みえない

増田朋美

みえない

なんとなくじめじめしていやな気がしてしまいそうな日であった。最近はやっている発疹熱の影響で、みんな外へ出てどうのということができなかったため、自宅で過ごすことが多かった。

そういう時に発展していくのが、インターネットという分野である。サイトによっては、家にいながら他人と会話で着て、まるでその人が本当にそばにいてくれているような気分にさせてくれるサイトもある。それらのサイトには、まるでつらい現実世界を、忘れさせてくれるような、サービスを提供させてくれるサイトもある。まるで、つらい現実世界を忘れさせるような、かわいらしい画面になっていることがほとんどであった。

ある日、今西由紀子が、何気なく自宅においてあったノートパソコンの電源を入れたところ、無料の通話メールアプリに、一件通知が来ている。誰かなあと思って、アプリを開いてみると、送り主は、浜島咲であった。一体何だろうと思ったら、その添付ファイルは動画で、どうやら咲が誰かに録画してもらった映像のようであった。とりあえず、メールの文章を読んでみると、そのメールにはこのような内容が書かれていた。

「由紀子さん、こんにちは。浜島です。今日から、水穂さんと一緒に、オンラインでピアノレッスンを始めることになりました。よかったら、由紀子さんも、一緒にレッスンを受けに来てください。添付した動画ファイルをクリックすれば、レッスンに参加できます。」

咲のメールはそう書いてあったが、由紀子は不安になってしまった。え?水穂さんも一緒にレッスンをするの?うそでしょ、あんな体でピアノレッスンなんてできるはずがないでしょう?由紀子は、すぐに咲さんに文句を言わなければと思ったが、もしかしたら、お巡りさんにこんな時にどこへ行くんだと声を掛けられそうなのでやめておく。だから、直接言うことはできなかった。その代わりに、さっきの無料メールサイトにアクセスし、咲さんにこのようなメールを送った。

「咲さん、メールありがとう。今は、すごいですね。オンラインでピアノのレッスンができてしまうなんて。自宅にいながらレッスンができるんですから、それは確かにすごいことです。でも、水穂さんの体のことを忘れないであげてね。それは必ず考慮してあげてください。水穂さんのことを、第一に考えて。よろしくお願いします。今西由紀子。」

こんな風に丁寧にメールしても、浜島咲のもとへ届くかは不詳だった。由紀子は大体の人が、メールで言われたことよりも、口で言われたことのほうが、頭に入りやすくなることを知っていた。

「浜島さん、メールでわかってくれたかな。」

そんなことを考えていると、また浜島咲からメールが来た。由紀子はそれを読んでみる。

「大丈夫よ、今の時代、医療だっていいんだし。何とかなるでしょう。今はやりの発疹熱に罹患しているわけでもないですから。それ以上注意することもないわ。」

由紀子は、これを読んで、はあと思った。本当に、水穂さんのことをその程度しか認識していないことが、本当に腹が立った。

「浜島さん。オンラインレッスンというものはいいけれど、どうか水穂さんのことを大事にしてやってください。あの人が、疲れすぎて、倒れるというのは、もう見たくないので、どうかそこを考慮してあげてください。お願いします。」

由紀子はメールをうち、送信ボタンを押した。

「仕方ないわね。じゃあ、レッスンの様子とか、動画をそっちへお送りするわ。そうすれば由紀子さんも安心するでしょう。別に、動画をお送りするのは苦痛でもなんでもないですから、気にしないでください。」

と、浜島はそうメールを送ってくる。本当にそれでいいのか、由紀子は不になってしまった。

浜島咲さんは、本当に考慮してくれるんだろうか。水穂さんにすごい曲を課して、水穂さんが体を壊してしまわないか、が由紀子の最も心配しているところだった。由紀子は、自分より音楽能力があって、自分より地位的に高くて、お箏教室の手伝いもやっている、浜島咲という女性は、実のところあまり好きではなかった。理由なんてよくわからないけれど、咲の軽くて明るい態度は、あまり良いという気がしなかったのである。

由紀子は、その日の朝食もなんだかおいしくないような気がした。なんだか浜島咲にそんなことを言われて、水穂さんを取られてしまったというか、そんな気がしてしまったのである。


