第一話 『ほろびた生き物たちの図鑑』は待っていた 4

 むすぶが持っているのは、子供用の図鑑だった。大型本で、表紙に『ほろびた生き物たちの図鑑』というタイトルと、恐竜やタスマニアタイガー、ドードーといった動物が描かれている。


『大きくて、鋭くて、怖そうなもの』


『昔、昔、昔の話』


『もう、今はない』


 むすぶが口にしていた〝ヒント〟と確かに一致する。

 けど、むすぶが持っている図鑑は、表紙がすすけて印刷が色あせ、ページも波打ってふくらんでいた。表紙に『見本』と赤字で書かれた紙が貼ってあって、その上から透明なフィルムでラミネート加工されている。

 幸本書店では、痛んだり古くなったりした本を、見本として置くことがある。特に児童書コーナーは小さい子供たちが本を汚すことも多く、それならば見本として汚しても良い本を置いておこうと考えたのだろう。

 むすぶが青い収納ボックスから引っ張り出してきたのは、そうした本のひとつのようだが、かなり年季が入っていて、本全体に痛みと損傷が激しく、見本としての役割も終えていることは一目でわかるほどだ。 

 そんな売り物ではないぼろぼろの本を、お客さまに差し出すだなんて。

 汗がどっと吹き出てきて、むすぶの横から口を挟んだ。

「申し訳ありません、彼はおととい入ったばかりの新人で」

 水海が謝罪しかけたとき。

 それまで苦い表情を浮かべていた男性が、くぼんだ目をいきなり大きく見開き、信じられないものを見る眼差しで『見本』の表示が貼られた図鑑を凝視した。

 唇や、腕、肩が震えている。

 男性の表情が怒りや失望ではなく、感動をたたえているのを見て、水海は声をつまらせた。

 皺に囲まれた目に、うっすらと涙までにじんでいる。

 コートの袖口から、細い傷がいくつも走る骨ばった手をのろのろと差し出し、伸ばし、男性がむすぶから図鑑を受け取る。

 ずっしりと重い本は、彼の細い手首をがくんと下げたが、その重みにすら感じ入っているように、目がさらにうるむ。

 そして、涙でしめった声で言った。


「そうだ……これを、捜していたんだ。もうとっくに処分されたと思っていたのに、まだあったんだなぁ……」

 

 傷と皺でぼろぼろの両手で、愛おしそうに表紙を抱くのを、むすぶはまるで自分が懐かしい大好きな人から、うんと大事に撫でられているような顔で見ていた。


 ——久しぶりだね、元気だったかい?


 ——大きくなったねぇ。


 まるでそんな言葉が聞こえているように。眼鏡の向こうの大きな目を、それはうっとりと細めて、あどけなさの残る唇をほころばせて。

 男性が震える指で大切そうに表紙を開くと、ティラノサウルスの絵が細かな文字と一緒に描かれていて。それを見おろし、また顔をくしゃっとさせ、唇を噛んでまばたきする。

 水海はどういうことなのか、さっぱりわからなかった。

 でも、幸本書店で七年もバイトをしていて、お客さまが欲しがっている本を探して手渡したとき、こんなにも嬉しそうな——幸福そうな顔をした人を、見たことがない。

 男性にとっては、色あせてぼろぼろになったその図鑑こそが、この世でただ一冊の大切な品なのだ。

 男性は何度もまばたきし、はなをすすりながら、傷だらけの手で本をめくっていた。

「そうだ、これが読みたかったんだ。この本に会いたかったんだ……」

 と、つぶやきながら。


 そのあと。

 本にまつわる古い話を聞いた。

 老人の名はふるかわみちろうといい、隣町で獣医をしているという。

 手の傷は治療中に動物に引っかかれたり、噛まれたりしてできたものらしいとわかり、水海も納得した。

 コートのひっかき傷も、自宅で世話をしている猫たちの仕業らしく、妻にもみっともないと注意されるのだが貧乏性なので、着れるものは捨てられないのですよ、と言っていた。

 そんな道二郎がまだ子供だったころ、幸本書店は創業者の幸本なつという女性が店主を務めていた。戦争で夫を亡くしたなつは、幼い子供を一人で育てながらこの町に書店を立ち上げたという。

 当時、三階建ての立派な書店は、町の人たちの誇りであった。

 幸本書店へ行けば、どんな本もそろっている、あそこの書店にはなんでもあるんだと、みんなが一番最初に足を運ぶ書店としてにぎわっていた。

 

「私の家はそれは貧乏でしてね……兄妹も大勢いて、本なんて贅沢品は買ってもらえなかったので、学校の帰りに一時間歩いて幸本書店まで行って立ち読みをするのが、子供時代の私の、なによりの楽しみでした」


