第2話 恋の千字文
キンコーンカンコーン……♪
軍事訓練場に昼が来た。
午前の訓練が無事に終わり、待ちに待ったお昼の時間。
「よし!昼の休憩だ!飯を食え!」
バヤンの声に兵士は歓声を上げた。
「やった!おまんまが食える!」
「う、う、うう……嬉しい!涙で前が見えね!」
「飯、うんめえー!!」
「旨いおかずだ!こんなのが食えるなんて幸せだー!」
「ああ!お前!オラのおかず食っただな?」
「はあ?自分が食ったんじゃねぇのか!」
泣きながら昼飯を頬張る兵士達を眺めてバヤンは言った。
「副官、牛か豚を
「はっ!承知致しました!」
バヤンは傍らでのんびり伸びをしている
「ちー坊、あいつらに字を教えてやってくれ。文字を知らんのもなぁ…… 一、二、三、四……とか、春、夏、秋、冬なんてのは知っている筈だ。……そうだな、
「ええ!私がですか!?でも千字文なんて全部は覚えてませんけど……」
「大丈夫だって。本を見ながら教えりゃいいだろ?中書省の書庫を自由に使っていいから頼んだぞ。勿論、他の誰かに手伝ってもらっても構わない。お前なら出来ると見込んでのことだ。そうだな~頑張ったら小遣い上げるぞ!」
小遣いアップと聞けばモチベーションが上がる。
「ええ!?本当ですか?やります!やりますとも!!」
千字文とは、梁の時代に武帝が
その内容とは、千字の異なる漢字を使い、二五〇の四字句からなる韻文で構成されていた。
周興嗣はこの千字文を一夜で考え、武帝に献上したときには白髪になっていたという伝説で知られているが、いくら皇帝の命令とはいえ、千字を一字も重なることも無しに組み合わせて漢詩を作るのは、きっと並大抵のことではない。もう途中から訳が分からなくなって泣きたくなった筈だ。 ゆっくりと丁寧に、全てを書けば手首に疲れも出るくらいの苦行だ。
一日に二句ずつ覚えれば125回で終了する。
これが長いと思うか短いと感じるか。けれどバヤンが言う様に、これほど相応しい教材は他にないと思われたので、お昼が済んだ後、早速書庫に行くことにした。
午後からの訓練はしなくてもよい、と言われたので内心ラッキーと思った。
雪花は、学校の授業で話された事を思い出した。
それは教育の大切さについて。教育を受けられず、文字を知らずに生きている人が命の危険に晒されることが多い事実。看板の文字が読めなかったので地雷原に入ってしまい命を落とした人。薬剤の誤飲事故の当人。
あの気の毒な志願者達も、立札さえ読めていればあんな所には来なかったかも知れない。
(身分が低い!?……それは決して恥ずべきことじゃないけど、文字を学ぶのは大事だわ。今までその機会がなかっただけよ)
なんだか急に使命感に燃えた。
書庫に着くと、管理をしている緑の官服を来た人が親切に出迎えてくれた。
「あの、しばらくここをお借りします!」
書棚を一つ一つ調べて行くが、目当ての千字文の本は見見当たらず、途方にくれた。
(ないじゃない。どうしよう……)
不意に後ろから肩をポンと叩かれたので振り向くと、あの時の香扇子の美男がいた。
ただし、この前に着ていた赤色ではなく紫色に変わっていた。
つまり出世したということだ。
「やあ、君はあの時のアストの子だね。いったいどうしたの?」
雪花はまたモジモジしていた。
「あ、あの、も、もじもじの……」
「うん?なんだね?何かの文字かい?」
鋭い。男は何となくだが雪花の言わんとすることが分かるらしい。
辛抱強く優しく聞いてくれるのが嬉しかったのと、また男に再会出来た喜びも相まって、雪花はこのままキュン死するのではないかと思った。
「……千字文の書を探していたのですが、見つからなくて困ってしまって。兵士達に字を教えるのに必要なのですが……」
「なるほど。しかし残念ながら、あれは誰かが無くしたみたいでね……宮城の書庫にならあるが」
「ええー!あんな遠い所まで。そんな……」
「……やれやれ仕方ないな。とりあえず何句か私が書いてあげるからこちらにおいで」
男は雪花を自分の執務室に案内した。
机の上には立派な
玉の文鎮と彫刻の入った黒檀の筆掛け。
「フフ。無駄に金をかけているだろ?良い筆に良い硯に良い墨だから、字が下手な私でも上手く書けるのさ」
男は
「なんて美しい字……」
書いている姿勢がまた美しい。
雪花は人知れず、神にもバヤンにも感謝した。
天は
日は上り西に傾き月は満ち欠けする。星は星座に宿り並び広がる。
寒さが来れば暑さは去る。秋に穫り入れ冬に蓄える。
閏月で余った日数を整える。音曲を調子良く吹き鳴らせば陽気が整う。
「一度に覚えさせるのは大変だろうから、まずはこの八句を覚えさせなさい。まあ四句でも良いかな。あとは意味を教えたら完璧だ。途中、進み具合を見て増やしても良いかも知れぬが……やっぱり無理は禁物だ。何度も何度も書いて覚える方が身に付くからね」
男はそう言うと優しく微笑んだ。
周りにパッと牡丹か芍薬が咲いた様に見えた。
「あ、ありがとうございますぅぅぅ!」
男の笑顔に雪花はもうメロメロだった。
(キャ~素敵過ぎる!神様!ありがとうぅぅぅ!!)
「……君は女の子だろ?」
男は別の紙を手に取り、
雪花は男の問いより、字の方が気になった。
人の心を惑わす軽い遊び。
「見れば分かるよ。そんな可愛らしい身体付きの男はいないからね……」
「あ、あの……」
「……男装もいいけど、素の姿をさらす方が良い場合もある。女の子が混じっててもいいと思うけどね。男は気が利かないから。まあ、これは私の意見だが…… あとは、日焼けに充分気を付けなさい。そんな
男は雪花の頬を指先でツンツンと突いて笑った。見れば見る程トクトアに似ている人だ。
*∽*∽*∽*∽*∽*∽*∽*
雪花は男が書いた千字文の最初の字を眺めながら家路につく。
そして
「明日から文字をみんなに教えなくては。あっ、お名前……聞いてなかったな。あの方、なんていうんだろう?トクトア様に似てるし。って、いけないいけない。あの人、間違いなく既婚者だわ!駄目よ、道ならぬ恋は!でも、やっぱり素敵…… あ、あれ!?」
屋敷の門の前に、栗毛の馬に跨がったトクトアの姿があった。髪は垂髪にしたまま。
無理な旅が祟ったのか、その美しい顔は苦難と疲労感が一緒に入り混じっている様に見えた。
「……トクトア様!!」
トクトアは無理に笑いかけようとしていた。馬から降りて、こちらに向かって歩きかけた時、今まで張り詰めていた糸が緩んだかのように、身体がゆっくりと前屈みになっていく。
「ああっ!」
雪花は直ぐ様走り寄って倒れるトクトアを必死に受け止めるが、支え切れずに一緒に膝を突いた。
「帰って来たぞ…… ハハハ、お前、なんて顔をしてるんだ。髭なんか付けて…… いったい何の冗談だ?」
こんな状態でも冗談を言う余裕があるなんて……
「……そんなこと。またあとで話します。お帰りなさい……本当に」
目に涙が溜まってトクトアが見えなかった。
頬を伝って大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ、ただいま。雨が降って来たか?早く家の中に入るぞ……」
トクトアは雪花の胸に頭を持たせかけると、安心したのか目を閉じ、ホッと吐息を漏らした。
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