第17話
子供の頃、足繁く通っていた駄菓子屋の前を先日通った。
いつも笑顔で駄菓子をくれたおばちゃんの髪は真っ白になっていて、内装も随分汚れて見えた。なんとなく気になって入るとまあまあ、なんて私を覚えていてくれたおばちゃん。笑った顔は昔のままで、スーツ姿でとっても素敵ね、なんて言われるとなんとなく胸が痛んだ。
駄菓子屋のお菓子はスーパーで売っているものとはまた少し違う。並んでいた商品は懐かしいものばかりで、こんなのあったっけなって思わず手にとった。昔は100円の中から上手くやりくりしていっぱいのお菓子を買うのが好きだった。今じゃ140円のカップラーメンばっかり食べている。
原色カラーのゼリーになんて呼ぶのかさえ知らない懐かしい駄菓子、10円価格のチョコだって戸棚にいっぱい詰めてある。宝石箱のように感じていた場所。
最近は友達と集まるときに用意するお菓子はポテチかチョコかで決まっていた。他のものを選ぶとなんとなく嫌がられる気がしていたからだ。甘い物としょっぱい物両方あったらいいでしょって。
じゃあ、自分が食べたい物はなんだったの?なんて自分自身に問いかけてみる。
おまけが付いてくるキャラメル?それともアイス?
私は店内をぐるりと一周回ってレジまで戻ると隅に置いてあった飴玉に手を伸ばした。
……。
「ルーノはさ、月が二つあるとこから来たんでしょ?」
「うん」
「そこって、どんなとこ?」
図書館の休憩室に人が来る気配は未だない。
私たちは手を繋いだままソファに身を投げ大の字で寝ていた。ゆったりと流れるときのなかに溺れていくように目を閉じて太陽の光を感じていたのだが、ふとした疑問が静寂を壊した。
「…うーん、どんなとこ、かぁ」
彼は目を閉じたままそう言った。静かな世界にときどき聞こえるアナウンス音が誰かを探しているように聞こえる。バンシーの叫び声はこんなだろうか、なんて思いながら。
「変わらないよ。ココとあんまり」
「変わらないの?」
「うん。ただ…」
「ただ?」
「……光と影はもっとハッキリしてるかもしれない」
「…どういうこと?」
「んーとね、境界線がハッキリしてるのかな」
「境界線…」
彼は太陽の方に手を伸ばす。すると顔にできた彼の手の影がくっきり浮かび上がった。これが境界線なのだろうか。
「もっと濃くて深い闇が隣にあるんだ」
「月が二つもあるのに?」
「あるから、だよ。光が強い分だけ影の色も濃くなる。白い壁の後ろは真っ黒なようにね」
それはいつもいる校舎裏の暗さとは違うのだろうか。
「でも、綺麗なところだよ」
「たとえば?」
「鈴の音が鳴り響くチンチン電車に迷宮のような駅、建物の影に隠された秘密の池に野原にある社、誰も登れない急な階段の向こうにある神社も花畑が広がるビルの屋上もなんだって綺麗に見えるんだ」
彼の言葉によって生まれたその世界が私には歪に見えた。
この世界の常識に囚われているから歪に感じるのだとしたら、そんな常識捨ててしまった方がいい。この世界の正しいは、別の世界の正しいではない。そもそもこの世界の正しいとは一体なんなのだろうか。
学校に毎日通うこと?受験する子は特別扱いされること?お金があるかないか?ああ、考えるだけでくだらない。こんな正しい、ねじ曲げちゃえ。
「そこに……学校はあるの?」
「あるよ。でも勉強内容はこことは違うかも」
「算数?理科?」
「好きな授業を選択するんだ。自分の人生に必要な勉強をね。星空が好きなら天文学に必要なものを学べばいいし、歴史が好きなら考古学を学んだっていい。数学?算数?お好きなものをどうぞ」
「……じゃあ、踊りたかったら踊ればいいし、歌いたかったら歌えばいいんだね」
「そう!」
太陽に伸ばした手をまたソファに投げ出して目を瞑った彼の表情は暗い。
「……ただ、短所は長所だから、そうして失敗して行った人は沢山いたよ」
「たくさん?」
「そう、沢山」
なんとなく想像がつかないわけじゃなかった。
誰もがレオナルド・ダ・ヴィンチのように多才であるわけじゃない。絵がどれだけ好きでも才能に恵まれなくては選ばれることは無い。才能があったって生きている間に選ばれることは稀で、教科書で「偉人だった」と書かれるだけ。それと同じだろうか。それよりもっと深い場所の話だろうか。そもそも選ばれるってなんだろう。
私は顔を横に向けた。視線の先にいる彼は目を閉じて太陽の光を受けている。目蓋の奥に映るのは太陽のオレンジだろうか。それとも光から生まれた闇だろうか。私は繋いだ手の隙間を埋めるように左の手の力をこめた。