次の日のことであった。由紀子がまたパソコンの電源を入れると、昨日の無料メールアプリから、メールが来ているのが分かった。由紀子は、アプリを開いて読んでみる。

「由紀子さんこんにちは。今日はオンラインレッスンの様子をお約束通り動画でお送りします。最初の生徒さんは、田沼武君よ。」

メールは浜島咲が送ってきたもので、そういう本文と、動画が添付されていた。由紀子は恐る恐るその動画をクリックした。

「武史君、今日は。今日は、ソナチネの四番、第一楽章をやってみましょう。じゃあ、初めに掲示部を弾いてみてください。」

という水穂さんは、なんだかとても元気そうで、にこやかにしていた。これだけでは、普通の人と何ら変わりはないような映像だ。由紀子はなんだか心配になってしまう。パソコンの画面には、にこやかにしている水穂さんだけど、水穂さんが抱えている事情を知っているかどうか。もちろん、それを知っている由紀子はどちらを見てもつらかった。ただ、水穂さんの合図に合わせて聞こえてくる電気ピアノの音が、子供にしては、うまいのが救いだった。

「うん、とても良いですよ。もう一回やってみて。」

パソコンの画面には、水穂さんの上半身しか映っていなかった。近くにピアノの鍵盤が写っているので、ピアノの前に座って撮影しているのだと思われるけれど、その周りの風景が、由紀子は気になってしまう。あのメールの通りなら、この映像を撮影したのは、浜島咲さんであるはず。でも、その浜島咲さんの「顔」は見えない。浜島さん、水穂さんに考慮してくれているのかな。ところどころに休憩を入れるとか、そういう風にしてくれているのかな。

「じゃあ、もう一回やってみてください。今度は、もう少し強弱をつけてみて。後、左手のベースが、少し大きすぎるのが気になるから、もう少し音量を落としてみてください。」

という水穂さん。由紀子は、大丈夫かと心配する気持ちのほうが先走ってしまって、碌に画面を見ている気になれなかった。なんだか水穂さんを見ているのが、とても悲しくなってしまった。

「よかったわ、右城君。」

咲は、パソコンを片付けながら、水穂さんに言った。

「この調子でどんどんやっていきましょうね。こうすればまた、ピアニストとしてやっていけるかもしれないじゃない。こういうオンラインで動画をサイトに投稿すれば、いろんな人が見てるから。きっとまたあなたの演奏を聞いてくれる人が現れてくれると思うわよ。これだけ、インターネットが流行っているんだから、大丈夫よ。逆にチャンスなの。そうでしょう?」

ところが、水穂さんは、もうこんなことはしたくないという顔をした。咲はそれを見て、え、なんでと思わず口にした。

「なんでよ。なんでそんなこと言うの?こういうときこそチャンスなのよ。ねえ、もう一回、演奏活動してみようとか、そういう気持ちにはならないの?そのためにわざわざこういうことをしているんじゃないの。」

咲は、水穂さんに言った。

「なんでそうやる気がないのよ、右城君。これは本当にすごいことなんだから。自信もって頂戴よ。これを投稿すれば、必ず反響が来るわ。それで少しずつ視聴者が増えれば、また名声を得ることもできるって。」

咲は一生懸命水穂さんを励ますが、水穂さんは元気がなかった。

「右城君、大丈夫だから。もうちょっと自信もって。ピアノを習ってみたい人は、星の数ほどいるし、あたしのお箏教室にだって、箏とピアノを習いたい人はいっぱいいるわよ。それはあたしが連れてくるから。右城君は、そういう人たちに、ピアノを教えてあげさえすれば、それでいいのよ。」

咲は、水穂さんに言った。

「でも、僕はもう疲れてしまいました。もう名声を得るとか、租いう言うことはしたくありません。」

水穂さんはそういって、ため息と同時にせき込んでしまった。

「したくありませんってさ。右城君もあたしも、まだ四十代後半なんだから、まだまだ時間はあるじゃないの。今は人生百年と言われる時代なのよ。だから、生きるために色いろ工夫しなくちゃ。そうでしょう、右城君。」

咲は当たり前のことだとそういう顔で水穂さんに言ったのであるが、水穂さんは、もう疲れてしまったと言って、布団に横になってしまった。咲はあーあどうして、右城君はこうなのかなあ、と、ため息ついて首を傾げた。

「右城君。」

そう声をかけても、水穂さんは眠ってしまったらしく、何も反応は返ってこない。

「あーあ、まったくねえ。右城君は、いつからこういうやる気のない人になっちゃったのよ。」

咲は、ちょっとあきれた顔をして、水穂さんを見つめた。


その数日後のことであった。由紀子はまたメールアプリを開いた。すると今度は、ログインしたのをすぐ知ったらしく、メールではなく無料の通話の着信音が鳴り始めた。このアプリはメールだけではない。こういう映像を交えて、電話をかけることも可能であるのだ。

