第30話

春の季節というのは足早に去っていくものだ。

心地がいい季節だと私は思うけれど、スギ花粉アレルギーの兄は春が一番嫌いだと言っていた。髪を遊ぶ風の暖かさや静かな時間がとても好きなのに、と伝えても花粉症ではない私が兄の辛さをわからないように、兄も春の穏やかさを知ることはない。


だからこそ自分の中で一番大切にして生きてきた。


日本での春はものの始まりで、新しい学期、新しい学年、年の始まりになってきた。不安と期待が混じり合った季節。春の風よ、行かないで欲しいと何度も願ってきた。


どうしてだろうとも思っていた。


「坂口、春人…」

「田口さん、坂口さんと一緒にいるところを一度だけ、見たことがあるから」


小学生時代、私はずっと一人を選んで過ごしていた。

それは高学年になった後もそうだった。馴れ合うことを恐れ、一人でいることを好み、クラスメイトと距離を置いた。そんな私が誰かと一緒にいるのを見られるのはあの春しかない。


「あの、彼は…貴方の高校の先輩だったの?」

「先輩だったよ。でも、本来なら卒業してる年だったんだ。成績は良かったんだけど、出席日数が足りなくて…留年したんだって笑ってた」


想像ができなかった。なんでも完璧にこなす彼が留年。

記憶の中で笑う彼の輝きは随分前に褪せてしまっていた。だけど、未だ覚えている彼への憧れ。


「どうしても教室にいるのが嫌なんだって言ってた」

「そう…」


だけど、不思議なことに教室にいるよりもサボっている彼の方が想像しやすかった。おかしいことだろうか。いや、おかしくはない。春の季節よりもずっと短いあの時間を私達は共有したのだから。


「教室が嫌いなのに小学校の教師を目指してるんだって言ってた」

「え」

「いつの日か、過ごした学校に静かな教室を作りたいんだって」


吸い込んだ肺に満たされる空気は冷たく、愛しい春はまだまだ先だと出した息が白く歌った。やがて来る春はどんな歌を紡ぐだろうか。


「その時に、同じ小学校だったことを知ったんだ。それで、俺と同い年の女の子がいたって話を聞いて……すぐに田口さんだってわかった」


不思議な話だ。自分のいないところで彼は生きていた。

生きていることが不思議だったわけじゃない。だけど自然とそう思う。


「坂口さんはいつも言ってたんだ。田口さんのような人になりたいって」

「私?」

「そう。なんていうか、いつも抽象的だなと思って聞いてたけど「暗闇に光を与えてくれる人」って」


幼い頃の私は彼といる時間だけ、別人のように自由を感じていた。それは強い太陽の光でできた影をつきが照らしてくれていたから。

じゃあ、不思議な話をするけれど、彼を誰が照らしていたのだろう、なんて、今なら疑問に思う。私が彼を照らしていた…?


私は右手に持っていた水色の封筒を見つめた。

結局、忘れられないから。求めていたから、私はここに来たんだろう。

たった一文に何かがあると信じて。会えるとどこかで期待して。


「坂口さん、ここで小学校教師をしてたんだ」

「…して、た?」

「でも、あの日……いや、それは…俺の口から聞くよりも…」

「ねぇ、どういうこと?」

「坂口さんの家は知ってる?」

「うん…なんと、なく」

「坂口さんのお父さんはまだそこで暮らしているから、坂口さんの居場所を聞いた方がいい。夕方くらいならいるはずだから。わからなければ住所を教え…」


チャイムの音が鳴った。教室が彼を呼んでいる。


「…ごめん、行かなきゃ」

「大丈夫。わからなかったらまた会いにくるね」

「うん」


彼はここで小学校の教師をしていた。だけど、辞めざるを得ない理由ができた。


「どうして、私にこの封筒を送ったんだろう」


桜の木がまだ生えていたら、わかっただろうか。


……。


教室の音がやたらと近くに聞こえる。聴き慣れたクラスメイトたちの声が元気に返事をしていた。私達はその隣にある階段を忍者のように音も立てず登って行った。三年生教室の隣にある階段を登ったその先に目的の場所があったから。


「ついた…!」

「うわぁ…広い!空が近いね!」

「うん。近いね…!今日はいい天気だ」

「見て!他の家より今、高いところにいるよ」

「うん、そうだね」


屋上は広々としていて舞い込む風が私の髪を右に左に揺らした。耳をすませば聞こえる教室の音はいつもより近く、校舎裏とは違って太陽の光が強く感じられる場所だった。


「…私達、空を飛んでるみたい」


いつもより近い雲が私を呼んでいる。


「見て、あの雲、ドラゴンみたいだ」

「じゃあ、あれはドラゴンと戦う騎士みたい!」


真っ白な鱗を持つドラゴンが凍てつくような氷のブレスを吐いた。鋭く尖る爪は大地を削り、空にさえ傷をつける。睨みつけた瞳もまた白く、ダイヤモンドのように輝いていた。


「もし、俺たちがドラゴンになったら、一緒に寝て、同じ空を飛んで、同じ瞳を持とう」

「同じ色のドラゴンだといいね」

「違う色のドラゴンでも構わない。一緒なら」

「…うん!」


多くの人々は人に憧れる。白馬の王子様が迎えに来る呪われし姫君、伝説の聖剣に選ばれた勇者、古代の魔法を操る魔導師、人の物を盗む怪盗だって憧れのなかにいた。

ドラゴンになりたいなんて親に言ったらどんな顔をされるだろうか。きっともっと違うものがあるだろうと叱責されるに違いない。それは私達がドラゴンになれることは永遠にないからだ。

幻想に憧れを抱くのは罪なのだろうか。


「…幸せってさ」

「うん」

「きっと、こうした静かな時間だと思うよ」


世界は私達二人を中心に回っていた。地球も、太陽も。

地動説は信じてる。だけどそういうことじゃない。


「空が黄色くなっても、緑になっても、こうだったら素敵だね」

「一緒なら、きっと」


世界が終わるときは突然で、恐竜たちは星の瞬きのように死んでいった。私達人間の終わりも同じかもしれない。明日地球が爆発しても、隕石が降ってきても、なんらおかしくない場所にいる。

生きている星の上にいるのだから、仕方のないことで…。


だけど、星の終わりが来ても隣に貴方がいるのならそれを幸せと呼びたい。

そう願うのはおかしなことだろうか。


「ねぇ、ルーノ」

「ん?」

「空って青いね」

「うん…」


男女でいるとき、人は恋という言葉を出してくる。

違うといえば友達なのかと聞かれる。

でも、そんな言葉でまとめてほしくない。


空はこんなにも青いのに、人の感情で汚れてしまうなら、いっそこの関係に名前をつけたくない。

排気ガスで濁った空を美しいと思うこと、それが幼い私には難しかったから。

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