第14話

誰かのふとした言葉が呪いに変わる瞬間に遭遇することが人生において何回あるんだろうかと指で数えてみたりする。

愛してる、や頑張って、なんてありきたりな言葉かもしれないし、リモコンとって、なんて言葉が呪いになる可能性も0じゃないだろう。旦那が当たり前のように飯を作って、という言葉も呪いだと職場のお局が嘆いていたことがあった。


私にとっての呪いの言葉は人生初めてのプロポーズだった。

実際、本人がプロポーズだと思っていたのかどうかも怪しい言葉だったが、それが今も尚、私を孤独にさせるときがある。大人に変わるようにその糸を断ち切れたらいいのだろうかと何度も嘆いたことがある。


しかし残念なことに私にとってそれは何よりも大切な言葉だった。

切り離せなかった。どうしても。


……。



通い慣れた通学路さえ太陽の光を受けて輝くこの世界を現実と呼ぶには淋しすぎて夢だと言いたくなった。

空を泳ぐ3匹の鯉が踊るように揺られている。それはもうすぐ五月がやってくることを示していたのだが、私たちは深い海の底に潜っているような錯覚を得た。


家々を塗り固める屋根の色は地面を埋め尽くす珊瑚礁。揺らめく洗濯物は影に隠れた小魚の群れ。私たちは青い青い水面を見上げ泳ぐ白の雲に手を伸ばし遥かなる空へ想いを馳せる。

口から出た息は泡となって彼方へ飛んでいくのだろうか。


「海の中って静かなのかな」

「どうだろう。魚は耳がいいって聞くよ」

「人間には聞こえない海の音があるのかな」

「呑気に鼻歌を歌ってる魚もいるかもね」


私たちのブレザーは青色だった。青い青い2匹の魚が対となって海の底を泳いでいる。水面の隙間から届く太陽の光が彼の鱗を照らしてはまた隠れる。ゆったりと泳ぐ彼に置いてかれぬよう私は必死に泳いでた。


道路を走っていた車が突然クラクションを鳴らした。ビクリと肩を揺らしてそちらを見ると息も止まるような速さで前を走っていくので思わず目で追ってしまった。その車を追いかけるように行く白黒の車たちが大きな魚の群れに見えた。


マグロだろうか。そんなに速く泳いで何に追われているのだろう。


ゆったりと流れる時の狭間で足早に駆けていくスーツの男がしきりに腕時計の針をチェックした。ベルを鳴らしながら颯爽と前を走っていくお姉さんが必死に足を動かしてあっという間に遠くの角を曲がっていく。


「みんな、急いでるね」


私の声に彼はこちらを向かず、まっすぐ同じ方向を見て答えた。


「…俺らもああなるのかなぁ」


ああ・・の内容を具体的に言葉にすることはとても難しいが、ふと父のことを思い出した。

父の朝はいつも慌ただしい。朝食が出てくるのをまだかまだかと何度も騒ぎながら問いかけ、食事を味わう時間も取らず頬に詰め込んでコーヒーで喉に流し、流れるニュースにイチャモンをつけてシャツに腕を通すとたった一つのシワを見つけては怒鳴り散らした。そうして時計の針を見ては焦ったように用意をし、腕時計の針を確認すると鞄を掴んでそのまま出ていってしまう。


その後に聞く母の深いため息が死ぬほど嫌いだった。


「私ね、朝はゆっくり紅茶を飲みたいの」

「紅茶?」

「うん。バニラビーンズの香りがするミルクいっぱいの紅茶」

「いいね。クラシックを流そうよ。ゆったりとした曲調のさ」

「トーストを焼いてバターをたっぷり塗るの」

「ジャムを乗せよう。イチゴのジャム」

「それにクリームチーズもね」


バニラの花は淡いクリーム色を纏う。それは月のように淡く。


「はちみつたっぷりのヨーグルトも食べたいの」

「果物を乗せようよ。ブルーベリーにマンゴーに苺」

「じゃあ、バナナジュースもつくろう。牛乳と一緒に入れてミキサーにかけるの」

「出来立てのバナナジュースにチョコレートを乗せよう」

「それから切ったバナナもね」


真っ白なお皿に乗せられたパンの上を四角いバターが泳いでる。鮮やかな緑のサラダ。その隙間からチーズがひょっこり顔を覗かせていた。厚く切ったハムにスクランブルエッグを添えて、黄色のキャンバスにケチャップでまるをく。

淡い水色の器に白いヨーグルトを乗せて、紺に橙、それから赤色で敷き詰めた。上から蜂蜜を垂らすとそれはゆっくりと落ちていき果物の上に透明のヴェールをかぶせていくように見えた。

透明のグラスになみなみと注がれたバナナジュース。それにチョコレートとバナナを乗せて。そうしたらお湯が沸くから紅茶を入れよう。牛乳もたっぷり注ぐのよ。


「こんな朝が毎日だったらステキなのに」

「大人になったらそんな生活してみよう」


彼はこちらを振り返って笑う。


「一緒にさ」


私は大きく目を見開いた。吸い込んだ息を勢いよく吐き出す。


「うん!」


一緒に見上げた空に浮かぶ大きな雲が鯨の腹のように太陽の光を遮った。風に飛ばされた白いハンカチが泡のように彼方へ消えていく。


「ルーナ、あのね」

「うん」

「だいすきだよ」


真っ直ぐ答えれたのは私が幼かったからだろうか。それとも…。


「私もだいすき!」


幼い私たちは互いの手を引っ張り合ってその存在を確かめた。

水面に浮かんで消える泡を海にいる魚が見ることはない。泡沫とは人間の目線で物語る一時の情景。それを儚いと人は唄うけれど、海の底から飛んでいく泡は見上げることで太陽の光を抱いて七色に輝くことができる。

その美しさも儚いと言えただろうか。


「シャボン玉だ」

「空に溶けてくみたいだね」


上から見下ろして見たものと下から見上げてみたものは同一であれ違って見える。そのことを多くの人は知っているが、その9割は真の意味を理解しないままだろう。彼らはいつも何かに追われている。だから空を見上げないのだ。


「人魚姫の結末は悲劇的って言われてるけど、海の一部になれるなら素敵だなって思うんだ」

「…どうなんだろう」

「教室の喧騒やこうして煩く響く機械音に耳を塞ぐ必要もなくなるだろう?」

「でもね、ルーノ」

「ん?」

「こうして手をつなぐ時間が私はすきだよ」


彼にとって私の答えはどう聞こえたのだろうか。答えなかった以上、私が彼の考えていたことなんて知る術もなく。

煩いくらいにクラクションが鳴っていた。人々のざわめきと喧騒。

私たちはただただ聞こえないように海の底へ潜っていった。


私たちは魚だ。耳がとてもいいから、遠くの音までよく聞こえる。

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