第15話

大人になるにつれて楽しいが難しくなっていく。

一人暮らしをしていると休みの日も絶え間なく家事をしなくてはいけない。一日くらい休めばいいのにときっと過去の私は言うけれど、掃除をしなくては埃は積もるし、洗濯機を回さなければ着る服がなくなる。

そうして家事に追われているうちに日が暮れ月が昇り、ふと見た外の世界は暗くなっているのだ。

読みたいと買っただけの本が幾つあるだろう。

お出かけのときに来たいと買ったワンピースはタンスの奥に眠ったまま。


鏡の向こうの自分は随分、やつれて見えた。生きていけるだけのお金もあるし、衣食住にも困ってない。きっと世界から見たら幸せな人だと言われるに決まっている。

なのに、楽しいが無いとどんなに恵まれていても人は不幸せになるのだと知った。


……。


この街には一際大きい建物がある。中央図書館。様々な本が並んでいるその場所は美しくも見えるがその分、人の出入りも激しい場所だった。

扉の前に立ちはだかる大きな門番、警備員の姿。私は思わず立ち止まって彼の腕を引っ張った。


「ルーナ?」


彼の問いかけに返事をすることはできなかった。

私も何度か学校から出て行って彼方此方を彷徨ったことがある。普段通らない道を好きなように通るのはとても楽しかったからだ。

だが、偶然鉢合わせたお婆さんに「制服の子供がウロついている!!」と騒がれてしまい、それを聞いて駆けつけた別の大人たちが無理やり私の腕を引っ張ると学校へ戻りなさいと大きな声で叱られた。それはちょっとした問題になったのだが、私の両親はそのことを知らない。担任が知らせなかったからだ。

それ以降、人に出会わないようにひっそりと息を殺して歩くのが常だったが…。


「さっきから大人とは沢山すれ違っただろう?」

「でも…」

「大丈夫。俺がついてるよ」


彼が私の手を無理矢理引っ張ることはない。その代わり繋いだ手を離さずジッとこちらを見て待っていた。ここで立ち止まっているのが正しいことだろうか?引き戻す?それとも中へ入るの?

揺れていく世界の狭間で目を閉じると大切なものが見えてくる。繋いだ手から伝わる彼の体温が恐怖で冷え切っている心を溶かしてくれるなら、恐れるものは何もない。

彼という存在は魔法そのものだ。一緒にいるだけで不思議と勇気が湧いてくるのだから。


「いく」


警備員はこちらを見ていた。真っ直ぐ通り抜けていく私たちをジッと見ていた。それでも彼が私たちを止めることはなく、ただただジッと見つめているだけ。

この世界を現実だと呼ぶのなら、現実世界での“普通”は“私たちを呼び止めること”のはずだ。“学校に毎日通うこと”、“勉強を頑張ること”、“色んな人と仲良くしなきゃいけないこと”。

私たちは“普通”じゃない。此の世界に住む以上、学校に連れ戻されるのは“普通”で。なのに、どうして警備員さんは私たちを呼び止めなかったのだろうか。


「…驚いた?」

「うん」

「あの門番さんはちょっと違うんだ」

「違う…?」

「普通じゃないってこと」


ニヤリと笑ってそう答えた彼に私は頬を綻ばせた。

普通じゃない。それが私たちの世界で一番の褒め言葉だとどれくらいの人が知っているだろう。知らない人が聞いたら傷ついたと泣き喚くのだろうか。


「ここから中に入るとさ、たくさん大人がいるけど、ほとんどの人が俺たちに興味がないんだ」

「興味が、ない?」

「うん。門番さんとは違う意味で、普通じゃないのかもね」


中央図書館はシンプルなデザインの外装だったが、中に入ると全ての階に繋がる螺旋階段や柔らかな炎の光を連想させるオレンジの照明が幻想的な世界観を作り上げ、中世のお城を想像させた。そう、私たちはお城に潜入したスパイだ。


