3
自転車のペダルをひと漕ぎするたびに、五月の風を太ももに感じる。
私の脳内から響てくるようにして聞こえる声に従って、交差点を右に曲がったり左に曲がったり、「あ、間違っちゃった」という声に腹を立てながら引き返したりしているうちに、本当に市役所の支所のすぐ近くのところにケーキ屋が見えてきた。
言われなければそれがケーキ屋だとは気づかないような、控えめで繊細な古びた銅の看板に、やっぱり私をここに連れてきたのは、私ではないなにかなのだという確信を強めた。
「ほら! あったでしょ!」
自分から無理矢理連れ出しておいてなぜか得意げな声色の幽霊を無視して、北欧のログハウス風の建物の脇の駐車場の隅に、自転車を停める。
「なによ、聞こえてるんでしょ? 返事くらいしたらどう?」
突然気を悪くした風の声を心底面倒に感じながら、後輪のところに盗難防止のチェーンを巻く。外なんだから喋れるわけないでしょ。ケーキ屋の前で一人で喋ってる人なんて不気味すぎるし、もはや営業妨害みたいなものだ。
「あ、そんなこと気にしてたの? 大丈夫よ。心の中で強く念じてくれれば会話はできるから」
うわっ、幽霊ってそんなことまでできるのか。
「そうよ。幽霊って、こんなことまでできるの」
そう返されてしまえば信じざるを得ない。心の中を覗き込まれているのはどうも落ち着きが悪いけれど、この相手に対してはなんらやましいところはないし、私が彼女に対して強く不快に思っていることが伝わってくれれば、少しは態度を改めてくれるかもしれない。
いや、そんな程度で改めるのであれば、とっくの昔に私の前から姿……というか声か。それを消してくれているはずだ。恨めしく思いながら、皺の寄った眉間を指でほぐすと、腹立たしいほどに綺麗な声はいたずらっぽく笑った。
「ほら、行きましょ? モンブラン以外は彗に選ばせてあげる」
これから成仏するというのに呑気なことを言っている幽霊の声に急かされて、重い木製のドアを開く。しゃらしゃらと涼しげなドアチャイムの音が、店内に響いた。
柔らかい光に包まれた店内は、外観同様、温かみを感じさせる木材の色が目に優しかった。入って右手にはケーキ類の並ぶショーケースとレジがある。小さなブラックボードに書かれた「誕生日ケーキ予約受付中」の文字。その横に置かれているラミネートされたカタログが、手作り感満載でなんだか心ほぐされる。
正面のスペースにはクッキーやマドレーヌなんかの洋菓子が可愛らしいバスケットに整然と陳列されている。オーガニックっていうのかな。身体に優しそうな色合いのそれらは、この店の雰囲気によく合っていた。それから少し奥の方に目を向けると、左手の方に背の低いパーテーションで仕切られてテーブルがいくつか並んでいた。イートインスペースなのだろう。天井からぶら下げられたこれまた木製のドリンクメニューは、それなりにリーズナブルだった。
「ね? いいお店でしょ?」
姿なんて一度も見た事ないのに、得意顔が目に浮かぶような声だった。だけど、その声に反発したいがためにこの店をけなすのも憚られて、「そう、ね」と歯切れの悪い返事を唇の裏で呟いた。
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