が増え、あちこちで建てられた、大きく近代的ビルの姿をここで見続けてきた。
墓の前で座り込み煙草に火をつける。指から出した、安定しない、小さな青白い火で。吸うと咳がやってくるがそれでも彼は止めない。少ない楽しみの一つだ。墓を見つめながら吸い続ければ、紫煙は降る雪と混じり踊る。
枯れ木の霊園で彼の肺が軋む音だけが響く。
ひどく使い古された腕時計が八時過ぎを差していた。「よっこいしょ」と一つ小さな気合を入れて立ち上がる。まだ誰も参りには来ない。違う、墓参りの時期でなければいつもしいんとしている。これが普通だ。
家では線香の販売もしている。花は仕入れや色々面倒なのでしていない。あのがたがたの老朽化激しい小さな家を販売所としているが、そんなのだから案内板で案内があっても誰も気づかないし、気づいても寄り付かない。
また夕方にも掃除をする。それまで家でぼうっとするだけだ。
家に戻った彼は、窓の向こうで降る雪を見物することなく食事の血液製剤を喉に通していく。
「いただきます」
生きるために必要なのが食事だが、彼にとっては辛いものだった。ひどくまずいのだ。血液製剤だからという理由ではない。それもなくはない。が、彼は血を受け付けなくなっている。それでも飲まなければならない。吐き気に耐えて。
「ごちそうさまっ」
ようやく飲み干すとパックをゴミ箱に叩きつけるように捨て、洗面所へよろよろと向かう。出した水を手で溜め口に含むと、何度も何度もゆすいでうがいをする。吐き出すと赤黒い血が水に混じっている。
気持ち悪さが和らぐと、また煙草を吸う。
血を受け付けなくなっているのは老化の証だ。これが進めば死ぬらしい。らしいと言うのは、彼自身老いて死んでいった吸血鬼を見たことがないからだ。その前にみんな自殺、もしくは気が狂って殺される。
煙草の味が頼りだ。頭をぽりぽりとかいてため息をつく。そこで。
気づく、家の前に誰かいることに。それは音と気配とにおい。老いていても人と比べて圧倒的な吸血鬼の感覚が教えてくれる。珍しく客が来たのだ。悩んでいるのか、客はそこからじいっとして動かない。
面倒くさいが、接客のためバルトロは引き戸を開けて迎える。
「あっ」
開けるとすぐ目の前に人が立っていて、見上げられ目が合う。小さな姿、少女、初めて見る子だ。それでもブレザー制服の色やデザインからして近くの中学校に通っている生徒だとすぐにわかる。こんなに寒い日だがコートはなくマフラーだけ。それに学校に行っている時間だろうが、ここにいる。
彼女はいきなり現れた長身の老人に驚いて、まつ毛の長い二重の目を大きく見開いて固まってしまっていた。
しゃがんで彼女と目線を合わせる。この体勢、辛い。
「ん? 線香かい?」
間を開けてこくりこくりと無言のままに頷く。
背が高く、若い頃より痩せたといえがたいの良さ、それに彫りの深い外国人の顔立ちだから威圧されているのだろう。彼自身よくわかっている。
「あ、ここで売ってるって、書いてて……」
「うん、そうだ。一束百円からで、いくつ?」
「一束でお願いします……」
「あいよ」
玄関にある小さな棚からシールで一束にまとめられた線香を出し、彼女へ差し出す。小さな手で受け取って代金を払い、お辞儀をした。
「ありがとう。ところで君、煙草は吸わないな?」
少女が強く体をこわばらせた。どういう意味なのか必死で考えているのだろう、色形の良い唇をもごもごさせる。
「火」
安いガスライター。
「つけるものないだろう? 貸すよ」
そこでようやく彼女はわかって、「は、はい」と細い声で返事した。財布を出そうとするが、
「いい。それよりつけられるかい?」
返事がないのが答えだ。
「ここを押せばいい」
少し離してやって見せる。ぽっと火がライターからあがった。すぐ消して、やってみるよう渡した。
初めてのライター点火。フリント式ではない、電子式にしたのはやりやすい方が良いだろうと考えたからだ。
おそるおそる少女がスイッチを押すと、うまく点火できた。ちょっとばかり驚いた表情に里衣子を思い出す。
