第6話 紫煙

 夜も更けた。

 ケニーは本部の外に出て、さっそく煙草に火を点けた。ベランダで吸うと、隣のパウラがうるさいのだ。最近は喫煙者に風当たりが強い。生きづらい世の中になったものだ。健康に悪いことは重々承知である。でもやめようとしてやめられるもんじゃないんよな、とケニーは煙を吐き出した。

 裏通りには怪しげな店が並ぶ。ケニーはこういう店に入るのが好きである。カフェというには薄暗い、でもいかがわしいわけではない、そんな店。いつも通りそのうちの一軒に滑り込んで、通りに面した席に座る。ウェイターが水をテーブルに置く。数少ない喫煙可能な店の片隅で、ケニーはもう一度煙を吐いた。前に女が座った。黒い髪に真っ赤な口紅、長い指の間にラークを挟んでいる。しどけなく崩れたワンピースの襟元から白い肌が覗いていた。


「あんたもよく飽きないね、お堅い仕事させられて夜遅くまで……あたし?ジンでいいよ」

「お兄さん、ジンとウイスキー一つずつ。……酔ってええんか」

「今日はあんたが来るから店じまい」


 酒を運んできたウェイターにありがと、と柔らかく声をかけて、リアーヌはケニーを改めて見つめた。吸い込まれそうな黒い瞳がケニーを射抜く。


「まだ吸ってんのね、それ。煙の匂いでわかるんだから、煙草の種類くらい」

「ラークやなくて悪かったな、中じゃよう吸わんから減らないんよ。リアは吸っててもええの?仕事は」

「駄目、らしいんだけど、知らない。文句言われたことないから」


 彼女は昔からこうだった、とケニーは思い出した。昔、一緒に地下街で暴れまわっていたころもこうだった。どこかすれたような、でもまっすぐな、生き方を曲げない人だ。片思いは知られぬように、ケニーは目をつむってウイスキーを一口飲んだ。

 あたしのことリアって呼ぶのあんただけだよ、とリアーヌはふらりと笑った。グラスから氷の音がする。ケニーは目をそらして、そうか、とだけ言った。


「大抵の客は名前なんて呼ばないものね、ただ自分のしたいようにして終わり。こっちも薄汚い野郎に名前呼ばれるのなんて御免だけどね」


 それで食べていけてるわけだしねえ、文句ばかり言うのもお門違いだけど、と言ってリアーヌは煙を吐き出す。ケニーは心底この女神を連れて帰りたくなったが、それを彼女が望まないことも分かっていた。世間話の種もないので、二人は黙り込んでしまった。


「他の仕事のツテは?」

「あったもんじゃない。あったとして、元娼婦じゃどこも願い下げだし、願い下げにするようなところはこっちから願い下げ」


 ああ、この人を連れていけたら!ケニーはそう思っていることをおくびにも出さずに、そうか、とだけ言った。周囲からの視線がある。なんでそんな女がこの時間に表にいるんだ、という視線。つい先月、この席でリアーヌは、冷やかしてきた隣の席の男に、あたしをその辺の半可な売女と一緒にするな、とまだ長いラークを投げていたが、今日は心が穏やかなようだ。気づいていないということはあるまい。


「あんたは遅くなるといけないんじゃないの?あたしが払っておくから」

「俺の分くらいは払わせてくれ。―泊めてくれてもええんやけど?」

「やだ、まだ泊めてやらない。この仕事辞めるまで待ってて」


 仕方なく、ケニーは酒代の分だけコインを置いて、気をつけてな、と言い残して、席を立った。後ろでからりと音を立てて氷がとけて、さよなら、というリアーヌの声が聞こえた。

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