バス
エンジンが静かに乗客を揺らすバスの中、橙子(とうこ)は窓枠にもたれて空を見ていた。低く垂れ込めた雪曇りの空は丁度よく彼女の心を表しているようで、それは偏頭痛からくる頭の重さと、頭の中を苛む憂鬱さによく似ているからだった。
彼女はひどく疲れていた。上京して八年。キラキラ輝いて見えた街も、今では排気臭い空気と無機質の立体が連立しているようにしか見えない。
信号が青に変わってバスが動き出し灰色の景色を後ろへと追いやっていく。じわり生暖かいバス内の空気と顔面に感じる外の空気の冷たさとの差に、彼女は気持ち悪さを感じ始めていた。するとその時、足先に何かが当たった。バスの狭いシートの間に首を突っ込んで確認すればそれは鮮やかなオレンジ色の玉だった。手を伸ばしその肌に触れる。ボコボコとした触り心地にそれが蜜柑なのだと分かれど「なぜ?」という疑問は解決しなかった。
「ああ……こっちですこっち。拾ってくれてどうもありがとねえ」
通路を挟んで反対側の座席の老婆が優しげな顔を縮こませてこちらを見ていた。橙子は顔に笑顔をつくり、声を発さずに「いえいえ」と口を動かした。
老婆は続けて、
「蜜柑はねぇ、いいわよ。食べると元気が出るの。だからこの年でも元気にできるのよお」
老婆は老婆に見合わぬガッツポーズを披露した。
――橙子の祖母も蜜柑が好きだった。「蜜柑は元気をくれるのよ」といつも蜜柑を持ち歩いて、橙子がおやつをねだる度それを差し出したものだ。母から送られてくるメールには両手の蜜柑と一緒にポーズをとる祖母の写真がよく添付されていた。
橙子は「落ちてないやつ上げるわね」と老婆から手渡された蜜柑を窓越しの空に掲げた。灰色を跳ね除けるようなその橙色が一瞬祖母の笑顔に重なり、眩しさを感じて反射的に目が細まる。眩しかったのではないのかもしれない。ただ、うっすらと瞳が潤んでいて、けれども口元は朗らかな笑みを浮かべていたのだった。
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