「なりきらなきゃ」

「…何に?」

「お城の中の人間にさ。クールにね」

「ふふ、クールね」


北の辺境にある孤高の城。孤独な公爵が暮らす城だと誰もが噂をしているけれど、舞い落ちる雪は花弁のように柔らかく、連なる氷柱つららは飾り付けた宝石のように眩しく光っていた。それは透明の宝石。

城の中は青い絨毯が敷かれていた。凍えるようなその色は大事にされているのかまだ美しい青を纏ったままで。公爵は冷たい人だとみな言うけれど通り過ぎる人たちの笑みは幸せを隠し切れていない。

別の角度から見るの。噂だけを信じちゃいけない。


すれ違う大人達はこちらを気にすることはなかった。彼のいう通り、私たちに興味がないのかもしれない。


「見て、あの本」

「うわぁおっきな本…!」

「もしかしたら宝の地図が隠してあるかも」


顔を見合わせて笑った。冷たい公爵が大事にしているお宝ってなんだろう。

眩いほどに輝く黄金?それとも色鮮やかに煌めく宝石?いいえ、きっとそんなつまらないものじゃないわ。

分厚い本に手を伸ばすけれど、私たちの背じゃ届かない。林檎の入った木箱が必要?それともお酒の入った大きな樽かもしれない。周りを見渡して探してみるけれど近くにはどちらも見当たらない。

爪先を上げて互いに手を伸ばしてみるけど美しい青の表紙にはどうやたって手が届かない。諦め半分で爪先を下ろしたとき現れた白くて長い手。


「はい、どうぞ」


長いヒールを履いた綺麗な黒髪の女性が求めていた本を私たちの目の前に差し出す。孤高の城が一変してただの図書館へと変わっていってしまうように、青い絨毯も輝く氷柱も何もかもが泡になって消えてしまう。


「あれ、これじゃない?」


彼の方を見た。彼も私を見ている。繋いだ手を互いにギュッと握りしめた。大人は私たちに興味がないのだと思っていたけれど、そういう人だけじゃなかったらしい。

女性はこちらをジッと見て何かを考える仕草をしたのち、何度か頷いてニヤリと笑った。私たちは互いの手を握りしめたまま一歩後ずさると、彼女は私たちに視線を合わせるように屈んでこう言った。


「貴方達、潜入捜査は初めて?」

「え」

「私、先にここに来て潜入してたんだけど、秘密の部屋の場所見つけちゃったの。教えてあげる」


突然のことに唖然として私たちは彼女を見ていた。彼女は大きな黒いバックからメモを取り出し、外ポケットに挿していたペンで何かを書いている。そしてそれを二枚千切って私たちに二人に一枚ずつ渡してくれた。内容は同じもの。


「潜入捜査の基本がなってないからバレバレよ」

「え、あ」

「いい?もっとクールにならなきゃ」


ざっくりとした地図。消えかかっていた世界が戻ってくる音。

もう一度彼と私は目を合わせたが、今度は互いに笑っていた。


「学校から抜け出してお城の潜入するワルい子たち。もっとワルくならなきゃダメ」

「ワルく?」

「クールっていうのは格好良くなくちゃ。それはつまりワルってこと」


彼女がピンと姿勢を正すので私たちもピンと姿勢を伸ばす。


「誰でもワルになれるのよ。よく見てて」


カツ カツ カツ。ヒールを踏み鳴らして歩く彼女の音に合わせて私たちも歩いてみた。彼女が踏み鳴らしているのは絨毯ではない。石畳の廊下だろうか。青い絨毯も敷かれていないその道は通る人も少なく次第に薄暗くなっていく。ほんの僅かに置かれた照明が誘うように闇の色を深くした。

