黄金に近い西日の色

甘香茶

黄金に近い西日の色

 「次来るとき、また渡すよ」と姿を消してからもう何年か経つ。私も彼との関係はよくないものだと知っていたから納得したはずだ。物の少ないこの部屋には私1人。彼に関するありとあらゆるものを捨てた。そんなもの目に入ったらどうにかなりそうになってしまいそうだったから。体も心も。


 彼がよく来ていたころ、今か今かと待ちわびてよく部屋の前に飛び出していた。今もその癖が残ってしまっていて、無意識に部屋の外に出る。この2階からまっすぐ見えるのは蜃気楼みたいに揺らぐ、彼がいるであろうビルの群れ。そのビル群よりも後ろに見える隣星の方がくっきり見えるのが笑えるし悲しいしイライラもする。ものを捨ててしまってもこの風景が私に彼をあきらめさせてくれない。何よりも好きだった部屋の前からの眺めが今は私を縛り付けている。青から緑のグラデーションの空に黄色い砂。浮いている茶色い小惑星。跳んでいく人やごみ。


 透明耐性服ハーフスキンとセーラー服を着て登校する。なんちゃら回帰とか言って、部屋で授業を受けられていたのが、学校まで行かないといけなくなった。この辺りは重力が弱く物が浮きやすい。人も歩かずに跳んで移動する。正直危ない。跳躍中に横から物が私目がけて飛んできても避けることは難しい。スキンは最低防御だけ。衝撃が強いと血も出るし痛い。ちょっとはビル群のお偉いさんものことを考えてほしい。風景だけに飽き足らず、生活までもあのビル群に振り回されるのがしんどい。どうして彼は来なくなってしまったのだろう。


 学校では壁に引っ付いている板に先生が文字を書いては消し書いては消しするのを見て時間が過ぎていく。頭に直接書かれるので集中してもしなくてもどちらでもいいのだ。けど消されるときに頭が痛くなることもあって少し面倒くさい。

たまに窓にものが当たる。窓はビル群と逆の方についているので、外を見ても何にも惑わされない。それが学校に来るようになったことを許せる一番の理由だ。視界に入る教室内では登校制度になってから他人とつるむ人が日に日に増えた。あんなに笑い合えるのは羨ましくもある。心がとらわれて動かない私は帰って寝たい。


「なあ、今日こそどこか行こうぜ」


 目の前に同じ教室で講義を受けている男子が立っている。私に好意があるらしくいつも話しかけてくる。

 相手にせず教室から出る。それに構わずその男子は私にずっと喋りかけてくる。


「モールでおいしい飲み物屋を見つけた」とか「海行こうぜ」「甘いものいらね?

 うまいところあるんだ」「バッティングセンタースカッとするぜ」etc.etc…


 言葉が体の奥にある何かを暴きそうになって走って逃げだした。知ってるよ、そのドリンク。ミルクが好きだった。知ってるよ、その喫茶店。早く大人になりたかった。知ってるよ、球が遠くまで飛んでいくのをよく見てた――


 校内を走ると金属の床がコンコンひどく乾いた音を返す。私が出せない音だ。早く出たい。遠くから楽器の音が聞こえる前に。


 部屋に来ていたころ彼はいつも楽器を置いて行った。リコーダーやクラリネット、ハーモニカ、その他いろいろ。全部吹く楽器である。吹いてみると自分ではどんな下手な音だと思ってもいつも楽しそうに笑ってくれた。頭をなでてくれた。こんなに幸せなことがあっていいんだろうかと思っていた。今思えば、ちゃんとその幸せを受け取っていればよかったのに。私が受け取っていなかったことを知って、彼は来なくなったのかもしれない。


 目が覚める。朧気に見渡すと部屋は殺風景なもので必要最低限のものしか置かれていない。彼に関係するものを捨ててしまって自分は何もないと思い知らされてしまった。ただ、それらを捨ててから部屋にハーモニカが転がっていることに気づいた。いい機会だしこれも捨ててしまおうかと思ったけどやめた。私が吹いてみて一番音が出たのがこのハーモニカだったからだ。一番なでてくれたのもこのときだった。感触はそれからのことと相まって薄れてしまった。うれしいというデータだけが残った奇妙なアンドロイドになった気分になってどうしようもなくなる。横になったまま、そのハーモニカを口に当てて吹いてみる。あのときと同じ少し黄色かかった音が出て私は泣いてしまった。しなくていいことをして後悔する癖はやめたはずなのだ。



――――――――――――――――



「この辺りの音はセーフティネットで昔から重宝されてきました――」


 張りがある先生の声が耳まで届く。それ以外は生徒の鈍く薄い気配が感じられるだけで、他人がいるのにどこか空虚な感覚に陥る。だからみんな他人とつるむのかもしれない。実感がほしいのだ。羨ましいと思った理由がなんとなく理解できた。


