第23話

心の傷は時間が治してくれるとよく言うけれど、時間が傷を癒してくれることはない。ただ、段々と曖昧になっていくだけで、傷はしっかりそこに残る。

それは痛みに慣れたのか、時間と共に傷の存在を忘れてしまったのか、ハッキリとはしないが。


そうやって隠してきた傷が露わになるのはいつだって突然だ。

誰かが言った言葉や、たった一つの匂いすら、思い出す引き金となる。




忘れ物はありませんか?


一枚目の最後に綴られた言葉に私は首を傾げた。

私と彼は確かにその場所で、共に同じ時間を過ごしたが、物を交換したことも、貸した覚えもない。私が忘れているだけかもしれないが、覚えていないということは大した物ではない、ということだ。


答えを知るべく私は彼が残したもう一枚の手紙を読むことにする。


「ある晴れた日のこと。桜の木の下で」


だが、二枚目に書かれたのはたったその一文だけだった。


桜の木の下、というのは明らかに裏校門のことを指しているのだろう。それ以外に思いつく桜の木がない。だが、それがなんだというのだ。


「もう…あの桜の木は、ないのに」


私が中学生に上がったときだ。中学校からの帰り道、辛い時はいつも裏校門まで走って見にいっていた。微かに残った彼との記憶が私を癒してくれるような気がしていたからだ。

だけど、中学一年の夏にそれは突如として消えていた。


消えた、と言っても桜の木がごっそりなくなっていたわけじゃない。

切り株になっていたのだ。


どうして切り落としたのか理由が知りたくて、小学校から出てきた先生に問い詰めたことがある。先生は苦笑いを浮かべながら「ごめんね」とだけ返してきた。


そうしてあの桜の木は過去の物となった。


そこに一体、なにがあるというのだろう。

私と彼がいたことすら、夢のように消えていったのに。


……。



「ったく、怠けてばっかの嫁だな」

「なんでそんなことを言うのよ!私だって働いて帰ってきてるのに…!」

「パートだろ?そんなの俺の仕事に比べたら」

「働いてる時間は変わらないわよ!私はその後、ご飯の用意をして、お皿を洗って、洗濯物干して、子供達のことだってみてるのに…!」

「それがお前の仕事だろ!」

「あなただって手伝ってくれたらいいじゃない!」

「お前の仕事をなんで俺がやらなきゃいけないんだ!」


勉強机の下は狭くて暗くて心地がいい。

全ての音は遮断できないけど、電気さえ消してしまえば夜の闇に紛れて痛みも何処かに連れていってくれる気がしたからだ。


「ひまわりの面倒だって見てくれたことないじゃない!」

「あれはしっかりしてるから放っといたって大丈夫だろ」

「だからって私ばっかり…!」


私の両親は、悪い人じゃない。根はいい人だ。

機嫌がいい時は笑ってくれるし、私が困っていたら助けてくれる。

親として最低かと聞かれれば、この世を探せばもっと最低な親が見つかるし、暴力を受けたことも、外に放り出されたこともない。


それだけで私は幸せ者だと言い聞かせねばならなかった。


だけど、やっぱり思う。二人が結婚したのは間違いだったと。

二人はとても優秀だった。頭の良い家系に生まれ、軽々と勉強をし、どこに行っても何をしても上手くやれる二人。周りの人たちからは営業成績が優秀だとか、上司で良かったとか、幼い頃から聞かされてきた。


