第13話
大人になったね、と周りから言われることが増えた。
大人になるということは子供から大人に「変わる」ということだ。
「変わる」の「変」という字の成り立ちを多くの人は知らないだろう。
「変」という字は「變」の略字で、上側の「糸」「言」「糸」は「糸を引き合っている状態」を表すのだという。運命の赤い糸や結ばれた絆なんていうように人の関係は糸で表されてきた。
そして下側「攵」はまた「攴」の略字であり、上側が叩くときに出るボクッという擬声語で下側が右手を表しているのだという。
つまり「変」という字は引き合っている「糸を右手で叩っ斬る」状態のこと、だと私は思っている。
「子供」と「私」を繋ぐ糸を切ることで「大人」になることなら、私はまだ大人じゃないだろうなんて思った。何度も何度も振り返って見つけた子供時代の思い出が大切だからだ。だが、「糸を切る」とはあまりにも抽象的で実際どのタイミングがその状態なのか私にはわからない。
大切な思い出を振り切って進むことが大人に変わるということだろうか。
それとも子供時代に見た美しい景色を忘れたとき、人は大人に変わるのだろうか。
そうして悩んでいる私を君はバカだなぁなんて笑ってくれるだろうか。そう思ったときにまだ糸は断ち切れていないのだと知った。私はまだ子供だ。
……。
「図書館って、だめ、だめだめだめ」
私は大袈裟なほどに手を左右に振って拒否を示した。学校のある時間に図書館を訪れたことはない。でも、大体は想像がつく。
「大人がいるし、図書館の前に警備員さんもいるし」
「うん」
「学校に行く途中にもたくさん、大人が、いるよ」
「うん、そうだよ」
初めて彼が何を考えているのかわからなくなった。上手く人の目を掻い潜って図書館に行けたとして、中に入れば人、人、人だ。見つかれば戻されるに違いない。
「ルーナ、大丈夫。大人って意外に俺らに興味ないんだ」
「え」
「そうだな。今から行ってみよう。すぐわかるよ」
「だ、だめだって」
「大丈夫。俺がついてるから」
そう手を差し伸べられては行かないと言えなかった。最後の抵抗としてジッと彼の目を見つめてみたが、ニッコリと微笑まれるだけ。おずおずと彼の手を握りしめて図書室を抜け出した。
図書室から裏門に行くのは簡単に見えるが実際、簡単ではなかった。道中声を出さないことは必須のためアイコンタクトのみで互いの意思を表示する必要がある。それが今、これから行く場所への不安を吐き出す言葉を奪っていった。私はただただ不安を隠すために彼の手を握りしめることしかできない。
図書室は六年生教室の隣にある。廊下側に面している教室の窓はどれも透明のため、前を通り過ぎることはできない。だが、図書室の隣にある階段で一階まで降りることはできた。だが、それはデメリットでもある。
出入口がそこにしかない、ということだ。降りる途中に上ってくる人がいれば逃げれない。人の気配や音に耳を澄ませ慎重に降りる必要があった。
だが、モタモタしてることも許されない。図書室前に設置してある二つのトイレは六年生たちがよく使うからだ。授業中も当たり前だが抜け出してトイレにやってくる人はいる。見つかったときの言い訳はたくさん考えた。それでも不安は当たり前のようにある。
「ルーナ。落ち着いて風の音を聞いてごらん」
人にバレないよう彼は静かな声でそういった。ほんの少しだけ彼が階段から降りると私たちの視線はちょうど同じ高さになる。彼と私が真っ直ぐ見つめ合うこの瞬間に吹き抜けた風がこわくないよ、と教えてくれた。
私たちの足音も聞こえない静かな階段にビューと吹き込む風の音。騒めく生徒の声も掻き消す強い春の風。狭い階段の通路を突き抜けて三階にいる私たちの髪を揺らす。
春の風は冬の冷たさを孕んでいる。だが、冬に浮かべる白や灰色のモノクロより暖かさを抱いた淡い色の風。桜が舞い踊る淡い桃色と野山に咲くたんぽぽの群れを思い出す。桜の花はもう散ってしまったし、たんぽぽは綿毛になって飛んでしまった。だが、風はいまだに花弁とともに踊っている。
ルーノといっしょなら大丈夫。
