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誰もいない昼下がりのリビング。ふんふん、と鼻歌が漏れる。
ようやく夫と離れられるきちんとした理由ができた私は、パートの時間を今か今かと心待ちにしていた。普段は憂鬱な私だけれど、今日ばかりは精が出る。
これを夫がみたらどう思うだろうか。いや、何も思わないだろう。彼は私よりも仕事を優先する男だ。私のことはどうでもいい。夫にとって大事なのは、出世だけだ。
だめだめ、と首を振る私。鬱々とした気持ちを吹き飛ばすように、歌をうたってみる。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように
何故だろう、逆に虚しくなってきた。思わず溜息が漏れる。しかしそう落ち込んでもいられない。今は一秒でも惜しいのだ。込み上げてくる思いをぐっとのみこみ、油のこびりついたフライパンをこする。
「ありがとうございました。.....はぁ」
最後のお客様を見送り、閑散とした店内。私の溜息が溢れる。
「どうしました、新川さん」
思わず出た溜息に終業を知らせに来た店長が心配そうな顔をして反応する。
「お客様と何かトラブルでも」
「いえ、違います。ただ」
「ただ?」
私は迷った。彼に相談してもよいものかと。一個人の家庭の事である。そんなことを彼に相談するべきでないという気持ちが私を押さえる。店長に迷惑はかけられない。
「......いえ。なんでもありません」
顔を背けて答える私。込み入った事情を察した彼は躊躇いがちに、こういうことをお尋ねするのは大変に失礼であることを承知の上で伺いますが、と前置きをしてから
「もしかして、ご主人とうまくいっていない、とか」
と問う。
思わず驚いた顔をあげる私。
「あぁ、やはりそうでしたか。道理で浮かない顔をされているわけですね」
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけして」
私は深々と頭を下げる。
「いえ、構いませんよ。ただ、新川さんが悲しそうなお顔をされているので、みかねてつい声をかけてしまいました。よければお話をお聞かせいただけませんか」
「しかしさらにご迷惑をおかけするわけには」
と躊躇する私。心の中は胸につかえたものを吐き出したいのと、話した事で彼にさらに迷惑をかけるのではないか、とふたつの相反する感情がせめぎ合う。
「いやいや。迷惑なんてそんな。お店で働く仲間の心身のケアをするのも店長の役目です。それに新川さんには何かと助けていただいていますし」
と微笑を浮かべる。しかしそうは言うが、そう簡単に甘えることのできない私なのであった。
「ありがとうございます。そういっていただけるのはとても嬉しいです」
こうしてこの日は答えを濁して帰路についた。
街灯のまばらな暗澹たる道を歩く足音。今朝の陰鬱な気持ちと、彼に打ち明けるべきだったのではないかという後悔とを引きずったまま、足かせでもはめられたがごとく重い足取りで家路を往く。一歩、また一歩と踏み出す度に重くなる。あの家に、あの男の元に帰りたくない。それよりもこのままどこかへ行ってしまいたい。願わくば、彼と......。
はっ、私はなんと愚かなことを考えているのか。曲がりなりにも私は既婚者、おそらく彼も既婚者であろう。家に帰れば可愛い奥さんと子供がいて、いつも笑顔の絶えない家庭がある。私が壊していいものではない。
しかし、一度燃えた恋の火は簡単に消せない。ましてやそれが遅くなればなるほど、強く、大きく、激しく燃えさかるのだ。
翌日、昼下がり。
私は近所のスーパーへ一週間分の食材を買いに出ていた。
「あれ、新川さん。こんにちは。こんなところでお見かけするなんて」
聞きなれた声が私を呼ぶ。ふと顔を上げると、いつもの彼が微笑んでいた。
「あぁ、店長。こんにちは。奇遇ですね」
「新川さんもお買い物ですか。お互いに大変ですね」
そう笑う彼のかごは即席麺と栄養ドリンク、幾らかの缶チューハイがあるばかりだった。とても家庭のある男とは思えない。
「あぁ、そうか。私、独り身なんですよ。妻に愛想をつかされまして、子供たち連れて逃げていってしまったんです」
お恥ずかしながら、と頬をかく彼。あらあらそれはと同情の念をみせるも、心のどこかで安心している自分がいた。
「まぁ、ここで立ち話はなんですから、どうです。喫茶店に入って少しお話しませんか。幸い私も新川さんも夕方からですし」
私の心を知ってか知らずか、何も躊躇うことなくそう問いかけてきた彼。幸い、私も家事をあらかた終わらせてから来た為に断る理由がない。だがしかし恰好が恰好である。顔はほぼそのまま、ジーパンにカーデガンを軽くひっかけているとはいえ上は部屋着である。彼に会うならばもう少しまともな恰好をするべきだったか。
自宅に戻って着替えてくるべきか、この機会をお近づきのサインとみるか。しばしの脳内会議の結果、一つの答えに行きついた。
「もし、こんな恰好でよければ」
迷いがちに紡いだその言葉に、彼の表情から多少の憂いが消えた。
「よかった。あなたとゆっくりお話ししたいと思っていたのですよ。荷物はお持ちしますね」
「あぁ、いえそんな」
私の買ったものといえば彼のような軽いものばかりでなく、肉や野菜、幾つかの調味料で溢れている。しかし彼はこれをいとも簡単に持ち上げ
「いえ、こちらからお誘いしたのですからこのくらいしないと。それに、女性に重たいものは持たせられませんから」
と微笑する。
その顔にどこか遠い記憶がふと呼応する。その記憶とはなんだったのか。私にはわからなかった。だが、この選択は後に何かとてつもなく大きな危険と誘惑が待ち受けているような気がした。
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