第3話 悪い虫が付くお年頃
「トクトア様……」
バヤンは眠っているトクトアの前髪をそっと指で払いのけ、艶のある額に触れた。
「トクトア、お前痩せたな…… さぞや辛い旅であったろう…… 」
二人は、トクトアがあまたの困難に直面、それを果敢にくぐり抜けて来たことを想像して涙ぐんだ。
「お嬢様、若君の懐からこれが。きっとお土産かと……」
トゥムルは小さな桐箱をシュエホアに手渡すと、寝台の前で心配そうにしている家人達を促して静かに部屋を出た。
「トゥムルの言うように、多分お前にだろう。かまわないから開けてごらん」
木箱を開けると、見事な銀細工の蝶花の簪が入っていた。
「とても綺麗……」
でも、 本当にもらっていいのかも分からないので、迷った末、やっぱり卓子の上に置くことにした。
それに本人から直接手渡される方が、嬉しさもひとしおだ。
シュエホアはほとんどトクトアに付きっきりだったが、バヤンはそれについては何も言わなかった。
「お前がこいつの側にいてくれるなら安心だ。だが無理はするなよ。トクトアが起きたなら呼んでくれ」
「はい」
雪花は笑顔で引き受けた。
トクトアはその日から次の日の夕方まで丸一日、まるで屍ではないかと思うくらいに寝台に横たわったままだった。
赤く西日が差した頃。
「本当に…… 私は家に着いたのだな」
卓子で本を読んでいた雪花は寝台から呟く声の主を見た。
トクトアは上体を起こし、何か物珍しいものでも見るかの様に中を見回している。
まだ戻って来たという実感がないのだろう。
「トクトア様、夢ではありません。本当に大都に帰って来たんですから。あ、伯父様がお仕事がお休みなんです。皆さん心から心配してましたよ。今から呼んできますね!」
「待て…… シュエホア、近う」
部屋から出ようとするシュエホアをトクトアは手招きした。
はい、と返事し、シュエホアはトクトアに近付く。しかし何か思うことがあったのか、そこで止まってくれ、と言われた。
「……そこで、
顔に戸惑いの色を見せ、シュエホアはトクトアを見つめた。
「帳越しにですか?何故です?はっきり見えないですよ」
「その見えるか見えないのがいいんだ。さあ、立って」
怪訝に思いながらも、シュエホアは薄水色の薄絹の
「……これでいいですか?」
にもかかわらず、ここで思わぬ言葉がトクトアの口から漏れた。
「帳越しに見たが…… やっぱりブスだな……」
ブスだな…… ブスダナ……
その耳障りな言葉が、シュエホアの耳の一番奥で、エコーの様にこだましている。方頬がピクピクひくついた。
「はあ!?ち、ちょっと、女性に…… しかも多感なお年頃の私に向かってそんなことを言うなんて…… あなたって人は……」
シュエファは目の前の
トクトアは風に煽られた帳を掴もうと躍起になっているシュエホアの姿を見て思わず目を瞠る。
時々夢に現れる女人に似ていた――
(まさか…… 初めからここにいたと言うのか?私の出会いたがっていた人が…… 目の前に?)
「ちょっと何よ、この風は?ほんっと!頭にくるわ~!!」
ほとんど涙目になりながらも、決して負けるもんか、とシュエホアは帳に向かって手を伸ばすが、ここで出し抜けに伸ばされるトクトアの腕に引き寄せられ、あっと言う間もなく、彼の上に乗った。
「え?」
トクトアの顔を見下ろす格好になっていることに、目をぱちくりさせて驚き早く逃れようとするが、両腕を捕まれているので容易に外せなかった。そんなシュエホアを楽しげに見上げるトクトアは、魔性の者のような笑みを浮かべた。
「……フフフ、お前はいったいいつになったら大きくなるんだ?これではつまらぬ……」
トクトアは腕をシュエホアの首に回した。
お互いの顔がぐっと近づく。
「……あ、あの、私は大人ですよ!ご婦人に対してこんな…… あ!ひょっとして、また胸のことを言ってるんですか?」
「馬鹿、勘違いするな。まあ胸もないよりある方がいいに決まってるがデカ過ぎるのも怖いな…… って何を言わせる。私はお前がまだ子供と言っておるのだ。早う大人になれ。ピヨピヨ鳴くヒヨコの世話は、もう飽きたからな……」
「ヒ、ヒヨコ…… 」
シュエホアの頭の中は今、大量のヒヨコがうろうろしていた。自分はそんな感じにしか見えないとは。
「……なんだどうした?欲求不満か?大人がすることをしたいのなら…… それをお前がを望むのなら教えてやってもいい」
「い、いえ!わ、私はまだ子供でした!さっき卵から生まれたばかりのヒヨコです!ピヨピヨ……ばふっ!」
トクトアはシュエホアを胸の上でひしと掻き抱いた。
「お前は
いつものことだが、トクトアの考えていることはシュエホアにはわからない。
ついさっきは、ブス、子供、ヒヨコ、と言ってたクセに。
おまけに、胸に顔を押し付けられたせいで、苦しさと恥ずかしさで、自分でも顔が火に照らされたみたいに真っ赤になったのが分かる。
シュエホアはジタバタもがいた。
「びぇぇ。私はヒヨコですうぅぅぅ」
「都合が悪くなると、そう言って逃げるんだなお前は…… まあ、今はいい。お前に土産があるのだが…… はて?何処だ?」
トクトアは枕元を探ったが、簪の入った箱がない。
「あれのことですか?」
シュエホアは卓子を指差した。
「ああ、あんな所にか…… じゃ 取っておいで」
やっぱり自分にだった。
トクトアから解放されたシュエホアは、喜び勇んで卓子まで駆けた。
「この銀の蝶花の簪!本当に貰ってもいいのですか?」
「なんだ、もう中身を見たのか…… これならお前の赤毛で酷い癖毛もちょっとはおさまりが良くなるかもな。さあ、髪に差してやろう」
シュエホアはトクトアの隣に座った。もう機嫌の悪いのなんて、すっかり忘れていた。彼が憎まれ口を叩くのはご愛嬌ということで。
「トクトア様、ありがとう!」
トクトアはシュエホアの髪に銀の簪を差した。赤い髪はだいぶ伸び揃っており、顔の両側の髪を上で結っているせいか、癖がおさまっている様に思えた。毎年、梅雨入りの頃になると、爆発する厄介な髪質だった。
「……よう似合う。髪を上げても良いが、既婚婦人みたいだからあまり勧めんが……」
試しに髪を上げてみた。
まるで白珠の様な、しっとりとした艶のあるうなじ―― そこから目線を下に向かって滑らせると、僅かに開いた胸元から、ほの暗い胸の谷間が見えた気がした。
まずいことに、どうしてもそこに目がいく。
(蛹から蝶か……)
目の前の少女は、自分の知らない間に女の色香を纏っていた。
こうなると、にわかに不安になる。
(悪い虫が付きそうだな…… いや、もう出没してるかも。近くにアホな奴の臭いがする…… いったい誰だ?)