「なあ、頼む。1回でいいから。それでお前を満足させて見せるから!」


 放課後にはいつもの男子が前に立っていた。飽きもせずよく頑張れるものだ。目標が目の間にいるのだから当然なのかもしれない。寒くもないのに体の芯が締め付けられる。


「そんなに私のことが好きなの」


 どんなふうに答えるのだろうかと思って聞いてみたら、男子は固まってしまった。一方的な緊張感のある一瞬が過ぎ、帰って寝ようと席を立ったとき、その男子の声がした。


「いてもたってもいられなくなるんだよ! これだけ近くにいるんだぞ。遠くで見てるだけで満足なんて死んでるのと一緒だ」

「……それじゃあ近くにいなくなったらどうするの。もういいってことだよね」

「……だから探してる」

「? 何を?」

「お前の家を。知らないから。ついていくのは……嫌だ」


 そのとき久しぶりに笑った。彼がいなくなって動かなくなっていた感情が音を立てたふうに。


「あはは。知ってたら来るってことだ」

「当たり前だ」

「…………」


 そして笑い声が乾いて蒸発していった。その答えに体の底、鍵をかけて閉まっていた塊が静かに私を埋め尽くそうとする感覚が広がる。


「……そっか。そっか……。わかった。なら、1つ行きたいところがあるんだ」

「よし! もちろんいいぞ! どこだ?」


 私は指をさす。隣の星の方を。やはりここが私に彼をあきらめさせてくれない。


 いつからか中央安全区域セーフティネットと呼ばれるあのビル群に私たちは入れなくなった。重宝されていた、という先生の話は本当でビル群から来た人に見染められた街の人はあの中に行く手続きを取ることができる。そうなったらこの街では結婚式かお葬式か見分けのつかない何かで祝われる。そのは一方的な搾取なのだと彼は言っていた。

そんな記憶が頭をかすめる。目の先にビル群があるからかもしれない。男子と会話した次の日、私はビル群へ向かっていた。セーラー服のポケットに部屋のものかきこんで。体の奥の何かに気づいてしまった。全身に広がってしまった。納得したはずなのだ。体は勝手に動く。ゆっくりとした跳躍。宙に浮くたびにビル群が視界に入り、私の心を急がせる。入れないのに。会えるわけないのに。しなくていいことなのに。どうしよう。わかんない。


 教室の男子は来なかった。セーフティネットに入れなくなっただけでなく、近づくことすら禁止されてしまっている。自由な往来を求める人が集まって抗議していた場所が最終的に無法地帯になっていると講義でやっていた。セーフティネットの外ではこの話題を出す人に関わらない方がいい、という暗黙の了解みたいなのが出来上がっているから気を付けるように、とも習った。口に出してしまった私はこれからどうなるのか知らない。それでも私はビル群へ向かっている。だって彼しか知らないから。私よりほんのり暖かい体温とやさしげな目。大きい手で触れられると心から安心してしまう陽だまりのような人。いなくなったら私は何もなくなった。よくない関係と知っていても私にはあの人しかいない。嫌だ。心に気づくと世界をそれが支配してしまう。なんで私の前に現れたの。なんでもういないの。嫌だよ。



 彼が現れたのは私が10歳ぐらいになるかならないかだったと思う。そのころには義務教育が終わり、大半が次の場所へ行く時期だった。白い四角い窓のない学校みたいなところから彼に連れ出されていまの部屋に行きついた。最初の数年、彼は2、3日おきぐらいで部屋に来てくれた。来るときには楽器のお土産。それから街の中を2人で散歩する。空が青かったり黄色かったり緑だったりするのを知ったのはそのとき。義務教育とは見染められても粗相をしない程度の人生のいろはにも満たないことしか教えてくれないことを知った。彼には人生のいろはをおそらく教えてもらった。私が成長したときは体を重ねあった。そういう幸せなことを私は覚えていった。

街から出ると木も生えていない草と土だけの風景が広がっていて、そこで吹く楽器はとてもとても気持ちがよかった。吹き終わると微笑んで頭をなでてくれた。それが私の中にどんどん積もっていった。彼との時間が私の全部になっていった。1人のときは彼が部屋に残していった服、下着、パーソナルインターフェース、みんなをかき集めて一緒に過ごした。食事は彼と一緒に作った。黒焦げから始まって、舌鼓を打つぐらいまでになった。最初は豆粒1つしか食べられなかったのが、おなかいっぱいになるまで食べられるようになった。私が成長していくのが彼はとてもうれしいようだった。


 あるとき、彼の家族の写真を見つけ、自慢して彼に見せたら彼は無言で私の頭をなでた。怖かった。私は彼と自分との関係を直感で悟った。その日以来、余計なことはしないように心を動かさなくなった。それから彼が部屋を訪れることが少なくなっていった。来るといつも楽器をくれる。けどそれよりも笑ってほしかった。そのころの彼の顔はどこかいつも緊張していた。笑ってもぎこちなかった。「次来るとき」と言って彼は来なくなった。


