第一話 『ほろびた生き物たちの図鑑』は待っていた 6
「私が最後に読んだ五年前よりだいぶ傷んでいて、端が破れているページもありました。それでも、私にとって宝物だった図鑑が、そこにまだあったことに、私はね——震えました」
喉も目頭もどんどん熱くなり、込み上げてくる涙を何度も飲み込んだ。まばたきを繰り返し、小さく震えながら、図鑑を手にとって。ページをめくって。
この本のおかげで満たされ幸せだった少年時代を思い返しながら、めくって、まためくって。
「おまえはまだ滅びてないだろうって、励まされているような気がしました。まだやれる、これからだ、まだ頑張れる、はじめられるって」
目を赤くし、熱のこもる声で道二郎が語る。
それをむすぶが隣で、喜びと嬉しさのこもる表情で聞いている。
ときおりむすぶが小さくうなずくのは、まるで道二郎が胸に大切に抱いている図鑑のささやきが聞こえているようで。
——頑張ったね。
——えらかったね、負けなかったね。
——覚えているよ。
ううん、そんなことあるはずないと、水海は心の中で慌てて否定する。本の声が聞こえるなんて。今このときも、本が語りかけているなんて。
そんな想像をした自分にも腹が立った。
けど、『ほろびた生き物たちの図鑑』に道二郎が勇気をもらったことは間違いなく。そのあと働きながら夜間高校に通いはじめた彼は、大学に進学し、獣医になったという。今ではお子さんたちも独立し、小さな病院を一人で続けているという。
「息子も娘も獣医にはならなかったから、私が立ち上げた病院は、私の代で終わりです。私もやはり滅びる生き物だったのだなと……身体が弱ってきたからでしょうか……最近特に感じています……。それでも、この図鑑に出会えて、今の私になることができて良かった……。幸本書店には感謝しかありません。まさか二代目の兼定さんだけでなく、三代目の笑門さんまでこんなに早くに亡くなるなんて……」
忙しさにかまけて隣の町から幸本書店へ、わざわざ足を運ぶことはなくなった。
笑門が亡くなり幸本書店が閉店することを知り、子供時代にあの図鑑がいつもの場所になかったときと同じくらい愕然としたという。
あの見本は、まだあそこにあるだろうか?
『ほろびた生き物たちの図鑑』はすでに購入していて、道二郎の家の本棚に並んでいたが、あの見本こそが、道二郎の幼少時代を幸福で満たし、青年時代の彼を励まし前へ進ませてくれた特別な本だったから。
幸本書店がなくなる前に、どうしてもあの見本が残っているか確かめたい。
そんな燃え立つような思いから、懐かしい書店に三十年以上ぶりに足を踏み入れた。
まっすぐに二階へ上がると、そこは児童書のコーナーのままで、胸がいっぱいになったという。
見本があった場所にも本棚にも『ほろびた生き物たちの図鑑』はなく、当然か……と思いつつ哀しみが広がるばかりで。今の大人の自分ならば、最上段に手も届くだろうかと手を伸ばしたりしてみた。
水海が目撃した奇妙な動きは、そういうわけだったのだ。
むすぶが明るい声で言う。
「この本は、幸本書店にとって思い出深い本だから、笑門さんがとっておいたんですよ。もしかしたらいつか誰かがこの本に会いにくるという予感が、笑門さんにはあったのかもしれませんね」
それも水海は知らないことで、胸がぎゅっとした。
なんでそんなこと、あなたが知っているの? と問いつめそうになり、口を引き結ぶ。
道二郎が感慨深げに、
「そうだったんですか」
と、つぶやいた。
「でも、何故私がこの本を捜していることが、きみにわかったのですか?」
と不思議そうに尋ねると、むすぶは晴れやかに笑った。
「もちろん、本が教えてくれたんですよ」
道二郎が目を見張り、水海は顔をしかめた。
「一階の入り口に、古書が展示されていますよね。昔の貴重な本とか、幸本書店へ来た作家さんのサイン本とか。道二郎さんが来店されたとき、その古い本たちがざわめいたんです。それでわかったんです。道二郎さんは幸本書店に深い縁のあるかたなんだって」
道二郎はむすぶの説明に、完全に納得したわけではなさそうだった。
当然だ。水海だって、なんて胡散臭い話だろうとあきれている。
けど、
「今日はご来店くださり、ありがとうございます。この本も道二郎さんに会えて喜んでいます。よかったら一緒に撮影をしていってください。それとポップもぜひ!」
むすぶが勧めると、図鑑を抱いていた傷だらけの両手を伸ばし、恩人であり旧友である相手と向き合い、語りかけるような眼差しで見つめて、
「そうだなぁ……せっかくだから、そうするか」
と答えたのだった。
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