第28話
なぎさ、と言う言葉がある。波打ち際のことだ。
釘で打ったように平らなその場所はまるで海と陸を隔てる柵のように見えたことがある。人間は海を泳ぐことができるけれど、魚のように生活することはできない。それと同じで魚が二本足で陸を歩くこともできない。私達は海からやってきた。だけど海に戻ることはできない。
なぎさは陸と海の境、見えない柵だ。なら、見えている柵は柵と呼べるのだろうか。
私は裏校門に手を伸ばした。変わっていないデザインは相変わらず奇抜で、見上げていたそれと今は、あまり背が変わらないことを知った。胸の奥を貫く刃が私の鼓動を切り刻み呼吸をするのさえ忘れさせる。
もうそちら側に行くことを私はできない。
「せんせー!こっち!」
「あれ?だれかみてる」
あの頃は立ち入り禁止にされていたのに、今は生徒たちに解放されているのだろう。子供たちが校舎からワラワラとやって来た。私はハッとして手を離す。目を逸らした。だけど、私を呼ぶ声。
「あれ?田口さん?」
「え…」
檻のように遮る鉄柵の向こう、子供たちに手を引かれてやって来た青年が笑う。
「クールなとこ、変わってないんだね」
僅かな記憶から思い出す。隣の席だった男の子。
「え、っと…」
「せんせーのおともだち?」
「そう。先生のお友達。お花に水をやるの、任せてもいいかな?」
「はーい!!」
名前も覚えていない彼が私の苗字を呼ぶ。
「田口さん!校門まで来れる?ここの門は開けられなくてさ」
ニヤリと笑う嫌味な顔が特徴的だったのに人はどう生きればこんな太陽のように真っ直ぐ笑うことができるようにだろうか。それとも、ただ過去の私が捻くれていただけだろうか。
「いや、でも、部外者だし」
「大丈夫!ラッキーなことに次の授業は休みなんだ。ちょっとだけなら話せるし、田口さんならいつか来るって思ってたから」
「え?」
「とにかく、校門!行ってね!」
彼は走って行ってしまう。私は呆然とただ彼の方に手を伸ばし、引き留めようとして言葉を失った。今日ここに来たのは別にクラスメイトのことを思い出そうとしてたわけじゃない。
正直な話、仲が良かったわけでもないクラスメイトと昔の話をするのはとても勇気がいる。いい思い出だけじゃなかったかし、私にも悪いところがたくさんあった。どう思われていたかなんて容易に想像がつく。それを聞くのは包丁で腹を裂くより痛いことだろう。
だけど、もし、彼もここにいたならなんて言っただろうか。
「大丈夫。ルーナ。俺がついてるよ」
私は息を吸い込んで吐き出した。記憶の片隅にいたはずの彼の声は涙が出そうになる程、鮮明に。
私は校門まで駆けた。水色の封筒を片手に。
……。
「ルーナ。街を探索しよう」
「え?」
「大丈夫。不思議な道を知ってるんだ」
彼は私の手を取ると玄関まで引っ張った。足に当たった口紅がカランと軽い音を立てて転がって行く。不安がないわけじゃなかったが、不思議と彼となら大丈夫だと思ってしまう。本当に不思議な力だ。魔法のよう。
「小さな社があるの知らないでしょ」
「え!そんなものがあるの!?」
「ね、昔から住んでる人しか知らないんだって」
「どうしてルーノは知ってるの?」
「へへへ、秘密があるのさ」
彼が笑うと暗い世界に光が灯るような感覚に陥る。灰色のキャンバスに色を塗るような温かな光。
温かいというと大抵の人は太陽の光を連想させる。だけど、私達は月だった。真っ暗な夜を照らす星。月を見て温かいと言える人はどれくらいいるのだろうか。その星に温かさを望む人は私達だけだろうか。
「いい?俺の家から右に曲がって」
手を繋ぐのはもう当たり前になっていた。小さな妹の面倒を見るように彼は私に歩幅を合わせてくれる。残念なことに血の繋がった兄はそうではなかった。だからたったひとつの出来事が私に手から溢れるほどの幸せを与えてくれる。
私が心の中で何度も彼にお礼を言ってることを彼は気付いてくれているだろうか。
やがて大きな家が見えてきた。壁を埋め尽くすほどの植木鉢から花があふれ、まるで一面花畑のよう。その入り口に置かれたライオンの顔。
「うわぁ、ガオーって言ってる」
「口の中に手を入れられそうだね」
「嘘をついてると食べられちゃうかも」
「あ、真実の口だ」
「そう!ローマの教会にある海の神様の顔!」
「じゃあ、このライオンも海の守護者なのかもね」
「海の?」
「前に描いたキマイラがいただろ?ライオンの顔にヤギの体、蛇の尻尾」
「うん」
「あれも、怪物って言われてるけど元は聖獣なんだ」
「そうなの!?」
「知らなかっただろ?」