「ここで線香につけていきな」
こくりと頷いて線香の先に火を当てる。揺らめく火が消えないよう、バルトロが手で周りを囲ってあげる。全部つくまでずっと。やがて火を上げて燃え始めた線香を少女は吹こうとしたが、バルトロはそれを止めさせ、手で煽って火を消した。煙があがる。白檀の香りは死者へ話しかける香り。
「行っといで」
「あり、ありがとうございます」
ライターをバルトロに返し、噛みながら頭を下げ、少女は墓へと歩いていった。
バルトロも外へ出る。ついどこの墓の関係者か確かめてしまうくせがある。下品だとわかっているが、亡くなった人はどういう人だったのだろうかと、参りに来る人たちから探ってしまうのだ。
少女はバケツに水をくまず、何度か行ったり来たりを繰り返し、墓を探していた。やがて見つけられ、線香をあげ手を合わせた。その墓は、記憶が確かであれば誰も参りに来ない墓だった。あまりに寂しいからたまにバルトロが墓を磨き、線香と花を供えたこともある。
墓に刻まれた名字は保田。眠っているのは一人。刻まれた生年月日から、かなり歳をとって亡くなった女だとわかっている。それでもバルトロには遠く及ばないけれど。それはともかく、あの少女は孫なのだろう。
くせがなく黒く長い髪はアルコを思い出させる。娘は父バルトロの真似で同じように後ろで三つ編みにしていた。
参り終えると少女は、バルトロのところにまたやって来た。軒先で小さな椅子に座る彼に、彼女は深くお辞儀をして、髪の毛先を垂らせた。バルトロも頭を下げる。
「ありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。お墓の方も喜んでいるでしょう」
「おばあちゃんです。ずっと遠くで暮らしてたんで、ずっと行けなくて……」
「そうか。それは喜んでいるでしょう」
「ずっと、来れなかった……」
固い表情がより強くなる。その顔を見て、バルトロは一つ間を置いて話す。普段言わない話を。
「君、こういう話がある。亡くなりあの世へ行った人は、この世に生きる人に良く思われ続けることによって、良い生まれ変わりができるのだそうだ。だから君が思い続けてくれれば、きっとおばあちゃんはまたこの世界に生まれて、君と会うことができるかもしれない」
本当にそうであってほしいと願ったことは何度あるだろうか。バルトロは少女に話しかけながら過ぎ去っていった人たちの姿を思い浮かべていた。両親、仲間、家族。もう一度会いたい、話したい、そのみんな。
「そうなんですね。じゃあわたし毎日来ます。来れない日もあるかもしれないけど……いや、来ます!」
力強い決意にバルトロがやや押される。
「それは大変だろう。来れるときに来ればいいんだよ。思いはどこででも伝わる」
「ずっと来れなかったし、誰も行かないし、おばあちゃんは大切なこと教えてくれたし、だから……」
目を落とす。柔らかく落ちる雪程度では少女の思いを冷ますことはできない。バルトロはもし自分が子や孫たちよりも早く死んでいれば、このように強く思ってくれるかどうかつい考えてしまう。
「そうか。わしはここにいるから、何かあれば呼ぶといい」
「ここに住んでるんですか? ずっと? 家族の人と?」
「家族は亡くしてね、一人だよ」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「謝ることはない。ただ夜遅くはダメだ。門は18時に閉めるし、暗くて人気が少なくて良くはない」
こくこくと首を動かし、ルールを頭に入れているようだ。今どきの少女からして、夜遅くというのは思っている時間とずれがあるかもしれないが。それでも園内に明かりはバルトロの家以外にはほとんどないので、閉門していてかつ真っ暗で入ろうとは思わないだろう。
「ご家族、おばあちゃんに心配かけないようお参りに来なさい」
「はい。心配かけないよう来ます」
「そうするといい」