 この草と土の大きな空き地みたいなところは、これからの夢ある舞台と街では宣伝している。それは自分たちの子どものころから、と部屋の近くのおじいさんおばあさんが笑っていた。この殺風景な場所が幸せになりようがない私みたいでちょっと親近感が湧いた。この場所の思い出は楽しいものばかりなのに今はひどく寂れてしか見えない。2人と1人では感じ方がまるで違う。それを受け入れたくなくて、何か実感が欲しくてビル群へ向かっている。


 ビル群に近づくにつれどんどん跳躍の距離が短くなってきた。1Gの見えない網が私の体に絡みついてきたみたいだ。跳べないのなら講義の古典でしか知らない走ることをしたい。1歩が重い。ビルが目の前に見える。なのに頭が上がらない。息が上がる。空気が濃い。会いたいんだ。あなたに。また大きくなったって言ってほしい。綺麗になったって言ってほしい。私もあなたに言いたいことがたくさんあるから。


 息も絶え絶え、酸素が循環しているふうには感じられない。胸が何かで詰まっている。ビル群に近づくにつれ、学校のあの磁石がついているのかと思うくらい足も上がらなくなってくる。上からも何かに押さえつけられているみたいに感じる。汗を尋常じゃないくらいかいている。

必死に力を振り絞ってビル群の方へ歩いていくと、急に切りたった地形になった。水の上にビル群は立っていた。反り立って見える彩度の低いコンクリートの塊が私を拒絶している。街から伸びてきたビル群への道は橋でビル群側とつながっている。道路には行けない。何が起こるかわからない。彼に迷惑がかかる。じゃあ、私は何しにきたのだ? 会うつもりがないならここから落ちて死ねばいい。ビル群の見学なんてバカみたいなことはしたくない。


 ふと周りを見る。街を出たときからずっと同じ。人の気配がしない。逆に虫やら動物やらの気配はいつもに増して感じる。鳥に見られている。何かほかに大きなものがいる。ここでは人が弱者なのかもしれないと直感する。講義の「ビル群の周りは無法地帯」とは私たちだけでなくという意味だったのかもしれない。ここまで来てそんなことはどうでもいい。エサになってもいい。彼がいる、いた、実感を私は欲しい。彼に褒めてもらいたい。


 ポケットから最後にもらったハーモニカを出す。部屋から持ち出せるのはこれと鍵ぐらいだった。だから本当は決めていた。これぐらいしか考えつかなかった。無意味すぎて後悔するのは目に見えている。息も落ち着かない。肩は重い。甘く濃い空気をたんまりと吸う。胸焼けしそうだ。

それでも、これがたったひとつの私のあなたの見つけ方。


 音には色がある。リコーダーは白に近いグレー。クラリネットは青み掛かったクリーム色。ハーモニカは黄色。黄金に近い西日の色。

褒めてもらった日もそんな色で包まれていた。最初に吹いたり聞いたりしたイメージにいろんな色が混ざって固まっていく。そんな音の色が好きだった。その色を思い出すと自然に彼のことも思い出せる。思い出せるから吹きたくなかった。ふいにその音を入れたくなかった。学校からはすぐに帰りたかった。大切に大切に自分だけの世界に浸かって聞きたかった。音は自分を映すものだ。一番きれいな自分を見てもらいたい。


 音はあの褒められた以上に綺麗に伸び、美しく鮮やかに聞こえた。周りの自然もさっきの気配はなく一緒に歌ってくれているみたいだ。音色の終わりまで意識が保っていられるかわからないけど、最後の一息まで今は私の世界に浸かってしまおう。それがこのハーモニカと彼への感謝の気持ち。不意にそう思った。


 夢を見た。彼の膝まくらで寝ている夢。丁寧にやさしく私の髪を触っている。少しくすぐったい。彼の心臓の音が一定のリズムで鳴っている。心地よくていつまでもこのままでいたい気持ちになる。君は成功したんだ、よく成長したねと言ってくれた気がする。ごめん、まだ部屋にいなくちゃいけない。次来るときまた渡すよ。そんな子どもだましみたいなことを言ったので私は頬を膨らました。それが心地よかった。


 学校に登校しても近所を歩いても私のことをとやかく言う人は誰もいなかった。講義で習ったことは本当なのかいまいちよくわからない。あのビル群へ行ったことも朧気で、夢の中の出来事だったのかもしれないと思い始めている。だから他人にとやかく言われていないのかもしれない。

教室では男子が私の前に来なくなった。他の人と朗らかに話している。私は席から窓の外へ顔を向け、たまに当たるものを見てはそれと友達になった気分になって不思議と穏やかな気持ちになる。

行ったことは朧気なのにあの日以来、自由に生きても誰かが見守ってくれている安心が芽生えたのだ。それは彼にまだ部屋にいなくちゃいけないと言われたことと次来ると言われたことを養分に健やかに育っている。夢の中であったとしても、また会えると言われたのだから、うれしいことこの上ない。こんな眉唾物を信じられるのは彼のことをまだあきらめなくていいという動かしがたい真理のような直感が私を包んでくれているからだ。

また、彼に褒めてもらえるように家にある楽器の練習をしよう。重力の薄いこの街に倣ったように私の心はゆったりふわふわ浮いている。

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