第25話

子供の頃、地獄や天国が存在することに対し疑問を抱いていた。

極楽浄土だとか、罪に裁かれるとか、死んだら全て意味がないのに、なんて。

だけど、祖母が死んだ後、宗教が存在する意味を知った。

死後の世界を信じているかと言われれば、子供の頃から変わらず信じていないだろう。それでも、祖母が天国にいることを望んだし、また会えるかもしれないという気持ちが落ちていく私を救い上げる。


もう何度もいてなれてきた線香の匂い。


「なんかでもさ」


隣で手を合わせていた兄が言った。


「涙色、なんて言い方をお前はしたけど、俺はそれ見て勿忘草わすれなぐさを思い出したよ」

「勿忘草…って、あの?」

「そう。あの春に咲く淡い青の花」

「…勿忘草色、かぁ」


花言葉は、確か3つほどあったはず。

「私を忘れないで」「誠の愛」


それから、なんだったっけ…。


「で、本当に行くの?」

「うん、会社にはしばらく休むって言っちゃったし」

「まあ、気をつけてな」

「ありがとう。いない間、家のことよろしくね」

「おぅ」


海が好きな兄の肌は黒く焼けている。それが彼の白い歯を目立たせ、にっと笑うとそこらのアイドルより負けてないんじゃないかと思う。

今の私は兄が好きだ。


「じゃあ、行ってきます」


そんな兄に見送られ、私はほんの少しだけ旅に出る。

ルーノからの封筒を片手に持って、生まれ育った街へ。


……。



「ちょっと待っててね、お茶出すから」

「水筒があるから大丈夫だよ」

「ううん、お客様にはお茶を出せって耳にタコができるくらい言われてるから」


綺麗に片付けられたその部屋の隅に化粧品が転がっている。

彼女の母親が使っている物だろうか。整頓された部屋に歪なそれが拾われることはない。


「緑茶は飲める?」

「うん、大丈夫」


狭いアパートに彼の部屋はなく、隣の和室に小さな机と本棚が置いてあった。


「ルーノ、難しい本ばっか読むんだね」

「…そうかな」

「エジプトの歴史に宇宙の本、それから辞書もある…!」

「きっとルーナも俺くらいになったら平気で読めるさ」

「そうかな?」

「そうだよ」


何度も読んですり切れた本の角は薄黒くなっているが、丁寧に扱われていることだけはよくわかる。学校や図書室の本はいつもページが折れたり表紙が曲がっていたり、帯だって無いものが多い。

きっと普通の子たちは無くても困らないのだろうけど、それすらも大事にするのが私達が持つ本への価値観だった。


「私の部屋にもね、本棚があるの。でも、お兄ちゃんと共有だから、ぐちゃぐちゃにされちゃうんだ」

「ルーナ、お兄ちゃんがいるんだ」

「うん、でも…それはただのあだ名だよ」


ルーノより歳の離れた兄は、当たり前だが私よりずっと先を走っていた。

私が文字を覚える頃に彼は算数を始めていたし、兄ができることを私ができないのは私が妹だからなんだといつも母に言われていた。

それこそ耳にタコができるくらいに。


だけど、そういった当たり前のスキルが私より遥かに優れている兄を兄として慕うことはなかった。幼い頃は仲が良かったときもあっただろうが、兄は歳を重ねるにつれ乱暴になっていき、弱い私に暴力を振るうようになった。


母はいつも家事の手伝いをしてほしいと私たちに頼んだが、兄の分も私がやらなくてはいけなかった。何故なら、殴られるから。


「俺の母さんもあだ名なんだ」

「ルーノのお母さん?」

「仕事が最優先だからって家にほとんど帰ってこなくてさ。たまに帰ってきたら偉そうに親の顔すんの。テストの点数とか、宿題やったのかとかそういうこと聞いてくる」


彼は私の前に緑茶を置いてそのまま床に座ると足を放り投げるように伸ばした。


「でも、母さんは知らないんだよ。俺がこうして学校をサボってることも、宿題を出してないことも」


彼はそれに悲嘆して泣くことはない。もう諦めているのだ。


「成績表の英字だけを、見るんでしょ?」

「…ルーナのとこも?」

「先生にはバレてたけど…たぶん、お母さん知らないんだ。最近は100点のテストすら見向きもしないよ。お兄ちゃんの40点は褒めるのに」

「なんでだろうね」

「わからない」


私も諦めていた。一縷の希望に縋ることも。


子供を産んでから初めて親になる人たちは、ゲームでいう1レベルから始まる。

ゲームのように指南役がいればいいけれど、実際の現実はそうじゃない。だから育て方を間違えるのは当たり前のことで、全てにおいて完璧であればそれこそ人間として気持ちが悪いだろう。