とんびコートの内を探ると、そこには煙草、ライター以外にあるものが入っていた。それを彼女に渡そうかとも考えたが、出会ったばかりで得体の知れない男から渡されるものなど気味が悪いと思いなおしやめた。
彼女はアルコでもロメオでも里衣子でもない。
「保田しおるっていいます、わたし。ちょっと変な名前だけど……」
しおるだ。
「おそらく枝折(しお)るから来てるんだろう、いい名前だ」
小さな頭を傾けている。
「歩いてきた道を忘れないよう、小枝を折って道に置いたりするのを枝折ると言うんだよ。そこから導くという意味もある」
「そうだったんですか。導く……わたしできそうもないけど、へへ。お墓のおばあちゃんがつけてくれたんです」
「とても聡明な方だ。わしは清水(きよみず)だ」
名字だけを名乗るとしおるはじっとバルトロの顔を見、すると。
「外国の人じゃなかったんですか?」
失礼だと思う人もいるだろう。でもバルトロはまったく気にしなかった。言われ慣れているからという理由ではない。いらない気遣いよりも、相手と話そうという姿勢が気持ち良いからだ。
関わろうともせず相手の気持ちをわかった風にきれいな言葉を吐くほどひどいことはない。
吸血鬼ではあるけれど、彼は、彼と話そうという気持ちを持つものであれば誰とでも話をした。それはずっと、ずっと昔から変わらない。
「元々はそうだが帰化してね。だから清水バルトロだ」
「バルトロ……すごいかっこいい名前ですね」
「ありがとう。意味は知らないがね」
同じ名を持つ者が己の信念を貫いたため、皮を剥がされむごく殺されたと知っている。彼は讃えられているが、ここまで讃えられるのは完璧な死があったからだ。残された者たちにとっての完璧な死。そういう例を彼は何度も見てきた。アルコも、ロメオも、仲間たちも。
残酷な美しさはある。
「じゃあ、わたし今日は帰ります。また明日お願いします」
「ああ、気をつけて。雪で滑りやすい」
「大丈夫、わたし慣れてますから!」
小さくなっていく背中を見つめながら、ごほん、ともう一度咳をする。くわえた煙草に火をつけようとしたが、よく幼い頃のアルコに怒られていたことをふと思い出し、止めた。
頭に落ちた雪の冷たさを感じる。
夜になるとすっかり雪は止んでいた。しかし寒さは厳しいままだ。
霊園を閉じ、バルトロがやって来たのは昨晩の橋だった。ホームレスの老人が若者たちに石を投げられていた場所。
昨日の疲れがなかなか取れないので、ここまでタクシーでやって来た。痛い出費だ。若い頃であればいちいちここに来ずとも、使役する髪やこうもりで確認できただろうに。
こけないようゆっくりと河川敷に下り、離れた所で橋の下の様子を伺う。明かりが少なくとも吸血鬼には問題ない。
壊されてしまったダンボールの家は直りきってはいなかったが、あの老人は中にいる。音が聞こえる。厳しい寒さで辛いだろうけれども生きている。
若者たちにつけられた傷は今も痛むだろうが、明日の事などまったくわからないだろうが、また別の者に石を投げられるかもしれないだろうが、彼は生きている。
あのとき彼は礼を言っていたが、一つも反応を返していない。バルトロは彼のこれまでの人生を知らない。因果応報なのかもしれない。
バルトロは長く生きてきて、己の食糧以外でも多くの命を選んできている。救う命と殺す命。人を超えた力を持つ吸血鬼である彼は、圧倒的なエゴの塊だ。本来であれば誤用であるが、業が深いと言うしかない。
あの若者たちの体は見つからない。行方不明のままになる。残された者たちは生存の可能性を抱きながら残りの人生を歩まなければならなくなる。剥離する思考は心を疲れさせる。
吸っていた煙草の、上っていく紫煙を眺める。細長く空へと上るが、それが遠い遠い星々には届かない。肺に収めた煙もふうっと吐き出しても同じだ。
澄んだ冬の空気。それでも昔より見えづらくなった星々。
老人は咳をした。
老いた吸血鬼は今日も墓を待つ 武石こう @takeishikou
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