由紀子がその着信に応答のボタンを押すと、

「由紀子さん、お願い!すぐにこっちへ来て、大急ぎ!」

と、ロボットみたいな発話であったが浜島咲が、画面に映った。こういう緊急連絡を、テレビ電話でするほどの余裕があるというのなら、大したことはないだろうなと由紀子は思ったが、その次の文を聞いて、由紀子はびっくり仰天する。

「右城君が、急にせき込んで倒れちゃったの!由紀子さん急いでこっちにきて!」

「い、一体どういうことよ。」

由紀子がそういうことを返すと、

「だから、右城君が大変なの。はやくこっちに来て!」

という。

「大変って、何かあったの?水穂さんの体に障るようなことをあなたした?あまりにも、ピアノレッスンに駆り出しすぎて、水穂さん疲れて倒れてしまったのではないの?」

と聞いてみると

「そんなことするわけないでしょうが。あなたの忠告通り、むりをさせないように、休憩だってさせたわ。右城君が、疲れたと言ったらちゃんと休ませたし。それ以外に、変わっていることなんてないわよ!」

と、咲はそういっている。

「じゃあ、何か、変わったものを食べたりしなかった?肉とか魚とか、そういうものを無理やり食べさせたとか。」

由紀子は急いでそういうと、

「何を言うのよ。肉も魚も食べてなんかいないわ。ただ、今日はレッスンの前に、ちょっとお茶を飲んだだけよ。たまたまケーキ屋さんで売っていた、パウンドケーキを買って、食べさせたけど!あとは、緑茶だけよ!」

と浜島咲は答えた。

「それだわ!」

と、由紀子は言った。

「ナッツが入ってたでしょ。そのケーキに。パウンドケーキということは、ナッツが入っている可能性だってあるでしょうし!」

「そんなこと覚えてはいないわよ。でも、まさかそれが原因?そんなことあるわけないじゃないでしょう?」

「あるわけないって言っても、そういうことなのよ。見えなくたってあるものはいっぱいあるじゃないの!」

「そんなことわからないわ!でも、とにかくあなたならなんとかできるでしょ。早くこっちに来て!」

咲に言われて由紀子は何も考えることなしに、急いでカバンを取り、車に飛び乗って、製鉄所に向かって車を走らせた。もうお巡りさんが何とかと言う理屈は頭の片隅にもなかった。幸い、そのようなことをしてくるお巡りさんには遭遇しなかったので、由紀子は何も難なく、製鉄所にたどり着くことができた。

製鉄所の近くに車を止めて、由紀子は、正門をくぐり、インターフォンのない玄関を急いで開ける。そして、鴬張りの廊下をけたたましく鳴らしながら、四畳半に直行した。

四畳半に行くと、水穂さんが激しくせき込んでいる声がする。布団に横になっているが、その隣には、浜島咲が、どうしたらいいのかわからないという顔をして座っているのだった。

由紀子は、枕もとにある、吸い飲みと、置かれていた小さな袋を手に取って台所に行った。そして、吸い飲みに水を入れて、小さな袋の中身を水で溶かす。急いでそれを四畳半にもっていき、水穂さんの口に無理やり突っ込んで、中身を飲ませた。水穂さんは、しばらくせき込み続け、由紀子が口元に当てた手ぬぐいが朱に染まるとやっとせき込むのは止まって、やっとしずかになった。

「ああよかった。これでやっと止まったわ。ここにある粉薬を、水で溶かして飲ませると、こうして止まることがあるのよ。もし止まらなかったら、病院の先生を呼んだり、吸引機で取らなきゃならないこともあるけど。」

由紀子は、出すもので汚れてしまった水穂さんの口もとをきれいにタオルで拭き、彼を、布団に横にならせて、かけ布団をかけてやった。

「ねえ、咲さん。もうピアノレッスンなんてさせないで。こんな時に、体の弱っている人に、そんな過酷なことはやらせないでよ。」

と、由紀子はそういうのだが、咲は変な顔をしたままだった。

「何を言っているの、右城君だって、生活していかなきゃいけないでしょうに。まだ、これで、人生が終わってしまうわけじゃないじゃない。明治から昭和の初めくらいだったら、そうなるかもしれないけどさ、今はそんな時代とは、ずいぶん変わっているのよ。こんなことで、人生が終わってしまうなんてありえない話でしょうが。由紀子さんは、ちょっと勘違いしているんじゃないかしら?」

と、咲はそういうことを言っている。こういう無理解な人のせいで、水穂さんは、また弱ってしまうのではないかと由紀子は思うのだった。

「由紀子さん、こんな病気で寝ているよりも、右城君にはまだ時間があることを考えてよ。そういうことを考えるのは、良くなってからじゃ遅いのよ。だってそうじゃないの。結核は、昔ほど怖い病気じゃないのよ。すぐに良くなって、何とかなる病気になっているの。今はやりの発疹熱とは違うじゃないの。だからあたしだって、右城君には、そういう風に考え直してもらいたかったし、、、。」

