好きになっていいですか
桐山 翔也 -Shoya kiyama~
1
抜ける青空を眺めていたら、無性に死にたいと思った。
青く、広く、どこまでいっても自由な空。手を伸ばせば届きそうなのに、あと少しのところで届かない。
「はぁ」
天に伸ばしかけた手を力なく下ろす。もう私に自由なんてない、あるのは夜より暗く、いつまでも出口のみえない底なし沼。足掻けば足掻いただけさらに早く深く沈んでいく。誰かが言っていた。「結婚とはすなわち人生の全てを自ら捨てるものだ」と。
「おぉい、いつまでそこに居る」
下を覗くと、嫌という程見た顔。若い時はあんなにかっこよく、この人しかいないと思えたのに今は何故だろうか、一分でも離れていたい。
そう、彼こそが私に人生を捨てさせた人―――その当時は捨てていいと思った人である。モデルのようにかっこよかったあの時の彼はいづこへ。今は信楽焼のたぬきである。「はげたぬき」と心の片隅で呼んでいるのは秘密だ。
「今降りるわよ」
私を見上げるいやらしい目付き。たぬきならもっと愛嬌のある顔をしなさいよ、気持ち悪い、とこみあげてくる吐き気をどうにか抑えつつ、平然を装って降りていった。
「あまりに綺麗な青空だったから、屋根に上がって空を眺めていたの」
と笑う私。平気で嘘を吐けるようになったのももう随分と前のことだ。
「そうか、だけど気をつけろよ。もう子供じゃないんだから」
「わかっているわよ、あなた」
あなた、だって。そんなこともう一ミリも思っていないのに。
結婚して家庭を持つ。それこそが女に生を受けたものの幸せだと信じていた。
しかしそれは盲信であったと気がついたのは、結婚して少ししてからである。
きっかけは、私が不妊症であると判明した時である。体質的にできにくく、治療も長期になると、主治医が言っていた。私はその事実を知って愕然としたがそれ以上に、夫の態度に失望したのだった。
「子供がいなくても、幸せになれるよ」
夫は傷心している私に向かってそう言ってのけたのだ。その言葉は今でも私の脳裏に焼き付いて離れない。私がかけてほしかったのは哀れみと慰めの言葉ではない。優しさと希望で私を前向きにしてくれる言葉だったのだ。
その時、私の中の何かが音もなく崩れ去った。私はもう二度と幸せになれない。牢の中に閉じ込められた囚人のように、檻に閉じ込められたカナリアのように、この男の下で生きなければならないのだと悟った。
あれから十年以上経つ。今でもその言葉を思い出しては胸が苦しくなると同時に、今なお家庭を省みない夫を強く怨む。夫にとって結婚とは、どういう意味を持っているのだろうか。夫には仕事さえあればいいのだろうか。私はどうでもいい存在なのだろうか。ならば、私と結婚した意味はなんだったのだろう。
がしゃん、と皿の割れる音で我に返った。屈んでひとつずつ欠片を拾い上げる。
「いった...」
見ると人差し指がぱっくり切れている。虚しさがこみあげてきた。広い部屋でただ一人、夫の帰りを待って、夕飯を食べて寝るだけの何の生産性もない生活をこれから何十年と続けなければならないのかと思うと自然に涙が溢れてくる。なぜ私ばかり、こんな思いをせねばならないのか。
「私.....何で生きているんだろう.....」
その声を誰が拾うわけでなく、誰もいない昼下がりに消えた。
「なぁ」
「ん?」
夕食後のひと時、夫がふいに声をかける。
「パート、してみたらどうだ」
「なあに?急に」
突拍子もないことをいう夫に私は何の冗談よと笑う。
「冗談なんかじゃない。これ見てみろよ」
と、渡されたチラシ。近所のスーパーが新しく開店するらしく、スタッフを募集しているようだ。
「ふぅん、時給千円ね」
私は素っ気ない振りをした。しかしその実、自宅に軟禁されている現状を変えるまたとないチャンスだと思った。しかも夫がこう言ってくれているのである。堂々と出掛けることができるではないか。
「考えておくわ」
とはいったものの、私の答えは決まっていた。
翌日、夫が出社した後に履歴書を書き、その足で面接に向かった。
「ねぇ」
「ん?」
その晩、今度は私がふいに声をかけた。
「パート、決まったから」
「そうか」
夫は新聞から目も話さずに答えた。
何か言うことはないの、と問い詰めたい気持ちをぐっと抑えつつ缶ビールを煽る。落ち着け私、いつものことじゃないか。
「まずはレジ打ちからですって」
「そうか。俺は寝るぞ。明日も早いからな」
そそくさと寝室に引き上げる夫。私も翌日に備えて、早々に床へついた。
まさか、これから始まろうとしていることが運命の歯車を大きく変えるだなんて、この時は思いもしなかった。
閉店時間を過ぎ、沈んだ店内。私は入りたてながら売り上げを確認する業務を任されていた。
「新川さん」
「はい?」
顔を上げるとエプロン姿の店長が微笑んでいる。
「そろそろ終わりにしましょう。時間も時間ですし」
「はい」
私はポーチにその日の売り上げを入れて事務所へ戻った。
「どうでした、一日働いてみて」
「とても楽しいです。お客様もパートの皆さんもいい方たちばかりで」
「それはよかった」
にっこりと笑みを浮かべる店長。つられて微笑を浮かべる。
「では私は失礼します。明日もよろしくお願いします」
閑寂とした夜だった。まばらな街灯に青白く照らされた街は誰一人として人の影はなく、靴音だけがこだまする。私はこれまでに味わったことの無いすっきりとした心持ちだった。身体は疲れたが、やりきったという達成感と家からようやく放たれたという開放感とが心を満たしていたのだ。しかしそれと同じくして、自宅に帰りたくないと思った。帰れば否が応でもあの面を拝まなければならない。しかし、他に帰る場所があるかといえば皆無であることもまた事実なのである。
帰ると、汚れたままの食器が流しに山積みで放置されていた。それでも私は、澄んだ星空の如くすっきりとした心持ちのまま黙々と洗い物に勤しむのであった。
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