第26話


常識から逃れるというのは大きくなればなるほど難しくなる。

それでも、なぜ、どうしてというフィルターを通さなければならないと思うのだ。


世界は滑稽で醜くて、だからこそ美しい。

ピカソが描いた世界は歪に見えるが、その絵を忘れることはできないように。

真実はひとつだが、答えがひとつであるわけじゃない。


1+1の答えが2であるということだけが正解ではないように。



「…着いた…」


高校になったとき、祖母が亡くなったことをきっかけに私は海外へ留学をした。祖母と過ごした世界にいるとどうしても思い出して苦しくなったからだ。

毎朝、聞こえる母の泣き声から逃げ出したかったのかもしれない。


初めて訪れた外国はあまりにも静かだった。

ホームステイ先の家の中からショッピングモールや街に至る全てが日本と違っていた。世界に否定されていると思って生きてきた私の価値観を変えるほどに、地球は広かったのだ


最近では音が苦手な人のためにBGMが全くない静かなスーパーというものが存在するらしい。除夜の鐘に苦言するよりよっぽど有意義な世界だと私は思う。


そんな世界で半年生きた私は元の日本が耐えられず、うるさい都会からほんの少しだけ静かな田舎へと引っ越しをした。

だから、生まれ育った故郷に戻ってくるのはずいぶん、久しぶりだった。


「…本当に、ここが…」


暮らしていた時はあんなにも恐ろしい場所だと思っていたのに、時が経ったからだろうか。古ぼけた看板や未だ残る昭和の街並みに幼い頃に植え付けられた恐怖が消えていくのを感じた。


「なんだ……怖く、ないじゃん」


駅から一歩、二歩と進んだ。目的の場所は学校だ。

前日に電話をかけている。約束の時間までには着かなくてはならない、のに。


相変わらずその街はうるさくて、時折人の怒鳴り声が聞こえてきた。

パトカーの音は頻繁になるし、オシャレな喫茶店だってない。

だけど、空いていたパズルの穴を埋めていくように、恐怖で塗りつぶした色が落ちていくように世界は平和だった。思っていたよりもずっと。


「ルーノ、貴方はこの景色を私に見せたかったの?」


水色の封筒は返事を返してくれない。



……


灼熱の太陽が痛いほどに降り注ぐ砂漠の上。

ラクダの背に乗りゆったりと横断する商人達の足跡は風と共に消えていく。

風の波に沿って形を変え、同じ光景を作ることはない。


赤黒い蠍達が蠢く世界で生と死は隣り合わせだった。


黒と白のように対極の存在として扱われる生と死だが、実際は真反対にいるわけではない。二つは寄り添うように共にいる。


ゆったりと動く砂の中に息を潜め、死は貴方の側にいる。


「砂漠の砂ってさ、黄色い落ち葉を集めて砕いたみたいに見えない?」

「じゃあ、枯れた木々の跡なのかな」

「木が生えていた時代なんてあったのかな」

「わかんない。でも、どうしてそこは砂漠になっちゃったんだろう」


砂時計の砂をひっくり返したように積もる砂漠の砂。

まるで空から砂が落ちてきたように。


「あ!月から砂がおちてきたんだよ!」

「月から?」

「月でね、工事があったから、きっとその砂がおちてきちゃったんだよ」

「じゃあ、砂漠の砂は月の砂なんだ」

「そうだよ。だからあんなに真っ黄色なの」

「いいね。好きだなそういうの」


月から零れ落ちてきた砂は零れ落ちた星屑のように、ガラスの破片のように輝いている。その瞬間、月と地球は砂時計のような関係になるのだ。


何れ来る終わりまで時を刻むように。


「宝石のようにキラキラしてるの」

「砂漠はきっと、太陽の光を受けると月のように輝くんだろうな」

「夜の砂漠は危なくて、寒いって聞くけど、いつか行ってみたいなぁ」

「エジプトの王も砂漠に国を作るわけだ」


空の闇を照らす星々の光は、何億年も前の光だという。

その星は滅んでいるのだろうか、それともまだ生きているのだろうか。100年程度しか生きることができない私達が手を伸ばすには遠すぎるのかもしれない。それでも人は美しいと手を伸ばすのだ。届かないのに。


「月に神様がいると思ったことはないけどさ」

「うん」

「そういう考えは嫌いじゃないんだ」

「うん、わかる」

「だって、不思議だろ?あんなにも綺麗な星がこんなにも近くにあるのに、ただの岩の塊なんて。惑星にも満たない小さな星だなんて」


宇宙から見た地球は恐ろしいほどに小さい。

その衛星である月なんて存在しているのが不思議なほどにもっと小さいのだ。

だけど、地球から見上げた月はとても大きく、何よりも美しい。


ダイヤモンドのように淡い白い光を放って。


月光が照らす砂漠の砂に埋もれた宮殿。

月が隠してしまった太古の人々の世界。


朱い夕日が沈んでいく。空の境を越えて。

蒼白い月が昇っていく。夜の帳が降りて。


商人達が纏う鮮やかな布も夜になればただの黒になる。

月に照らされ黒く映る彼らの影はゆっくりとゆっくりと歩むのだ。


「砂漠の砂って、波模様みたい」

「海みたいに見える!」

「砂模様は波模様ってことかな」


開けた窓から吹き抜けた風が黄色のカーテンを揺らす。

それも波が踊っているようだ。


「広い砂漠を歩く私達は魚なのかも」

「じゃあサボテンは海藻?」

「月の砂でできた黄色い海だ…!」


水面を揺らすように足跡をつけて、波紋を変えるように風が泳いだ。


「私ね、思うの」

「ん?」

「月に行ったらもっと素敵な海が見れるって」


地球の海と月の海はきっと違う。

地球の常識が月の常識じゃないように。


「どんな色だろう」


アポロ11号は月に行ったけれど、私達は月の全てを知らない。

こんなにも近くにあるというのに、遠い。

私達は月に恋焦がれている。


「いつか一緒に行こう」

「うん」


砂漠のように黄色いカーテンがまた風に揺られて踊っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る