第18話
線香の匂いが漂うお寺で私は両手を重ねていた。
祖母の命日だったので、家族みんな黒い服を着てやってきたのだが、祖母は淡い黄色が好きだったなとふと思ってほんの少しだけ笑った。
祖母は優しい人だったので天国に行くだろうと思っているが、実際、死んだ後、人間は生まれ変わるのか、天国に行くのか、閻魔のところに行くのかさえも生きている私達が知ることはない。
仏教には八大地獄というものが存在する。
その名の通り八つの地獄があって、罪によって行く場所が違う。
じゃあ、罪とは何かと問われると殺生と窃盗などを思い浮かべる人が多いが、妄語、つまり嘘をつくことも仏教では罪にあたる。
息を吐くように嘘をついてきた私はきっと死んだ後、地獄へ連れて行かれるだろう。祖母のために祈るこの両手もきっと明日の我が身を思っている。人間とはそういう生き物だ。そういう生き物でしかないのだ。
それでも今、私は祖母のために祈っているし、祖母が愛してくれたことを知っている。それだけではいけないだろうかと疑問に思ったところで涙が溢れ出た。
線香の煙が目に染みたらしい。
……。
その劈くような悲鳴が聞こえたのは突然だった。
「子供がソファで寝ている!!!!!!!!」
私とルーノはバッと飛び起き声の主を見る。
鬼のような形相で此方を見ているのは皺が深いおばあさん。片手にライターとタバコを持っていた。図書館の休憩室は子供から大人まで誰でも使うことができるようにその一角には喫煙所が設置してあった。恐らくそれ目当てでやってきたのだろうと思う。
図書館の最上階、息を切らしてやってきた彼女は顔を真っ赤にしたまままた悲鳴のような怒鳴り声をあげた。
「なんでこんなとこに子供がいるの!!!」
お婆さんが出した声は天井や壁のガラスが震えるように大きく威圧的で、ビクりと肩を揺らしたまま私はお婆さんを凝視した。そのことに気づくと彼女はブルブルと怒りに震えて此方を睨む。蛇に睨まれた蛙のように視線を逸らすことができなくて。そんな私に気づいたルーノは守るように引っ張って私を抱きしめた。
その腕もまた震えていた。
「学校はどうしたの!」
「…今から行くところです」
「子供が学校も行かないでこんなとこにいるなんて!!この街の恥さらしだわ!!!この地域はね!!アタシが子供の頃から清く正しく良い子だけ育ってきたのよ!!!あんた達みたいな不良学生をほったらかすなんてどんな親かしら顔を見てやりたいもんだわ!!」
劈く音が不快だった。
だけど、彼女の言っていることはこの
反論は許されない。
「はっ、どうせ都会から来たクソみたいな女と男がいっときの情で産んだだけのクソガキどもに違いない!出ていきな!!!あんたらみたいなのがこんな街にいるなんて不快だ!!出ていけ!!!!」
正しいとは一体なんだろうとたまに思う。
ルーノがいた月が二つある世界を歪だと私は感じたけれど、この世界の正しいはもっと歪だ。捻じ曲がって、グルグルとそして凶器のように尖ってる。
「出ていけって言ってんのが聞こえないのか!?え!!?あんた達みたいなのがね、この街の評判を悪くしたら困るんだよ!!アタシは子供の頃からこの街を見ているけれど本当に素敵な街で大切に大切に守ってきたのに…」
「素敵な街だから、それを伝えに来たんです」
「え?」
意表を突かれたお婆さんが口を開けて此方を見ている。私も彼の顔を見上げた。
彼は震える腕に力を込めて真っ直ぐお婆さんを見つめている。
「学校の授業でこの街について詳しく知ろうってことになって。それで図書館に社会科見学に来たんです。二人で意気込んで先生にこの街の素敵なところをたくさん教えてやろうぜ!なんて色んな階をグルグルしてたら、ここまで来て俺たち疲れて眠くなっちゃって」
「あら、あら……まあ、そうだったの」
あれだけ怒り狂ってたお婆さんの真っ赤な顔が白くなっていく。
「でもダメですよね。こんなとこで寝ちゃうなんて」
「えぇ、えぇ、そうね。ああ、学校のだったの。あぁそう。じゃあ仕方ないわね。こんなとこに来ちゃダメよ。ここはあんまり良くないとこなの」
「そうなんですか?」
「最近、派手な格好した学生達がウロウロしていてね危ないから。子供なんかがここに来ちゃダメよ」
「大丈夫です。この時間は誰も来ないみたいなので」