だから、彼の両親も私の両親も普通だ。


私たちの手や足を見ればわかるように暴力を受けて育っているわけじゃない。きっと親なりに私達を愛しているし、生きていくのにお金が必要だから働いていることもわかる。

理解したいから、何も言わずに我慢してる。愛されたいからいい子を演じてた。

でもきっと私達が間違ってる。だって、問題ばかり起こす兄はあんなにも色んな人から構ってもらっているのだから。


「私ね、ルーノ」

「うん」

「空の星屑をいっぱい集めて砂時計を作るの」

「砂時計?」

「うん。さらさらーって流れ落ちていく白い星たち」


真っ黒に染まった宇宙のなかに忽然と佇む大きなガラスの砂時計。

星が死んだ後の塵を集めた瞬きの世界。

その砂が全て落ちてしまったら、この宇宙の終わりがやってくる。


「私達はきっとこの砂がキラめくためだけに生きてるんだよ」

「その砂のために…?」

「宇宙にとって私達はすっごくちっぽけなんだもん」

「じゃあ、きっとサボってたって神様からは怒られないね」


宗教や神話の世界は死後の世界を語る。

善人には幸せを与え、悪人には罪を与える平等な世界。

罪の重さで傾いた天秤に喰われるのか、審判を受け制裁されるのか。

でもきっとそれはみんな、人間が考えた自己中心的な世界。


人は死んだら星になるというが、実際遺るのは骨だけだ。


「運命の神様、なんて言い方するけど」

「うん」

「神様はきっと、種をいただけなんだよ。それが勝手に成長して、進化して、生きているだけ」


彼の家の近くには工場があるようで、慣れない機械音や誰かを呼ぶ声が窓越しに聞こえていた。だけど、窓ガラスは閉じたままだったから鼓動の音より静かで。


「空に浮かぶ島の話をしようか」

「空に浮かぶ島…!?」

「全部機械でできてるんだ。歯車で動いていてね、同じ場所に留まることなくゆっくりと大きな機械仕掛けの羽を動かして空を飛ぶんだ」


壮大な空を優雅に飛ぶ茶色の鳥。

下から覗き込むと噛み合う歯車たちが無数に蠢く生き物のように右に左に回ってた。隙間から覗いたパイプから鼠色の煙が雲のように空へ飛び出した。

大きな羽が風を生むようにバサリ、バサリと上下に羽ばたいている。


「島の中央には大きな塔があるんだ。一番天辺には大きな金の鐘がついててね。だけど、叩くと鈴のような綺麗な音を鳴らすんだ」

「お寺の鐘とはちがうのね」

「それを聞いた地上の人たちは空に神様がいるって思い込むんだ」


遥か下の地上にまで届いたその鐘の音は女性の歌声のように美しい。

海にいる者はセイレーンだといい、陸にいる者は魔女の歌声だと言い切った。

天使のラッパという者もいれば、耳鳴りじゃないかと笑う者も。


「塔の真ん中は庭みたいになっていてね、女神像が置いてあるんだ」


草花が生茂る塔の庭に咲き誇る勿忘草わすれなぐさの花々。

燃るような彼岸花ひがんばなは秋に咲く。

手を合わせ祈るように目を瞑る女神。

彼女は明日を祈っている。


「私ね、明日が来なければいいのにって毎日思ってたの」

「うん」

「…でも、今は明日が来ればいいのにって毎日思うんだ。だって、ルーノと会えるから」


朝日が来るとともに月は地球の裏側へと消えてしまう。

だけど、貴方が月の代わりに私を照らしてくれるから、昼の闇も怖くない。


「俺も朝は嫌いだった。でも今は好き」


互いに目を合わせて笑う。膝にできた傷の痛みなんてとうに消えていた。

アパートの屋根は太陽の光を遮るけれど、眩しいほどに世界は輝いていた。

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