シュエホアは髪を触られて心地良さげな顔をした。
「ウフフ…… 人に髪を触られると気持ちがいいんですよね」
「……そうか。私もだ」
トクトアは雪白の肌から漂う甘い匂い。その温かなぬくもりを感じたいと思った。
誘惑に耐えきれず、無用心にも顔を首筋に近づけたその時、それ今だとばかりに、いきなりシュエホアがすっくと立ち上がった。お陰で自慢の顔を強打してしまう。
「くっ!…… お前、まさか狙ったのか?」
両方の鼻の穴から血がタラ~と流れ出た。
「え?トクトア様?どうして鼻血なんて……… キャハハ!!」
シュエホアは失礼とは思ったが、笑いが止まらなかった。天下一の美男が鼻血を出す――滅多にないことだから、これが笑わずにはいられなかった。
この完璧過ぎる美貌が鼻血タラ~で台無しになるなんて。
で、散々笑った後、真顔でちり紙を差し出した。
「ところで大丈夫ですか?」
けろっとした表情で聞いてくるシュエホアに対し、トクトアはムカッ腹が立つのを抑えきれず、目も尖らせた。
「……お前のせいだよ!しかも思いっきり笑うなんて!失礼にも程がある!」
え?何のこと?と今度は可愛く小首を傾げるシュエホアに絶句。
潤いのある、キラキラ輝く瞳が蠱惑的。雲の切れ間から優しい光が差したのかと思った。
(…………いったいいつの間にそんな技を?無意識にやっているのか!?可愛いらしい……)
トクトアは、次の展開を大いに期待した。
ところがシュエホアは部屋を出て行こうとしたので、慌てて引き留めた。
「おいおい。待てよ」
(あんな目で見つめといて引く…… さては、小悪魔みたいに翻弄するつもりだな!)
「え?でも伯父様に目が覚めたら呼んでくれって言われてますから…… あ!そうそう!私からもトクトア様にお土産があるんですよ!」
「……いや、土産の催促じゃないんだ……」
「直ぐに持って来ますね!」
「いや……だから違っ……あ……」
もう一度捕らえようと腕を伸ばすが、あっさり身をかわされたうえ、野兎も驚いて跳び上がるくらいの素早さで逃げられた。
(さっきのあの目、無意識にやっていたのか……なんて恐ろしい奴だ……)
はぁ、とため息をついていたら、逃げたと思われるシュエホアが扉の影から顔半分を出し、こちらをじーっと見つめ、いたずらっぽくニッと笑い掛ける。
トクトアもニッと笑い掛け、今度こそは捕まえてやろうと走り寄るが、相手はいち早く危険を察知して猛ダッシュ。
「おい…… 結局、逃げるんかい……」
約三分後。それが長く感じる程に。
「はい!
木箱を開けた状態のまま、はい、と両手で差し出した。
「……おお、ほんに綺麗な色だな……大切に使うよ。ありがとう」
実は以前、これと同じのを買って持っているが、目の前の嬉しそうにしているシュエホアの顔を見ていたら、そんなことは言えなかった。
自分のことを思ってくれている。
その気持ちだけで嬉しかった。
「シュエホア……」
トクトアがシュエホアの白魚の様な手を取ろうとした瞬間――
「あぁぁぁ~!!」
こっちがびっくりするくらい大きな声を出すので、やむを得ず手を引っ込めた。
「忘れてた……」
シュエホアはてへっ、と笑い、手で額をポンと打った。
「伯父様とみんなを呼んで来ますね!」
「……あ、おい……」
トクトアは呆気に取られ、しばらくの間、シュエホアがいた場所をぼーっと見つめていた。
多くの女性、高原の諸侯を魅了してきた彼が、たったひとりの少女に翻弄されているとはいったい誰が知ろう。
トクトアはフッと微笑んだ。
後年、彼は自ら兵を率いて紅巾党討伐に出陣。最新兵器を用い、抜群の統率力で目覚ましい働きを見せる。そう、彼は稀代の、バヤン以上の軍略家でもあったのだが……
「最初は慎み深く見せ、兎が逃げるが如く素早く行動か。でも、あれは計算ではないな。負けたな…… とにかく」
害虫は早めに退治しなければ、と彼は呟いた。
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