「えぇ、えぇそうね。だからアタシもこの時間に来るのよ」
彼の言葉は魔法だ。お婆さんが喜ぶ言葉をよく知っている。
そしてそれはたったひとつの真実も表す。
彼もまた、嘘に慣れている人だった。
「この図書館の最上階から見るこの景色は一番素敵でね。よくない大学生のせいで来る人が減ったけど、そりゃもうできた時は人気の場所だったのよ」
「僕もこの景色好きです。ひまちゃんもそうだよね?」
「え、あ、うん!うん、そう、好き…」
「まあまあ可愛い。図書館の二階に行ってご覧なさい。街のことがよく書かれている本が沢山あるから」
「本当ですか!?それはいいこと聞いた!ひまちゃん、早速行こう」
「あ、うん。わかった。ありがとうございます」
「いいのよ別に。気をつけてね。ちゃんと先生達の見えるとこで勉強するのよ?いい?」
「はーい!じゃあ、行こう!」
「…うん!」
私たちは手を繋いで笑顔のお婆さんに手を振り、そのまま階段を駆け下りた。
そうして三階まで降りてくると二人で大きく安堵の息を吐く。
「こ、こわかった」
「だね」
「ルーノ、ありがとう」
「何が?」
「まもってくれた」
「ルーナがいたからできたんだよ」
「それでも一人だったらと思うと…」
彼は私の頭を撫でた。彼の手はもう震えていない。けれど。
私は背を伸ばして彼の頭を撫でた。少し驚いた様子で此方を見ていたが、すぐにやさしく笑い返してくれる。彼の勇敢な姿を私しか知らないのは酷く残念だ。
「学校に、戻ろっか」
「うん」
三階に飾ってある時計の針は十時を指していた。
視線を合わせて一緒に頷くともう一度手を繋ぎ直した。
今度は二人でゆっくりと階段を降りていく。もう引き止めるような声も怒る声も聞こえなかったけれど、どこか胸の奥が痛んでいた。
何もできなかったからだろうか。
彼が怖がっていたのを知っていたからだろうか。
それとも、言われた言葉に傷ついていたのだろうか。
きっと全部。
図書館の入り口で待っていた警備員は此方をまたジッと見ていた。
扉が開くと同時に冷たい風が吹き抜ける。私の長い髪が風に踊った。
「風の神様はさ」
「うん」
「人の髪で遊ぶのが好きなんだね」
「そうかな」
「そうだよ」
私の長い髪が風に靡くのを見ることができたのは彼だけだ。
自分自身では背中で踊っている髪を見ることはできないから。
「帰り道はどんな世界で行く?」
「うーん、海は堪能したから…どうしようかなぁ」
「さっきのさ、公爵のさ、街にしようよ」
「いいね。じゃあまだ冬かな」
「ううん。公爵の街にも春がやってきたの。春がね、雪をとかして…」
青い空は公爵の家紋の色だ。きっと冬のような冷たさを連想した色。
そんな公爵邸にも春がやって来た。いつも部屋に閉じこもりの公女が部屋の窓をゆっくりと開ける。雪の冷たさが鼻の奥をツンとつついたが、吐き出した息はもう白くない。飛び立つ鳥達の声に、喜び溢れる給仕達の声に彼女は耳をすませながらうっとり窓辺にもたれかかった。
彼女の長い髪が風に揺られて踊っている。
きっと素敵な景色だわ。
彼と私はきっと召使い。
二人で洗濯物を持ちながら仕えるべき公女の姿を見て二人で頬を綻ばせた。
部屋の中は安全だけど、外の世界を知った彼女はもっと魅力的になるはず。
怒鳴ったお婆さんは怖い人だったけれど、言っていることの全てが間違っているわけではない。そもそもこの世界のルールを違反しているのは学校に行っていない私たちであって、怒られるのは正しいこと。いないはずの子供がいてパニックになるの普通だし、来ないだろうと思っていた大人が来てパニックになった私たちもまた普通だ。
感情的になったお婆さんの方が酷いのか、嘘をついた私たちの方が酷いのか、きっと人によって答えは違うだろう。それでいい。それがこの世界を作り上げている歪な何かだから。
「ルーノ、あのさ」
「ん?」
「雪が溶けたら土の匂いがするのかな」
「どうだろう。考えて息を吸ったことないなぁ」
「じゃあ、雪が降ったら試してみよう!」
「いいね。約束な」
「うん」
指切りを交わすのは契約とは意味が違う。
それでもいつかは叶うものだと信じて小指を預けた遊女のように私もこの約束が叶うことを信じていた。
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