汽車、バス
名が待つ
汽車
車掌さんが何か喚いている。しかし私にそれを聞き入れる余裕は無かった。発車の笛が既に耳に届いてしまっているのだ。この汽車を逃せばあの子達を余計に待たせてしまう。下駄を盛大に鳴らしてフォームを走る他なかった。
飛び乗った勢いのまま扉を開けて目に入った席に腰を下ろす。顔が熱い。前の席には洒落た格好の男の人が死んだような顔をして眠っていて、私が座るとジロリとこちらを睨んだ。なぜ睨まれなければいけないのだろうか。都会者は分からないと、しかし自分は今からそこへ行かなければならないのだと、一抹の不安が再び襲ってきて、私の手の中では赤い切符がふやけている。
――やたらジロジロとこちらを見てくる。私の顔に何か付いているのだろうか。私が幾らか悩んでいる間に、男の人は火をつけた巻煙草を咥えながらポケットの新聞をゆるりと広げてしまった。すごく難しそうな顔をして読んでいる。都会者には新聞がどんな風に見えているのだろうか。その額の皺はどんどん深くなっていって、時々私の顔をちらりと見ては殊更深くなり、底の見えない谷間が額を割らんばかりになる。いよいよこの男の人が分からなくなってきて、だけれど体を縮こませることしかできない私は襟巻きに顔を埋めながら約束の場所を待っていた。すると急にぱさりと音がして、見ると、
新聞が投げられていた。急なことに恐る恐る視線を上げてその顔を伺う。瞼はぴったりと閉じられていて、まるで死んでいるかのようだった。
トンネルに入ると、太陽の光が遮られ無機質な電気の光と外に広がる暗闇に私は次第に寂しくなってきてしまう。頬の熱が下がるにつれて、その熱に相反するような気持ちが高まってきてしまうのも当たり前なのかもしれなかった。凄まじい速さで後ろに流れていく景色と電灯に照らされた私の顔。未だ赤く染まった頬は固く強張っている。涙を堪えるように、手放すぬように、私は再び切符を握りしめる。
幾分か後に見覚えのある景色が広がって私は反射的に立ち上がる。約束。そう約束。私は約束したのだ。出てくる時、しっかりと小指を絡ませたのだ。約束を果たすべく男の人の隣の席に移る。窓を、窓を開けなきゃ。焦る気持ちと意外な重さに私は窓をうまく開けられない。もうすぐ"最後の"トンネルが来てしまう。はやくはやく、という気持ちが成就された時、ちょうど汽車はトンネルに入った。どす黒い煙が入ってきて、けれど今はそれに構っている暇はなかった。トンネルの中の風が私の髪を冷たくそよがせる。そして先の光を見つめて数秒、景色が広がる。私の町が見え、私の家が見え、そして私の家族が見える。約束の踏切の向こうで三人が立っている。口々に何か叫んでいたけれど、私には聞こえなかった。この景色を忘れてはいけない。瞳に刻みつけるようにしっかりと目を見開いて、手を懐に入れる。あの子達は蜜柑が大好きなのだ。ありがとうと、行ってきますと、さよらならと……、大きく、高く、放る。鮮やかなオレンジ色は冬の空を彩り、けれど直ぐに過ぎ去ってしまった。この景色は一瞬だけれども、刻みつけた記憶は薄れることはない。
落ち着いた私は再び腰を下ろして、その時やっと男の人の存在を思いだした。男の人はいつの間にか起きていて、顔色が少しばかり良くなっていたのだった。
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