第一話 『ほろびた生き物たちの図鑑』は待っていた 3

「水海さん、あの人は常連さんですか?」

「え……知らないけど……」

「そうですか……でも……」


 むすぶが何故だか気にしているので、水海も目をこらした。白髪で背中が微妙に丸まった高齢の男性だ。

 七十代半ばくらいだろうか?

 顔に深い皺がくっきりと刻まれ、目が落ちくぼんでいる。どことなく焦燥しているふうで、眼差しや足取りに苛立ちが感じられるのに、水海はひやりとした。

 長年書店で働いていると、万引き犯を見分けられるようになる。

 最近は若い子だけではなく、生活に困った高齢者も万引きをするようになった。

 男性が着ているコートはだいぶ古びていて、よく見ると裾や袖に引っかけたような線が走っている。

 もしかしたら……。

 まだ口を閉じたままなにか考え込んでいるむすぶを残して、水海は男性のあとにさりげなくついていった。

 男性は一階に置いてある一般書籍にも雑誌にも見向きもせず、フロアの中ほどにある階段をのぼりはじめた。

 二階は児童書のコーナーだ。

 幸本書店は昔から児童書に力を入れており、このフロアは大型書店にもひけをとらないほど充実していると、水海はひそかに自負している。

 しかし二階は店長が亡くなった場所でもある。

 訪れるお客さんたちの中には、事故現場に興味があるらしい人もいて、わざわざ二階に上がり、『店長さんは、どのへんで亡くなったの?』などと、水海たちに訊いたりもする。

 それに対しては、やんわりと回答をお断りするよう他のバイトたちにも伝えてあった。なので、この男性も二階のどこで笑門店長が亡くなったのかは、知らないはずなのだ。それが、まっすぐにそこへ行き、立ち止まった。

 

 万引き……じゃない?


 水海の胸が、ぎゅっと縮む。高齢の男性への不審が、さらに黒々とした重たいものに変わってゆく。

 何故、そこで足を止めるのか?

 そこは店長が倒れていた場所だ。

 水海が店へ来たときにはもう遺体はなかったが、現場に流れた血はそのまま残っていて、警察の人たちがあれこれ調べていた。

 男性は棚の上のほうを、目をすがめ、顔をゆがめて見上げている。

 難儀そうに、辛そうに首を伸ばし、それでもそのままじっと——。皺だらけの顔をどんどんゆがめて、ひどく苦しそうに。今にもなにか大声で叫びそうな張りつめた顔つきで。

 男性が見ているのは子供向けの辞典や図鑑が並ぶあたりで、店長の頭に落下し命を奪ったのも、まさにそうした本たちだった。

 水海の首筋も緊張でこわばり、手のひらにじわりと冷たい汗がわいてくる。

 心臓が、ドキドキと高鳴っている。

 男性が背伸びをしながら、本棚のほうへ手を伸ばす。


「!」


 彼の手の甲や手首に走る傷に、水海は息をのんだ。

 まるで鋭い爪や牙で、引っかかれたような傷が、あんなにたくさん——。

 傷だらけの手が、棚の最上段へ向かう。

 男性の身長はその年代の人の平均くらいで、百六十五、六センチほどだろう。背中が少し丸まっているが、それを、うんと伸ばしてつま先立ちになり、最上段の図鑑にふれようとしていた。

 子供用の図鑑とはいえ、かなりの重さと厚みがある。

 不自然な体勢で抜き出そうとして、手からすべって頭上に落下するようなことがあれば、店長の二の舞だ。

 本が男性に向かって雪崩落ちてくる場面が頭に浮かび、水海は体がぎゅっと引き絞られるような気がした。

 危ない!

「お客さま。必要なご本がございましたら、わたしがお取りします」

 不審の念を表に出さないようなるべく丁寧に声をかけると、男性は傷だらけの手をびくっと震わせ、振り向いた。

 顔をゆがめたまま、落ちくぼんだ目で睨みつけるように水海を見てくる。

 年齢を重ねた人たちに特有の眼力の強さは、水海をたじろがせた。お年寄りの中には、いきなりスイッチが入ったように怒鳴り出す人もおり、過去に対応に苦慮した経験から体がこわばってしまう。

 それでも頬に力を入れ、笑顔で、

「どの本をお取りしましょう」

 と訊いてみると、男性はまたぴくりと肩を震わせ、乾いてひび割れた唇をかすかに開いて、その口をまた、むぅっと閉じた。

 傷が走る手を隠すようにコートの袖に引っ込め、そのまま逡巡するような、焦燥しているような表情を浮かべていたが、やがて枯れた低い声で言った。

「……ここには、ない」

「あの」

 意味がわからない。

 あんなに必死に手を伸ばして本を取ろうとしているように見えたのに。欲しい本は、ここにはない?

「どのようなご本でしょう? お探しいたします」

 そう言うと、張りつめて怖そうに見えた表情が、哀しそうに崩れてゆき、口の端だけをへの字に曲げたまま、絶望している声で、

「……いいや、いい。もう、あれはないんだ」

 と、つぶやいた。

「でも、お客さま……」

 一体、どんな本を探しているのか見当もつかず、水海が弱っていたとき。


「その本でしたら、確かに当店にございます」

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