「きっとそこなら私とルーノは同じ教室のとなり同士で授業をうけれるよ」
彼がこちらを向いてゆっくりと目蓋を開く。
互いに目を合わせて笑い合えばどんな暗闇も照らせる気がした。
私が光り輝く太陽になることは無い。
それは
でも、ルーナの私なら闇夜を照らす
あなたが私に与えてくれたこの名前であなたを守りたい。
それはきっと傲慢だと、私は笑った。
すてきな傲慢でしょう?って笑っていた。
「そうだね。きっとその世界なら俺たち、ずっと一緒だ」
「きっとその学校は寮だから、同じ部屋に帰るの」
「うん、うん、そうだった。あの学校は寮だった」
「それでね、宿題をいっしょにするの。まっしろでおっきな机に沢山の本を並べて」
「きっと同じ問題で悩むんだろうね」
「それでね、万年筆にね、インクをつけて書いちゃうの」
「羽ペンは同じ色がいい?」
「うーん、何色がいいだろう」
「俺は黒がいいんだ」
「じゃあ、私は白がいい」
「白?すぐインクで汚れちゃうよ?」
「そしたらおなじ黒になるでしょ?」
「そっか」
「そうだよ」
「いいね、そのほうがきっともっと楽しくなる」
ガラス張りの教室に紅い夕日が沈んで行く。
スライド式の黒板は上下ともに難しい文字が並んでいた。英語に見えるけど、英語じゃない。だってこの世界とは違うから。
黒板の隣に並んだ本たちが夕陽に照らされ全て赤く見える。だけど、燃えるような赤の世界に映る彼の横顔は逆光で暗かった。それでも弧を描く口元はハッキリと見えたから私は一緒に笑って言った。この宿題難しいね、って。
彼の黒い羽ペンが汚れることは無い。だけど、私の羽ペンは色を吸うたびに黒に染まって行った。互いに私の羽ペンを見ながらこういうの。これが黒になる頃には私たち卒業かしらって。
卒業したら何する?夢は?やりたいことは?
この世界の規律をその世界に混ぜてはいけない。正しいことは学校を通うことだけじゃ無いし、真面目に働くことでも無い。じゃあ何が正しいのって聞かれると私はその世界の人間じゃ無いから答えることはできなかった。
大人になったらわかるかな。ううん、きっとわからないかも。
私から見てその世界は歪に見えるように、その世界から見た私も歪なはずだから。
「ルーナの羽ペンはきっと光に透かすといろんな色に見えるよ」
「ほんと?」
「万年筆のインクは黒だけじゃないからね」
「じゃあきっとルーノの万年筆だっていろんな色に見えるよ。だって私と同じインクを使うはずだもん」
「そうだね。きっと同じインクを使って同じインクを買いに行くんだ。そしてたまに違う色を買って互いの色が羨ましくなる」
「それでトレードしてまたけっきょく同じ色を使うの。そうしたら同じ黒になる」
夜の暗闇は嫌いだ。未知の生物が潜んでいるように見えるから。
未知の生物がどうして怖いの?と聞かれると、きっと未知だからだと思う。知らないことは怖い。カーテンから一瞬見えた光が家の前を走った車のライトだったように本当は恐れるものなどないのだと思っている。
お化けや妖精は未知を具現化させた人間の妄想だと私は知っているし、暗闇が私を飲み込んで食べてしまうわけでもない。でも、わからないから怖いし、怖いからわからない。
でもきっとその黒もいつかは好きになれる。黒くなった羽ペンを透かしたら暗闇の本質がわかると思うから。
「ルーナが年下じゃなければいいのにって今思った」
「どうして?」
「だって、三年もルーナがいない時間を過ごしたんだよ?こんなに嫌なことは無い」
「でもきっとその倍の数だけこれからが楽しいわ」
「そうかな」
「そうよ。私がいるもん」
彼が完璧に見えていた。あの頃の私には。
彼といる世界も完璧に見えていた。穴だらけの妄想の中で。
ねぇ、でもだって素敵でしょう。何よりも輝いて見えていた。
神様よりも信じてた。あなたのこと。
「そうだね。きっと最高の世界だ」
青い青い空が私たちを見下ろしていた。
白い白い雲が優雅に泳いでいる。
赤い赤い太陽は黙したまま。
母がよく言っていた。父との恋はスパイスだらけの刺激的な恋だったって。
私ね、思うの。きっと彼といるこの感情を言葉にするならそれとは真逆だなって。それはおっきな淡い水色の飴玉をゆっくり口で転がすような懐かしい味。
駄菓子屋の端っこで売られるのを待ってるような人気の味じゃないけれど、そういうのを食べたときに感じるものと似ているような、そんな気がするの。
きっと彼に伝えたら彼も笑ってこう答えるわ。俺もそう思ってた、って。
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