 そんななか『ほろびた生き物たちの図鑑』に出会ったという。

 見たこともない動物たちが描かれた表紙に一目で惹きつけられて、ページの隅から隅までなめるように読んだ。リアルな筆致で描かれたティラノサウスルや、トリケラトプス、ドードーやタスマニアタイガーに心が躍り、どれだけ見ても見飽きなかった。

 この図鑑を知ってから、幸本書店へ行くのがいっそう楽しみになって、学校で授業を受けているときも、家で手伝いをしているときも、早く幸本書店へ行きたい、あの図鑑の続きを読みたいと考えてばかりいた。

 図鑑は目の玉が飛び出そうなほど高価で、普通の本ですら購入の厳しい家の財布事情では、とても購入できるものではなかった。もちろん小遣いももらっていない。


「それでも、幸本書店へ行きさえすれば、この宝物のような図鑑があると思うと、それだけでじゅうぶん幸せだったんですよ」


 雨がしとしと降りしきる日も、風が冷たく吹く日も、深く降り積もった雪にくるぶしまで足が埋まる日も、あの本に会いたくて、あの本を読みたくて、頬を赤くして幸本書店への道を急いだ。


 ——ああ、早く読みたい。読みたいなぁ。


 そしていつもの場所で図鑑を手にとって、めくりはじめれば、あとは至福しかなかった。

 タスマニアタイガーの牙は、なんて鋭く強そうなんだろう。トリケラトプスもティラノサウルスも、うんと昔にこの地上を歩いていたんだ。地面に大きな足形ができたりしたんだろうか。ドードーはどうして翼があるのに、よたよた歩くばかりで飛べなかったんだろう。

 広げた本の中から、今にも動物たちが飛び出してきそうに思えた。

 楽しくて、わくわくして。

 が、ある日、店員の女の人に見られていることに気づいた。髪を後ろでひとつにぎゅっとひっつめて眼鏡をかけた、背の高い痩せた女性は、物差しでも入れているみたいに背筋がいつもピン! と伸びていて、怒っているみたいな厳しい顔をしていたので、道二郎は彼女が怖かったという。

 その人が、じっとこちらを見ている。

 きっとおれが毎日タダで本を読んでいるから、怒っているんだ。

 いつ、つまみだされやしないか、もうあなたはここへ来てはいけません、本が欲しければお金を持ってきなさいと言われるのではないかと、ドキドキした。

 もし、そんなことになったらどうしよう?

 考えただけで胸がきゅーっと締めつけられて、ひどく哀しい気持ちになった。

 児童書のコーナーには、道二郎の他にも立ち読みをしている子供たちが大勢いたけれど、その子たちは親が迎えに来たときに、本を買っていったりもした。

 おそらく道二郎だけが一度も本を買ったことがなく、そうした引け目から、あの怖い女性店員が姿を見せると、図鑑を閉じてこそこそと階段を下りてゆくのだった。

 そんなときはいつも惨めで、泣きそうだった。

 ときどき学生服を着た店員が、児童書のコーナーで子供たちの遊び相手をしていることがあり、彼は本を読むのがたいそううまく、人気者だった。

 彼が現れると子供たちが、


 ——あ、かねさだお兄ちゃんだ。


 ——かねさだお兄ちゃん、この本よんで。


 と、本を手に集まってゆき、彼が声を巧みに変化させて、登場人物を演じわけながら読みはじめると、立ち読みしていた子たちまで聞き入った。

 道二郎もこのときだけはページをめくる手をとめて、彼の語りにこっそり耳を傾けていた。

 学生服を着た彼は幸本かねさだといい、店主の息子だった。

 兼定は、児童書のコーナーに道二郎一人きりしかいないようなときでも、


 ——やぁ、それ面白いか?


 と気さくに声をかけてきて、道二郎がコクリとうなずくと、


 ——そうか。まぁ、ゆっくりしておいでよ。


 と笑って、あとは放っておいてくれたので、気が楽だった。

 なので児童書のコーナーに兼定がいるとほっとして、あの怖い女性店員がいるとしょんぼりした。


 懐かしそうに目を細めて語る道二郎がそれを知るのは、このあと起こった、たいそうショックな出来事のあとだったという。

 その日も、道二郎は学校の帰りに一時間かけて、幸本書店へやってきた。

 児童書のコーナーでは他の子供たちが立ち読みをしていて、店員の姿は見当たらなかった。

 よかった……。

 安堵して、いつもの本棚へ行き、一番下の段から『ほろびた生き物たちの図鑑』を抜き出そうとしたとき。

 そこに道二郎の宝物の図鑑はなかった。

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