「まあ、違うわ!」

と、由紀子は思わず言った。

「そういうのと一緒にしないで!水穂さんにそういうことを平気で言う人は、きっと水穂さんの境遇にだって気が付けないわ!」

咲は、由紀子に対し、何を言っているんだという顔をする。

「一緒にしないでって、じゃあなに?右城君にはもう時間がないとでも言いたいの?そんなことないでしょうが、今時こんな医療のいい時代のはずなのに?」

「こんないい時代って、水穂さんにとっては、何もいい時代じゃないわよ!」

由紀子は、咲に対しそういうことを言って、思わず泣き出してしまった。いくら、オンライン授業で、いつでもどこでもなんでもできる時代になったからって、見えないところは本当に見えないものだ。それはきっと確かである。

「一体何なのよ。何もいい時代じゃないって、確かに、今は、発疹熱で大変な世の中だって言われているけれども、そういうこと?」

と、咲は、由紀子に言った。それは単に彼女が好奇心でそういっているわけではなさそうだった。ただ、知りたがりというわけでもない。それはきっと、水穂さんのことが、好きと表現している顔。それを咲は、由紀子に見せている。由紀子は、本当のことを言おうか迷ってしまった。もし咲が水穂さんのことを知ってしまったら、あたしみたいに、音楽には縁がない女性よりも、学歴もあって、社会的地位もあって、それなりに財力もある、浜島さんのほうへ、水穂さんは行ってしまう。そうしたら、今の自分から離れて行ってしまう!

どうしようか、本当に由紀子は迷った。

でも、今、ここにいる浜島さんには、本当のことを話さなければだめとも思った。そうでなければ、浜島さんは、もっと水穂さんにオンラインレッスンを課すだろう。それをしたら、水穂さんは、今まで以上に弱っていってしまう。それは由紀子にはどうしても避けてほしいことでもあったので、由紀子は、重い唇を、勇気を出して開く。

「あんまり長くしゃべりすぎると、あたしがえらくなったみたいになっちゃうから、要点だけ言うわ。水穂さんの出身地は、同和地区と言われる、富士でも有数のスラム街よ。だから、一生、日の当たるところには出られないのよ。」

一生懸命自分が言える範囲で言ったつもりだった。目の前にいる浜島さんに伝わったかどうかも不明だった。由紀子は、さらに続ける。

「だから病気になっても、病院にはいけないの。病院に行ったら、同和地区の人が、うちの病院に来るなんて、なんて運が悪いんだろうって言われて、追い出されるのが落ちよ。」

「そうなのね。」

と、由紀子の言葉を聞いた咲は、そういうことを言った。

「あたし、自分では経験したことないけど、音楽学校の先生にそういう人たちの音楽を習ったことがあるの。昔のラッパーとかは、非常に差別されていたことはあったようだけど、今は、白人でもラッパーになることもあるじゃない。そういう風になんでもありの時代なのよ。だから、彼だって、そういうところをまねすればちゃんとやっていけると思う。そういう時代じゃないかしら。」

「浜島さん、やっぱり学歴のある人は違うわ。」

咲に、完璧に負けたおもった由紀子は、思わず悔しくて泣き出してしまった。自分だって、水穂さんのことを好きなのに、学歴のある人は、そういうことを言って、私たちを言い飲めてしまうのね。あたしたちは結局、学歴のある人に従うしかないんだわ。

「もう泣かなくていいわ。」

ふいにそういう言葉が聞こえてきたので、由紀子はびっくりしてしまう。

「あたしたちは、ほかの方法で彼のこと助けられるけど、右城君に尽くしてあげられるのは、由紀子さんだけだと思うから、あたし、身を引くわ。」

「え、、、。」

そういわれて、やっぱり学歴や地位のある人は、そういうこともできるのかと悔しいというか悲しいというか、ある意味では憎らしいという気持ちもわいてしまった由紀子なのであったが、

「いいえ、右城君には、あなたしかいないわよ。あたしにできないことで、彼の支えになってあげてよ。」

と、咲に言われて、また複雑な気持ちになった。

「あたしにできることって、何もないわよ。浜島さんのほうが、いろんなことできるし、財力だってあるし、、、。」

「そんなことないわよ。あたしには、オンライン授業に反対することはできないもの。」

戸惑っている由紀子に対し、咲はにこやかに言った。

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みえない 増田朋美 @masubuchi4996

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