第19話

大人になればなるほど外に出るのが億劫になった。

出かけるための用意が大変だったからだ。どれだけ前日に用意をしても当日にやることが多すぎる。顔を洗ったら化粧水をつけて、朝ご飯の用意に後片付け、お湯を沸かして珈琲を飲んで、顔のマッサージをしてからメイクに髪のセット。

どれだけ早く起きても時間が足りないように感じた。


そのくせメイクはすぐに崩れるし、髪のセットは玄関を開けた瞬間に風で消える。それでも人から良く見られたくて必死にやっていた。

疲れた日はご褒美にアイスを買いたいけれど、太ってしまうから我慢。食費がもったいないから自炊をするけど、お金がかからないように安売りの野菜とお肉をただ焼いて味つけるだけ。


それだけで疲れちゃってボーッとして、あっという間に時間が過ぎて行った。

時間が過ぎるのは本当にあっという間だ。後悔しないように過ごせと誰かが言っていたけれど、生きていくために必死な私達がその声を聞くわけもなく。


そうやって切羽詰まって生きてきて

ただ息を吸って吐くだけの生き物なんて

死んでいるも同然じゃないか。



……。




子供の足では遠かったはずの長い道も彼と話をしていればすぐに過ぎ去った。

彼の背は私より頭ひとつぶん高い。それは時が経つと私は彼と同じ高さになるのかもしれないし、永遠にこのままかもしれない。

ただ、単純に見上げた先で遠くを見ている彼の顔は好きだった。


彼の長い睫毛が太陽の光を浴びて煌めく瞬間はとても素敵だ。


同じ背になれば同じ物を見ることができるだろうか。

そう考えることもあったし

私がもっと大きな背になれば次は私が彼を守れる。

なんてことも思ってた。


私はいつも道を歩くとき、背を曲げて地面を見つめていることが多かった。何があるというわけじゃないけれど、ただただ、地面をずっと見ていた。蟻の行列に投げ捨てられた缶、枯れた落ち葉に黒い黒いアスファルトが続く平坦な道を。


果てしなく何も変わらない地面を穴が開くほど見ていた。


だけど、彼の背が高いから、今の私は自然に顔を空に向けた。

空の色はいつもと変わらない空色だ。季節が変わればまた少し表情が変わったのかもしれないれど、この僅かな時間の中で空の色が大きく変わることはない。見上げた先の空はいつもの空で、バケツをひっくり返したように晴天が続いている。


それでも美しいと思った。何もかもが。


彼と出会ったのは昨日のことで、どれだけ指折り数えても彼と共に過ごした時間は両親だけでなく、担任の先生よりも少ない。数字として見るなら彼と私は赤の他人だろう。でも、彼が誰よりも近くにいる人だと思っている。


私の周りには大勢の人がいた。食卓を囲んでいる時も、教室にいる時も。でもそれはまるで機械のように無機質なまま、ただ存在しているだけだった。私にとって好きでもないぬいぐるみを買い揃え並べた景色と何ら変わりはない。

この世界の人達は死んでいるように見えていたほど。

白黒モノクロの世界で、私は生きていた。

周りと同じようにただ息を吸って吐くだけ…。


「ルーナ、見てご覧。あそこの家は料理長の家なんだ」

「料理長?」

「そう。公爵様にお出しする料理は全て彼が考えているんだ。俺たちが仕えている公爵家は王家の血筋を持っているから、ちゃんとした物を出さないとね」

「一人で作ってるの?」

「まさか!彼には沢山の部下がいるんだ。きっと味付けは…料理長がするんだろうけど…野菜を切るとか、そういうのは部下がやるんだよ」

「北の国の料理ってどんなだろう」

「雪国だからね。未知の料理がいっぱいあるんだろうな」


ただ息を吸って吐くだけの人生を永遠に過ごすんだとずっと思っていた。

大人からお人形のように操られる子供たちを見て悲観し、また自分もそういった運命を辿らなければならないと嘆き、祈っても答えてくれない神に怒り、そうしてこの世界の歪を感じ続けながら生きていくしかないのだと、思っていた。


この世界が一本の棒なら、捻じ曲がってグルグルと。きっと誰かが見たら棒だと認識できないほどにこの世界は狂ってしまっているのだと思っている。

そう思わないと生きていけない自分が居たのは確かだった。


でも、この世界はまだ、元の真っ直ぐな棒に戻すことが可能かもしれない。

だって、ルーノも生きている人間だったから。


「北海道にさ」

「うん」

「美味しい海鮮丼があるんだって。ルーナは魚好き?」

「大好き!お刺身もお寿司も!…あ!じゃあ…!」

「うん、きっと美味しい魚や貝がいっぱいある国なのかも」

「…あのね、エビが入ったカレーが好きなの」

「カレー?」

「じゃがいもとね、エビがね、入ってるの」

「いいな。きっと名物料理かもしれない」


公爵領に春がやってきた。広い広い街道に立ち並ぶ看板はどれも雪をかぶっていたがOpenの文字がどの扉からも見えていた。ゆっくりと歩いていくとどこからかスパイスの香りが漂い始める。

