第2話 序

深夜。

時が丑の刻を指した。

その折。


夜の静けさを破る凛とした声が声高に唱い出す。


「天言信奉(てんげんしんぽう)、急急如律!(きゅうきゅうにょりつ)

久世新埜の名において命ず!

契るは犬神、名を天慶!(てんぎょう)」


朗々と言葉を紡ぐは、白い狩衣をまとって目を閉じた、一人の少年。


「いざ参る、喚!」


かっと目を見開いた少年は、手をパン、と叩き合わせざっと足を肩幅に開いて、その詞を言い切った。


刹那…。


少年の体は、気配ごとぶわりと膨らんだ。

それに伴ってほどなく、少年の姿に陽炎のようなものが重なって、現れ始めた。

それはよく見れば、獣の姿によく似ている。


『お呼びか、新埜殿』


陽炎のような獣は、少年にしかわからぬ声でそう言い、その身をゆらりとくゆらせた。


「うん。ここらに、そろそろ荒神(あらがみ)が降りる頃だから。降りたら、そいつを追ってほしいんだ」


『荒神…承知した』


陽炎の獣は、徐々にその姿を銀の毛に包まれた一頭の獣として明確にしながら、厳かな声を以て了承をすると、ちらと少年を顧みた。


『ついて来られよ』


「ん。頼む」


少年は、地に寝かせていた錫杖を、じゃらりと鳴らしながら手にとって、己の傍らで宙に浮いた獣にそう応えると、油断なく辺りに気を配って、ふと表情を変えた。


「天慶…」


『御意』


獣が少年に応えたのは、既に標的に向けて空高く跳んでからのこと。


ぴりりと張り詰めた空気、その高みの向こう。


何かが、動いた…。


そして。


『ギャイィン!』


空の高みで、鋭い悲鳴があがった次いで、今度は、少年に向けてあの獣の声が降ってきた。


『来られよ、新埜殿!』


その声を聞くか否か。

少年は己の勘が赴くままに、走り出した。

走りながら少年は、己の内側に向かって強く呼びかける。


「勝呂…行くよ」


目を閉じた一瞬。


『よしきたぁ!行くぜ!』


次に開いたその眼は。

驚くかな、闇の中で、赤く赤く輝いていた。


『っしゃあ!』


その姿こそ変わらないが。

先ほどまでの少年の声色、表情、口調から始まり、走るその速さ、動き、その全てはまるで別人。

少年は、驚くほど人間離れしてしまっていた。


『おらぁ!行くぜ!!』


走りながら、だんっ、と地面を蹴った足が着地するは、人家を囲む、足場の悪い塀の上。

そしてまた、その四肢が宙を舞えば、次に着地した場所は、人家の瓦屋根の上。


『っへへ、ちょろいぜ』


異形並みの変化を見せつけた少年は、尋常からぬスピードで夜の闇を渡り歩きながら、屋根から屋根を跳ぶ。


ー勝呂よ、そんなに坊を無理はおさせでないよー


そんな少年の内側より聞こえてきた声に、少年は不敵に笑う。


『安心しろよババァ。さぁらの体のことは俺が一番わかってるからな』


ーならばよいが…ー


と言いかけた声は、また別の声に遮られた。


ー何をふざけたことぬかしてんねん阿呆ぉ。こないだ、さらちゃんを全身筋肉痛さしたんはどこのどいつやっちゅうねんコラ!ー


やたら不機嫌なその声に、少年はにぃと笑った。

また一つ屋根を渡りながら。


『ごちゃごちゃうるせぇんだよ須皇。五体満足なら問題ねぇだろ』


ーんなわけあるかい!ー


との声を無視して、少年はまた跳ぶ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る