第29話

「田口さん!こっちこっち!」


懐かしい校門はそのままで、変わったことは大きくなった隣の席の男の子がいたこと。幼い頃は随分整った顔をしていると思っていたが、大きくなって顔が縦長に伸びたらしい。こうして見ると、随分普通の男性になってしまったと思ったが、昔より今の方が笑っている顔は素敵だと思う。


「先生に、なってたんだね」

「色々あってさ。なろうと思ったんだ。田口さんは?今の仕事は…」

「事務だよ。普通の事務」

「そっか。お互いに大変だね」


彼が着ている灰色のジャージ、裾は泥で汚れている。


「どうして、先生に?」


正直、子供の頃の彼を知っていたら、先生になるなて馬鹿げてると思う。嫌味で、悪口ばかり言っていたのを知っているし、正直言って、模範的な先生像と彼のイメージはかけ離れている。


「……話聞いてくれる?」

「…いいよ」


私の返事に彼は嬉しそうに笑った。手短に話すよなんて言いながら。


「俺さ、高校生の時に親が離婚して東京に引っ越して。シングルマザーの家だって虐められたんだ。小学校の頃はモテてたけど、高校の時は全然でさ。人の悪口いうより言われる方が多くて…その頃、よく田口さんのことを思い出したよ。俺にされていることと田口さんにみんながしていたことは全く同じだった。俺は立ち上がれないほどメンタルボロボロだったのに、田口さんは学校に来てたなって」


彼は校門前にあるスロープの手すりに腰をかけた。私も隣に座る。


「田口さんがよく授業を抜け出して何処かに行くのを俺たちは責めてたけど、高校生になった俺も授業中に抜け出したんだ。すごく心臓がドキドキして、怒られるんじゃないかってヒヤヒヤしてた」


通り抜ける風はどこまでも冷たくて、誰もいない廊下の角から足音がするたびに隠れる場所を探す。教室に戻るのは嫌だけど、その場に立っているのも嫌で、ルールを犯している背徳感が重い足枷のよう。


その感覚を彼も知ったのだろうか。


「先生は気付いてくれなくて、授業の終わりを鐘が告げても誰も俺を探しになんて来てくれない。…その辛さがどれだけ苦しいものなのか、あの時、初めて知ったよ」


彼は空を見上げた。つられて私も空を見上げる。空に浮かんだ雲が形を変えては風に流され、空の向こうへ飛んでいく。


「ある日、美術室に逃げ込んだんだ。そうしたら授業中なのに真剣に絵を描いている人がいて。それをジッと見ていたら、彼と目があったんだ。サボってるのか?って聞かれたからうん、と答えたら同士だねって」


私は彼の方を見た。彼は大空に誰を見ているのだろうか。


「たった1日の出来事なのに世界が変わった気がした」


それはまるであの日の…。


「坂口春人。田口さんも知ってるだろ?三つ上の…」


霧がかかった記憶の隙間に一筋の光が差し込む。


青色の名札に書かれていた文字。

絶対に呼ぶことはなかったのその名前を私はまだ覚えていたようだ。



……。


「おはよう、ルーナ」

「おはよう、ルーノ」


もう校門前で見張る先生はいなかった。私達は裏校門前にランドセルを置き、当たり前のように桜の木にもたれかかる。別れた昨日から今日の朝まで流れる時間がスローモーションのように感じた。

眠れば朝が来ることをわかっていても、本当に明日が来るのかが不安でどうしても眠れなかった。


「今日は屋上に行こう」

「屋上?」

「そう、三年生教室の横を通って、屋上に」

「行きたい!」

「それにはまず、授業が始まるのを待たなきゃね」

「じゃあ、それまでに別の世界に行こうよ!」

「賛成!」


黒い夜空の先に飛ぶ鳥の群れ。黄色、赤、それに青、白、ピンク。キラキラと舞う羽達を大きな布を広げて集めた。ラメを塗ったようにキラキラと輝く羽もあれば、ガラスのように透き通った羽もある。

真っ白な布をいっぱいに広げて集めたら、それを纏めて袋にする。


運んでいるのは小人達だ。彼らの帽子もまた羽のように色鮮やかで、赤い帽子をかぶった小人が先導して立つ。ピンクの帽子の小人が重たいとため息を吐いた。黄色の帽子の小人はそれも嬉しそうに見て笑っている。


苔むした石の橋を渡り、オークの木を左に、ラベンダー畑も通り越したそのさきの丘に小さな小さな家がいくつもあった。赤い夜明けを超えた先、小人達の村だ。


袋いっぱいに詰めた羽を一枚ずつ取ると、今度は色毎に分け始めた。


「このピンクはキラキラしてない!」

「ほら見ろ色が違うじゃないか!」

「ちゃぁんと同じ色で分けてくれ。そこ、喧嘩しないでくれよ」

「これは同じ色か?」

「違うかもしれない」


分けられた羽を今度は別の小人が反物にする。


トントンタタタトンタタタ


村中に刻みのいい音が鳴り響く。魔法の機織り機は羽を入れるだけで糸へと変わり、美しい布を生み出した。


「ねぇ、ルーノ」

「ん?」

「小人達は何のために布を織ってるんだろう」

「神様への貢物、とかかなぁ」

「そっかぁ」


昨日行った社にお供え物はない。蜘蛛の糸が張り巡らされた賽銭箱だけ。


「神さまって、忘れられたらどうなるんだろう」

「え?」

「だって、神さまって忘れられたらどこに行っちゃうの?」


形あるものはいつか必ず崩れる。それは命ある人間もそうで、いつか私達は滅びを迎える。それは今立っているこの地球も例外ではない。

そうしたとき、一体誰が神様を覚えているのだろうか。神様も同じく滅ぶのだろうか。


「…神様は、忘れられないように必死なのかもしれないね」

「え?」

「だから災害が起こるし、人は死ぬんだよ」


神様は、私達の想像以上に酷い人なのかもしれない。平等に誰かを愛することはなく、お気に入りが存在して、この世界に主役を作っている可能性だってある。私たちが神様に向かって手を伸ばすことを嘲笑い、気まぐれに命の線を切り落とすのかもしれない。


「神さまは、意外と人間と同じなのかもしれないね」

「え?」

「私が神さまになっても同じになったかもしれないでしょ」


だって、私、他の人が不幸になってもルーノには幸せでいて欲しいって思うもん、なんて。彼も察したのかちょっとだけ笑って俯いた。体育座りの膝に顔を埋めて、小さくため息を吐く。


「俺も神様もルーナも同じなのかな」

「きっと同じだよ」

「この世界が簡単に変わらないわけだ」


人間の欲深さと神様の欲は違うのかもしれない。だけど、イエスキリストのように人に手を差し伸べられる神は人の手によって断罪される。なら、欲深い方がきっと賢い。

人のために祈るより、己のために祈った方がよっぽど正しいのだ。


「私ね、お願い事をしたの」

「昨日?」

「そう、ちっちゃな神社に。でも、きっと自分のために祈ってたのかも」


憎き者のために祈れと神様は言うけれど、きっとどう祈っても必ず来る己の幸せのためにしか祈れない。そういう生き物だから、人間は弱肉強食の鎖を断ち切ったのだろうか。


「いいんだよ。きっとそれで」


私も彼を真似て膝に顔を埋めた。暗い暗い世界で一瞬見えた光を永遠に追うことができたらいいのに、なんて。

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