辛いのはお好き?辛いのが苦手なら牛乳を混ぜてあげよう。甘いのはお好き?ラッシーはいかが?なんて。

香ばしいパンの焼ける香り。ナンだ。公爵領のナンは他のナンと一味違う。他国よそのパンみたいにふっくらは焼けないけど、中はもっちもち。舌にじんわりと溶ける甘味がカレーの辛味と絶妙に合うの。


別世界に旅をするとき、必要なのはこの世界のルールを忘れること。

それさえ知っていればどこへだって行ける。

そういったことを大人は教えてくれない。だから私が教えてあげる。


「料理長さんち、白いかべだね」

「清潔好きなのかも」

「じゃあきっと着てるコック服も真っ白だ!」

「いや、旗と同じ青って可能性もあるよ」

「青のコックさん…!」


公爵領の料理を任せられた料理長が着るのは淡い青に白いボタンがついたシンプルなコック服。彼のお気に入りは太い腹を抑える素敵な革のベルトで、裏には大好きな奥さんの名前が彫られていた。彼の奥さんは食べるのが大好きで彼と同様丸々太っている。太っているのはいけないことだと良く聞くけれど、料理長は奥さんのそんなところを愛していた。

だって、自分の作った料理を世界で一番美味しそうに食べてくれるから。


「ルーナ」

「なぁに?」

「綺麗だね」

「うん」


目を開いて歩いていた。通るのはいつもの通学路。何一つ変わらない道。

だけど私達の心は大きな街道を歩いていた。立ち並ぶ色とりどりの看板達や行き交う食べ物の香り、微かに残る雪の冷たさも全て感じていた。


世界が捻じ曲がって私達の妄想が本当になればいいな、なんて思ったりした。

もうすぐで学校に着く。遠くで聞こえたチャイムの音が私達を呼んでいた。


「…もう、着いちゃったね」

「うん」

「どうして……学校に毎日、通わなきゃ、いけないのかな」


裏校門の入り口はもう目と鼻の先にあった。

乗り越えて、桜の木にもたれかかってもいいし、教室に向かってもいい。自由な選択肢は与えられているのに、別の選択肢を探してた。

どうしても学校に入りたくなくて、離れたくて。


「なんでだろうね。俺も…毎日思うよ」


繋いだ手に自然と力が入ったのは偶然ではないだろう。

私は彼を見上げている。彼は学校を見上げていた。


「普通って、難しいよね」


彼の言葉に泣いてしまいそうな自分がいた。それでも泣かなかったのは、泣くのは恥ずかしいことだと思っていたからだ。武士の家系なのだからと祖母にキツく言われていたからかもしれない。


この世界の普通はとても難しい。周りと同じでなければいけないのに、周りより優れていなくてはならない。例えばドッチボールが強かったり、足が速かったり、そういうこと。賢くても褒めてくれる人はいない。100点をとると陰口を言われる。20点をとると悪口を言われた。

同じドラマを見て、同じ話をし、同じ意見を述べて、同じ点数をとる。だけどクラスが一目置くような何かに優れていなければ結果は同じ。この世界はなんて歪なのだろう。そう思う私が歪なのだろうか。


「…あのさ」

「ん?」

「ルーノとさ、別の世界に行くことはさ、悪いことなのかな」


声が震えてなければいいと願ってた。


「…悪いことかもしれないね。だって、授業サボっちゃったし」

「悪い子なのかな」

「悪い子かもしれない」


チャイムが鳴り終わる。子供達は歓喜の声を出しながら校庭へ飛び出した。


「じゃあ、じゃあさ」

「うん」

「世界がね、ルーノとね、私とね、二人っきりだったら、それはもう、悪いことじゃないよね」


互いの手は繋がれたままだ。離すこともなく、離す理由もなくただただ繋がれていた。私の指先から心音が聞こえてしまうのではないかと思った。それだけ世界が静かだったからだ。聞こえていた子供達の騒ぎ声も先生の怒鳴り声も地球の裏側に行ってしまったように何も聞こえない。


「でもきっと、悪いことなんだよ」


彼の声は震えていた。


「この世界にいる以上は、悪いことなんだよ」


いつも肯定してくれる彼が初めて私の問いを真っ向から否定したように感じた。でもそれは私達二人にとって酷く正しい答えだった。見て見ぬ振りをすることはできない正解。向き合わなければいけない問題。


別世界に旅をする時、私達はこの世界のルールを忘れる。

例えば太陽が東から登るとは限らないし、夏の次は春かもしれない。

でもこの世界に生きてくいく以上、この世界の規律ルールに従わなければならない。

どれだけ望んでも、どれだけ祈っても私達はこの世界げんじつで生きていかなければならない。それがどれだけ苦痛なことか普通・・の人にはわからないだろう。わかったとしても、それをわかっただと思えないほどに。


「でもね、ルーナ」


彼は言葉を続けた。


「俺、思うんだ」


彼の声は森の奥に立つハープの弦を優しく弾いた音に似ている。


「悪い子だから俺達、出逢えたんだよ」


私達は手を繋いでいた。

門から吹き込んだ風の音が私達の隙間を通り、空色に溶けて消えた。

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