通る人が減っていくのは暗闇が怖いから?でもそのほうがワクワクするわ。


「音楽にノるように歩くのよ。ちょっと後ろに重心を持っていってね」


彼女のいう通りに歩いてみると、無機質な城が不思議と暖かく感じていく。

世界の中に音が溢れていくようだ。それは教室の不協和音とは違う。ドラムにギター、ベースにシンセサイザー。それぞれ個の主張が強いはずなのに同じ歩幅で歩いていける。互いの音を聞いて、リズムを奏でるの。互いがいなくては成り立たないように。

右に左に揺れる動きは重心がぶれないように歩かなきゃリズムは保てない。簡単なように見えるでしょ?でもとっても難しい。クールになるのって難しいの。


彼女の足音に合わせて階段に足をかけた時だった。


「高田!」

「ひゃい!!!」

「何してんだお前、ガキつれて…」


突然やって来た大柄の男に彼女は私たちを背中で隠した。私たちも彼女の背中に隠れる。


「先輩、しっ!今、潜入捜査中なんですから!」

「何言ってんだお前…レポートの続きを…」

「ああああああ、公爵様への連絡ですね!?すぐ行かなきゃ」

「は?」


彼女は振り返って私たちにまた視線を合わす。どうやら彼女とはここでお別れのようだ。私たちが困ったような顔で彼女を見ると、彼女は私たちの手に持っているメモを指差して念を押した。


「私はここまでだけど、秘密の部屋まで行くのよ」


私たちは一緒に力強く頷いた。それを見て彼女は嬉しそうに笑う。


「任せたわ。最重要任務を貴方達に託します。武運を祈る!」


ピシッと敬礼するから、私たちも敬礼を返した。後ろにいる大柄の男は何をしてるんだと言いたげな顔で此方を見ていたけれど、笑って彼も私たちに敬礼を返し彼女の首根っこを掴んで「じゃあな」と行ってしまった。


嵐のように現れて行ってしまった大人のヒト。今まで出会った大人とは違う人。私たちはまた顔を見合わせると姿勢を伸ばしてまた同じように歩いていみる。図書館が音で溢れているのを私は知らなかった。

本を捲る音がビートを刻み始めると誰かの足音がドラムを叩き始めた。本を仕舞う音はベースの低重音、呼吸の音はシンセサイザーの伴奏だ。

私たちの走る音がメインリズムを奏でて初めてひとつの音楽になる。


音に合わせて駆け抜けた図書館の最上階に人はいなかった。無償で使える休憩所だが、午前の早朝にココを埋め尽くす人が来るわけもなく。

鳴り止んだ音楽達にほんの少しだけ淋しさを感じたが、その感情をも吹っ飛ばす美しい光景。一面をガラスで覆われているここから見下ろした街は何よりも綺麗で感嘆の息を漏らした。


「公爵が大事にしてるお宝って…」

「これのことなんだ…!」


ワルじゃないと見られない景色。ねぇ、クールじゃない?先ほどのお姉さんの声が聞こえるような気がした。きっと二人だけじゃ辿り着かなかった秘密の部屋。

宝石の山のようにも見えるが、やっぱり私たちには海の底に見えていた。さっきまで見上げたていた海の中を見下ろしている。空を飛んだスーパーの袋こそが泡沫だろうか。

見上げた青の空を飛ぶ飛行機が白波を立てていた。


「魚がたくさん泳いでるね」

「うん、それに上から見下ろしたほうが珊瑚礁も太陽の光を反射してキラキラして見える」

「ねぇ、見て、あそこはマグロの群れだよ!」

「あっちはイワシだ!」


疲れた足を休めるように黒のソファに腰をかけた。彼も次いで隣に座る。ガラスいっぱいに光を浴びた秘密の部屋はどこの世界よりも眩しい。この景色を知る子供達は何人いるのだろうか。それこそ本当の意味で秘密の部屋なのかもしれない。


「キレイだね」

「ああ、綺麗だ」


海が見える公爵の城。聞こえないはずの波の音がただただ響いてた。

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