「うん!」
「だから海にライオンがいたって面白いだろうね」
「海にいたら体は魚かもしれない」
「いいね。ヒレもあったかも」
「えら呼吸かな」
「海の上を歩いてたって神秘的かも」
教えてないことを知っているのはおかしいと先生に言われたことがある。教科書の内容を熟知して、先の方程式を使ってはいけないし、先回りして句読点をうつことも怒られた。
教わったことを反芻すること、それだけが正しい。
知らないことを教えると子供たちからは偉そうだと馬鹿にされた。
だから知っている範囲内で色んな妄想をすると今度は大人たちから馬鹿にされた。そんな世界はありえないって。全ての人たちから否定されて、それがいつしか世界から否定されているような感覚になった。
私達の世界には見えない鎖があって、きっとみんなそれに縛られている。無知は最大の罪だと祖母がよく嘆いていたけれど、きっとみんなその鎖の名前すら知らない。
私達は彼らより自由なのだろうか?それとも、また別の鎖に囚われているのだろうか。私達は誰よりも自由だとライオンの口に手を放り込めば、そのまま手を噛みちぎられてしまうかもしれない。
「覚えておいてね。このライオンの像を左に曲がるんだ」
例えば海を歩いているライオンがこの地球にいなくても遠いどこかの星にはいるかもしれないし、遥か未来の先で進化したライオンが海を歩けるようなっているかもしれない。
妄言だと、嘘だと他の人から言われても未来を知っている神様なら嘘じゃないと言ってくれるかもしれない。だって私達は大きなこの世界の全てを知らないのだから。
ありえない世界じゃないと笑って聞いてくれる人がどれだけ存在するだろうか。きっとこの世界にはルーノと私しかいない。
「あの踊ってる人みたいな木を左に曲がると…」
何度も曲がった先にあるその世界はまるで夜のように真っ暗な世界だった。家々の壁に挟まれて気をつけていなければ見えない暗くて狭い階段。見上げた先にいた黒猫がにゃあと鳴いた。
「この奥にあるんだ」
「なんだか、暗いね」
「でも、とっても素敵な場所だよ。誰もいなくて、静かで、素敵なんだ」
「ルーノがいうなら、きっとそうなんだね」
「信じてくれる?」
「信じるよ」
彼が嬉しそうに笑う。私もつられて笑った。
人は人を全て理解することは難しい。何故なら、同じ人間じゃないからだ。同じ環境で育っても兄と私が全く違っているように、きっとよく見ればルーノと私も違っているのだろう。だけど、それを色で例えることができるのなら、私達は同じ系統の色だ。
もし世界中を赤が覆っても、私達は対極の青にいる。彼は深い海の青で、私は澄んだ空の青。きっとそれは絵具のように混ざることはなく、ずっと離れた場所にいる。
だけど私達は手を繋いだらきっと線が消えたように混ざり合う。水平線の向こうにある空と海のように。
階段を一段ずつ登った。しっかりと。大人が登るように設計してあるから、一段一段が高くて、とてもじゃないけど楽ではない。やがて最上段に近づくと、見ていた黒猫がぴょんと飛び跳ねて奥に隠れた。やはりそこも影に隠れて暗い。
だけど、埃をかぶった小さな社の存在が異世界を思わせて、好奇心を煽った。
「うわぁ。かわいい。ちっちゃい!」
「ここでさ、手を合わせるの好きなんだ。大きな神社は沢山の人の願いを叶えるので大変だろ?ここだったら、すぐに願いが届きそうで」
「そうだね。きっとすぐに届くね」
本当は、きっと神様に私達の声なんて届かない。祈っても願っても泣いたって、世界がガラリと変わることはなかった。きっと私達が祈っても祈らなくても同じ明日がやってくる。
だけど、神様が彼と出会う運命にしてくれたから、私は幸せを知った。だから、神様のために今日は祈ろう。
世界に平和が訪れますように。神様が安心して見れる世界でありますように。
段々と日が傾いてきた。
「ルーナ。見ててごらん」
「え?」
路地裏の家々の隙間に押し込められたその場所に光が差す。登ってきた階段の途中、扉のように。
「俺はこの扉からやってきたんだ」
「え?」
「月が眩しい時にもここに扉は現れてね」
「うん」
「ここからバッて飛び出たんだ」
「じゃあ、ここから月が二つある世界に行ける?」
「そう!だから、本当に、本当に辛い時、ルーナもこの扉をくぐってきてごらん。絶対そこに俺はいるから」
「うん」
約束ね、とは言わなかった。だって離れることは想像できなかったから。
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