仕事一筋で、生きていくべき人だったと思う。

どうして一時の恋情に任せて結婚なんてしてしまったんだろう。


パチッと軽い音が聞こえる。暗かった部屋に明かりが灯った。


「ここにいたのかよ」


兄だ。


「俺、この部屋で遊びたいから出て行け」

「私の部屋でもあるんだけど」

「うるせぇ、ぶん殴るぞ」


兄は可哀想な人だった。私が生まれてから母に甘えれず、愛情を受けるべきときに愛情を受けて育たなかった。

だから、私のことを心底憎んでいるし、嫌っている。


かという私も結局、母から放置されているのだが。


「お母さんとお父さん、喧嘩してるから、今、リビングに行きたくない」

「うるせぇ、出てけ」


幼少の頃、母から愛を受けて育たなかった兄は、問題ばかり起こしてきた。

それでも二人の遺伝子を引き継いだようで、何をしても優秀な成績を残し、必死に勉強して100点をとってる私を嘲笑うように彼は寝ていても100点をとってきた。


問題ばかり起こす兄の後に入った学校。そこで働いている先生達は皆、敵だった。

田口向日葵という人物ではなく、田口の妹、という人物で見られる。決して私個人として見てくれることはない。


機嫌取りをしても、兄のように問題を起こさなくても、兄のことを嫌っている先生からは嫌われた。それは仕方のないことだった。兄はとんでもない問題児で、私はその妹だから。嫌われて当然だと思う。

今の担任もそうだ。兄を嫌っている派閥に属する先生のひとり。


そんなのおかしいと言ってくれる人が私の世界にはいない。

ルーノなら、おかしいと言ってくれただろうか。

いっそのこと彼が兄だったらいいのになんて思う。


私は大事な本を持って部屋から出て行った。父と母の怒鳴り声が段々と近づいて来るたびに心臓の音が近くなっていく。ギュッと締め付ける痛みを連れて行ってくれる人はいない。


「ひまわり…」


リビングに現れた私を見て、二人は怒鳴り合いを一旦止める。

だが、互いを睨んだまま怒りを忘れることはしない。


「喧嘩、やめなよ」


兄が望んでいるのは両親の仲裁だ。

きっと二人も望んでいる。私が間に入ってくれることを。


「ごめんね、怒鳴り声聞こえたよね」

「…そもそもお前がそういうことを言わなければ」

「もういいじゃないその話は!」

「お前がそういう態度だから…!!!」


何もおかしいことはない。狂ってなんかいない。

歪なのは、間違っているのは私だ。


「お腹、すいた」

「ごめんね、今すぐご飯作るからね」


父は背を向けてテレビの前に座る。その姿を母はギロリと睨みつけたが、見てない父に届くはずもなく。黙って母は料理の支度を始めた。


「手伝うよ」

「本当?じゃあ、じゃがいもの皮、剥いてくれる?」

「うん」


この感情に名前をつけてはいけないと本能が叫んでいたから、私はお気に入りの本を机に置いて料理の手伝いをする。後ろから聞こえた父の笑い声に胸の痛みが酷くなっていくのを感じた。


でもきっと、間違っているのは私だ。

何故なら彼らは社会に出て成功しているから。

きっと私が訴えても誰にも届かない。


月が二つある世界なら、この痛みも消えるだろうか。


ルーノ。


ただただ名前を呼んでみた。この痛みが緩和されると思っていたからだ。だけど、痛みは良くなるどころかそのトゲで背中を貫いてしまいそうだ。

脳味噌に心があるなら、胸のあたりが痛くなるのはおかしな話なのに。


ルーノ。

ルーノ。

ルーノ。


この世界が間違って見えるのは、きっと私がこの世界に合っていないからだと思う。私たちは虫を嫌うけど、地球からしたら虫の方が優しく見えるように、私は何かが人間と違ってしまったのだ。それが何かはわからないけど。


明日は普通に登下校しなければならない。何故なら、あまり裏校門へ行くとその場所にいることがバレてしまう可能性があるからだ。


でも、いつも彼がそこにいるなら、彼の担任は何をしているのだろう。

もしかして意外にバレなかったりするのだろうか。


チラリと母を横目で見た。母は気づかず怒り任せにキャベツを切っている。

振り返って父を見た。こちらを気にすることもなくCMの度にチャンネルを変えている。

私はゴクリと唾を飲み込むと、明日も教室に行かないことを決意した。


私は悪い子だから。


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