もう一度しっかり手を繋ぎ直すと彼は嬉しそうに笑った。
学校の制服は夏が近づくまでブレザーの着用を規定されている。長袖のシャツに長袖のブレザーでは少し暑さを感じてしまう。だが、吹き抜けた風が汗ごと暑さを吹き飛ばしてくれるようだった。
彼の足手まといにならないように、だけど足音は残さぬよう、春の風になったつもりで駆け抜けた。一階の廊下は校庭につながっている。つまりどこの校舎からも歩いているのが見える状態になるわけだが、途中途中にある柱を利用すれば上手く隠れることができた。
先生や生徒の出入りが激しい職員室、管理作業員室、それから保健室さえ注意していればいい。様々な情報に対して過敏にならなくてはいけないけれど、彼と一緒ならそのドキドキもワクワクに変えることができた。
昔読んだ本を思い出す。
お姫様と執事が身分違いの恋に落ち、駆け落ちする物語。
偶然読んだその物語に自分自身を重ねるように息を潜めた。
星光の影に身を寄せ合い
貴族社会での女は政治の駒。没落寸前の家にとって結婚は切り札。それでも悲劇的な人生を歩みたく無いと願う女の切望は我儘だろうか。
貴族社会というのは学校に覆う塀とよく似ている。
籠の中の鳥は羽ばたきたいと願っているのにそれを主人は許さない。
そんな籠の扉を開けてくれる誰かがいたらと願っていた彼女に差し出された手。
月の光が照らすように真っ直ぐ。
その手を握り返すのは間違っていると、物語において「常識的な」乳母が言っていた。それでも彼女は手を伸ばした。空に恋い焦がれている鳥と同じだったから。
様々な教室から目的の場所に行くというのは監視の目が多い学校で簡単なわけがなかった。それでも、裏門まで行くのに私たちは慣れていた。
そうして三年目、見つかることもなく私たちは裏門にたどり着くことができた。
「ランドセルは置いてかなくて大丈夫?」
「万が一にでもここに人が来たとき、誰かが来てたって思われたくないから、持ってく」
「了解。俺、持つよ」
「ううん。大丈夫。ほとんど何も入れてないの」
昨夜、持ち帰った宿題に記入をしながらずっと考えていた。明日の授業や絶対に会話するであろう同級生たちのことを。
五時間目の授業を抜け出してそのまま帰っているにも関わらず、今年の先生が自宅に電話をすることはなかった。もともと、私の通っている学校には先生たち同士にも派閥があって、互いに互いを啀み合っていた。そういった先生たちは自身のことに必死で他人の世話などする余裕もなく面倒ごとを嫌う。
そうした世界で私を心配してくれるヒトなんかが担任になることは一度も無く、テストの点数や宿題さえ提出すればずっと許されて来た。それでも今年の先生は酷かったと思う。私が休もうとも同級生たちと上手くいかなかろうとも見て見ぬフリをしていたから。
きっと、今日一日、私がいなかったところで彼は「面倒ごとが減った」と大喜びしてるだけに違いない。そんな人に会うためわざわざ出席するくらいなら、そう思いランドセルの中身は全て置いて来た。
「おいで、ルーナ」
裏門を飛ぶように上った彼は振り返って私に手を差し伸べた。
物語の執事のように真っ直ぐ。
「うん」
私は手を握り返した。彼と同じように門を翔ける。
私が足をかけた裏門の柵は皮肉なことに飛び立つ鳥の絵を描いていた。この
見上げた彼の髪は太陽の光を受けてキラキラと輝いてる。月のように光を当てられなければ輝かないものがあると知った。彼の黒い髪も好きだ。だけど、光を浴びている姿はもっと好きだ、なんて思っちゃって。ボゥっと見つめる私に彼が首を傾げると見つめていたのが恥ずかしくって私は裏門から勢いよく飛び降りた。
外の世界の空気と内の世界の空気はやっぱり何処か違う気がした。
その空気の違いに心臓がドクドクと早鐘を打つ。不安と期待、夢のような冒険記。通学路に通るような平凡な道も見たことがない未知なる大地のように感じ、先に見える世界への期待で胸が高鳴っていくのを感じた。
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