3
ウエイトレスがふたり分のコーヒーを置いて去っていく。
彼が私を連れてきたのは街の小さな喫茶店だった。木材を多用して作られた店内には自慢のコーヒーの香りが空間いっぱいに広がり、木材の香りとも相まって独特な空間を醸し出している。
彼も私もどこかそわそわしていた。それもそうだろう、普段は同じお店で働く者同士、社員とパートの関係でしかない。改めてこうして顔をまじまじと見るのは初めてだった。
暫しの沈黙。コーヒーを挽くカリカリという音と香り、バラードJAZZ が小さく聴こえる。まるでひと昔前のメロドラマのような光景だと思った。尤も、そのヒロインを私がつとめるとは考えもしなかったが。
「あ、あの」
思い切って声をかけてみた。
「こんな素敵なお店、よくご存知でしたね」
あぁ、何を言っているんだ私は。無難な質問とはいえあまりに的外れだ。
だが、そんな質問に彼の緊張の糸はほどけたのか
「えぇ。とはいってもこの間偶然見つけたお店ですけどね。ここの珈琲がまた美味しいんだ」
と笑いながら語る。そうなのか、と啜ると確かに。ほろ苦いなかに豆の甘さや焙煎の香ばしさを感じ、独特な薫りが鼻腔を抜ける。
「美味しい」
息を吐くが如く声が漏れる。私の緊張の糸も解けたようだ。
「そうでしょう、そうでしょう」
と満足げに反応する彼。その顔は嬉しそうに、目を細めていた。
私たちはなんのたわいもない話をした。パートのこと、互いの趣味のこと(彼は旅行が好きで、若い時は休みの度にあちこちへ出かけていたらしい)や好きな音楽の話(私と同じように最近の曲より、ジャズやクラシックなどのインストゥルメンタルを聴くらしい)など、他人にしてみれば本当に取るに足らない話である。しかし私と彼にとっては、互いを知るいい機会なのである。
「あぁ、そうだ。その後旦那さんとはいかがです」
慣れてきた頃、なんの前触れもなくこの話題を振ってきた。ふと今までの笑みが張り付く私、ガチャリとカップが音を立ててソーサーに落ちる。その様子に彼も慌てたようで、笑顔が引き攣った。
しばし時がとまった。楽しいという空気が崩れ、見たくもない顔が瞼の裏を通り過ぎる。
「え、えぇ、ぼちぼちですよ」
作り笑いで取り繕う。しかし口から出た言葉は棒読みで感情が入っていない。
「そ、そうですか?」
彼も明らかに動揺している。彼に本当に申し訳ないことをしてしまった。
それからというもの、どうにもきまずい。目を合わせられず、さっきからコーヒーばかり口に含んでいる。
「実は、おわかりのことかと思いますが、旦那とはまともな会話を殆どしていないのです」
ぽつり、カップを傾けながら不意に零れた。
「結婚した頃は私も愛しくて、一秒でも離れていると心配になりました。だけど今は、一秒でも離れていたくて。だからパートを始めたのです」
私は嘘をついた。正確には、本当の気持ちを伝えなかった。当然だろう。お互いに家庭のある身である。
私はそれを黒い液体で流し込む。彼は黙って聞いていたが、
「そうでしたか」
とだけ呟き、静かにカップを傾けた。
それからはお互いに口を開かなかった。彼は何か思い詰めていたようだし、私はこの気持ちを打ち明けてよかったのだろうかと若干の後悔をしていた。
そのうちにぼぉんと柱時計がなり、夢の時間が終わったことを告げた。
「お疲れ様でした、店長」
その後はいつものように頭を下げた。私と彼はいつもと何ら変わらず、パートと店長として一日を終えた。
「はぁ」
思わずため息が漏れる。やはりいうべきではなかった。急にあんなことを打ち明けられて、彼も大層困惑していた。楽しい時間を打ち壊してしまったのは自分自身なのだ。私が冷静に隠し通してさえいれば、彼に気を遣わせることもなかったのに。後悔の二文字が頭を駆け巡っている。
それにつられて足取りは次第に遅く、しまいには鉛をくくられたようにずっしりと重さを感じた。
それでもどうにかこうにか身体を引き摺るようにして自宅に辿り着いた私は、着替える事もなくベッドに倒れこみ、両の瞼を閉じた。
翌朝、まだ寝足りない身体を無理やり起こして起き上がると、夫は既に着替えて顔を洗っていた。
「おはよう。あぁ、テーブルの上にいつもの、あるからな」
髭を剃りながら顎で指し示す。薄い桃色の封筒には「検査のお知らせ」と私の名が書いてあった。差出元は近くの産婦人科だ。
「あなたは行かれるの?」
「あぁ、午後からの出勤に変えてもらった」
「そう」
それが事務的手続きであるかのように応える夫。決して他人事ではないのに無関心だ。なぜ私はこんな男との子を身籠ろうとしているのだろうか。今更ながら信じられない。
私は手早く朝食を済ませると、身支度を整える為に鏡台に座った。
改めてみると随分と老けた。目じりや口元には余計な皺が寄り、頬にはシミやそばかすができ始めている。それもそうか、もう40という大台に乗ろうかという歳だ。当然といえば当然か。
そんな現状とは裏腹に、私の恋の炎は日に日に大きく、これまで感じたことのないくらい激しく燃え盛っている。
私は改めてそのギャップに気が付いた。そしてそれをとても恥じ入った。ありえない。こんないい歳した女が、あろうことか家庭を持っている男にこんな恋をするなんて。なんて馬鹿げているんだと。目を覚ませ、私。
「おい、準備はできたか」
扉の向こうから夫の呼ぶ声がする。はたりと我に返った私は、自分がなんの支度もしていなかったことに気が付いた。
「もう少し待って」
夫がやれやれと首を振っているのがわかる。これだから女は、と言いたげに。
私は簡単な化粧だけをすると、夫の機嫌を損ねないようにして病院に向かった。
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