第一話 『ほろびた生き物たちの図鑑』は待っていた 5
え? 買われちゃったのか?
頭の中が真っ白になった。
まだ出版されたばかりで、しかも飛び抜けて高価なこともあり、学校の図書室に同じ本は置いていない。もし誰かが図鑑を買っていったのなら、もうあの本を読めない。
心臓がドキドキして、冷たい汗が出てきた。
本当に買われてしまったんだろうか? もしかしたら別の場所に入れ間違えられたりしていないか?
本棚の下から上へ、息を止めるようにしてじりじりと目線を這わせて、道二郎はさらに絶望することなる。
「一番上の棚にね、移動されていたんですよ。大人でも脚立を使わなければとるのが難しく、子供にはとても無理な高さでした」
まるで、はるか山頂に咲く、手にふれることも香りをかぐこともかなわない幻の花を見上げる心境で、道二郎は大好きな図鑑を見上げた。
きっと、おれがあんまり毎日立ち読みしていたから、おれが読めないように、あんなに高い場所へ移されたんだ。
そう思って目の奥がジンと熱くなり、哀しくて哀しくて、胸が破れてしまいそうだった。
お金がなくて、立ち読みばかりしている自分が悪いのはわかっているので、なにも言えない。でも、読めないと思うと、道二郎の日々の暮らしのなかから、一切の楽しいことや幸せなことが根こそぎ奪い去られ、あとに大きな暗い穴がぽっかり空いているような気持ちになった。
淋しくて辛くて惨めで、どうしようもない。
目に涙をいっぱい浮かべて立っていたら、横からすっと本を差し出された。
——これを捜しているのでしょう。
ぼやけた視界に映ったのは、失われたはずの図鑑だった。
『見本』と赤い字で書いた紙が貼ってある。
それを道二郎に差し出しているのは、あの厳しい目をした怖い女性店員だった。
——これは試し読み用だから、好きなだけ読んでくれてもいいのよ。
女性店員の顔はいつもと同じように、厳しく引きしまっていた。声も硬い。
けれど道二郎が戸惑って手を出せずにいると、道二郎の胸に、とん、と本を押しあて、
——はい、どうぞ。
と言ってくれた。
——あなたが大きくなったら、うちでたくさん本を買ってね。
そう言って背筋を伸ばして離れていった。
『見本』と書かれた本を抱きしめて、道二郎は今度は先ほどまでとは別の感情から、もっと泣きそうになった。
「なつさんが店長だということをそのとき知りましてね、いつも厳しい顔で立っていたのも、子供たちが怪我をしないように注意してくれていたんだということも、わかりました。きっと私のことも気にかけてくれていたんですね」
なつが戦争で夫を亡くしたこと。
戦時中、あらゆる娯楽が禁じられ、本を読むこともできなかった暗く苦しい時代——本が読みたくて読みたくてたまらなかったなつが、平和になったら書店を開くと決めたこと。
一生かかっても読み切れないほどのたくさんの本に囲まれて、あの店に行けば読みたい本がきっとある、素敵な本に出会えると、町の人たちが胸をはずませて訪れるような——そんな店を作るのだと。
幸本書店を訪れる大人たちから聞きかじったなつの話は、幼い道二郎には理解しきれない箇所もあったのだけれど。
もうなつのことを、怖い店員だとは思わなかった。
眼鏡の向こうの静かな瞳は、とてもひたむきで誠実で、綺麗に見えた。
——なつさんが一番面白かった本はなんだい? って尋ねたら、亡くなった旦那さんが戦時中に聞かせてくれた物語だってさ。本を読みたがっていたなつさんのために、旦那さんが毎晩即興で話してくれたんだと。なつさんにとっては旦那の
そんな話も胸に染みて、自分の特別な大切な一冊は、この赤字で大きく『見本』と表記された図鑑だと思った。
三年生に進級すると、完全に労働力と見なされるようになり、道二郎は以前ほど頻繁に幸本書店へ行けなくなった。それでも中学を卒業するまでは、幸本書店を訪れるたび『ほろびた生き物たちの図鑑』を手にとって、ページをめくっていた。
それは道二郎の特別な本で、道二郎に確実に幸せをくれるものだったから。
いつか幸本書店に、この本を買いに来よう。
なつさんにお金を渡して、この本をくださいって言うんだ。
そう誓いながら就職のため十五歳で上京したが、初めて勤務した印刷工場での毎日は、道二郎にとって過酷なものだった。
残業につぐ残業で休みはないに等しく、給料は実家に仕送りをしたらほぼ残らない。とうとう五年目に体を壊し、会社を解雇された。
「夢も希望も全部打ち砕かれてね……私はこの町に、そりゃあ惨めな気持ちで戻ってきたんです……。久しぶりに幸本書店を訪ねたときも、ただもう申し訳なくて。お金を稼いで本をたくさん買って恩返しするはずが、なつさんは亡くなられていて、私ときたら借金まで作ってしまって、いつ働けるかもわからないんですからね……。お先真っ暗でしたよ。自分はこのまま図鑑の滅びた生き物たちのように死んでゆくんだろうかと、考えていました。あのころは、それが救いのようにさえ感じられていた」
廃人のようにふらふらと二階の児童書コーナーへ続く階段をのぼっていって、もうあの見本もないだろうと思っていたら。
「あったんです」
その一言に、万感の想いを込めるように声を震わせ、目をうるませ、道二郎は言った。
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