第12話

我慢しなさい、と子供の頃よく言われていたのを覚えている。

その我慢しなさいは大人になっても続いていた。接客をするときも家族と対するときも友人の何気ない一言にも。そうして押し込めた我慢の名は後に怒りや悲しみという感情だったと私は知る。


怒りや悲しみという感情は爆弾だ。

不発に終わると地に埋められ刺激されるまで爆発することはない。そうして処理されずに地に埋まっている物が多く存在している。


実在の物も心にある物も。


そうして溜め込んだ爆弾を胸に抱えて生きている人たちがいて、そういった人たちを「大人」と呼ぶのなら、目の前で怒鳴り散らす人は「子供」だと誰が言ってくれるだろうか。


……。


人間の姿に虫の羽根が生えているものを妖精だと語る人は多いが、その実、羽根の生えていないノームやドワーフも妖精に分類されている。

バンシーという妖精は長い白髪を持った女の姿で描かれるし、かの有名なセイレーンや首なし騎士だって妖精と記述されていることが多い。さらにはケルト神話に登場する神々も敗北の末、地下に潜って妖精となったと本には書かれていた。


「…だって」

「へぇ、色々いるんだ」


私達は学校の図書室にいた。リスクは高いと彼は前日に述べていたが「一時間目なら大丈夫」と言い切ったため、私はついて行くことにした。どうせ見つかっても担任でなければいくらでも言い訳ができるからだ。

例えば「授業で必要だから図書室の本を借りようとした。そこに偶然彼がいた」でも充分だったし、図書室の鍵については「そもそも開いていた」と言い切ってしまえばバレはしまい。そもそもキチンと鍵が閉まっていたか否かなど先生たちは知る由もないのだから。

普段から学生たちに鍵の管理を任せていた先生たちの怠慢が私たちを救うことになるなんて思ってもいないだろう。


「妖精ってこんなにたくさんいるんだね」

「知ろうともしなかったよ。じゃあ、妖精の里はもっと賑やかかも…?」

「首なし騎士は、ちょっとこわいけど…」

「妖精同士なら仲がいいかもだろ?」


羽根の生えた妖精たちは神秘的な森の一部にいた。そこはいつも賑わっていて、宵闇が訪れても月光が差す明るい場所。でも、その森をもっと遠くから見ればまた別の妖精が住んでいるのかもしれない。


まぁるい森の賑わう場所から少し離れた場所でぴちゃんと水が跳ねる音。それは木の葉に隠れてやや暗いが、僅かな月光の光を受けると露草色に輝く美しい湖。その湖からゆったりと身を出したケルピーが馬である上半身をブルリと揺らすと、月のような金の瞳で真っ直ぐと前を見た。

するとその視線の先、樹々の陰から現れた美しい女性が月光に照らされ妖艶な笑みを浮かべる。彼女はケルピーに恐れることなく湖へ一歩、また一歩と近づいた。湖の水に片足が浸かると女性____メリュジーヌが下半身を水蛇へと変える。そしてゆったりと優しい歌を歌いながら長い髪を櫛で梳かしていた。歌っている歌は恋のようだ。誰かを想って彼女は歌っている。

そんな恋の歌を聞きながら水面を照らす月光の光すら受け付けぬ暗闇を駆けていく者がいた。首なし騎士デュラハンだ。同じく首の無い馬に引かれた馬車に乗り、次に来る死へとゆっくり向かっている。

その馬車の車輪の音を聞いてバンシーが目を覚ます。走る足の速さは馬より速く、来たる死よりも先に目的地へ着くだろう。

彼らが向かう先、人間たちの小屋でコボルトたちが赤いコートを身に纏いながらせっせと家事の手伝いをしていた。礼にと置かれたミルクを飲んでクヒヒと嬉しそうに顔を見合わせている。

その家の前でケットシーがゆったりと歩いていた。泥酔した人間が猫ちゃんと呼びかけると、それを見たケットシーはにゃぁんと愛らしく答えた。可愛い可愛いと愛でていた人間の周りで聞こえた嘆きの声。やがて来る馬車の音に機嫌よくしたケットシーは酔い潰れた男に「バカなやつ」と嘲笑い、機嫌よく尻尾を振ると宵闇へ姿を消した。


「…誰かが、死んじゃうのかな」


ゆったりと走っていたデュラハンの馬車に私は少しだけ気分を落とした。以前、近所の窓に置かれていた金魚が突然いなくなったのを思い出した。母に尋ねるときっとお空に行ってしまったのね、なんて困ったように笑っていたが、実際のところ人は死んだ先、空に行くのだろうかと思っていた。


「ルーナは死にたくない?」

「わかんない。そういうこと、考えたことない」


死にたい、そう具体的に考えたことはまだなかった。それでも私の体をつんざくような笑い声たちにこの世界から消えてしまいたいと思わないわけではなかった。それこそ砂のように。


「俺はあるよ。死にたいなって思うこと」

「ルーノが?」

「うん。結構、頻繁に」


図書室は明かりをつけても暗かった。原因としては備え付けられた窓も本棚で隠してしまい外の光が来ないから、という理由もあったが、そもそも付けられている電灯の数が少なく、更にそのうちの何本かは明かりを点さないままだからだった。

真っ暗なわけではないので、幼い私たちが本を読むのに苦労するわけではない。だが、実際図書室としてちゃんと機能しているかと言われれば微妙だった。先生が悪いわけではない。だが、結果としてそういった粗があるのは事実だった。


「さらさらって砂みたいにね、突然消えたくなる」


悲しんでいる様子はない。怒っている様子でもない。

彼の心にあるのは無だ。だが、無の感情というものは元から何もなかったわけではない。そこにあった感情に砂をかけて隠しているだけだから。


「どんなとき?」


そういった感情を持ったとき、相手が理解できないと知っていると口を閉ざすのが当たり前だった。何故なら相手が理解したといっても、それは理解してないに等しかったからだ。


「父さんの怒鳴り声だろ?テストの点数、成績表の数字、クラスメイトの笑い声、朝ごはんのソーセージに母さんの泣き声。そういうのを見たり聞いたりすると、サーって消えたくなるんだ」


そういった事柄が私たちを「大人」にさせたのだろうか。


「ソーセージ、朝からキツイよね」

「…うん。ルーナも?」

「朝から出てくるとね、オェってなるの。一口も食べたくないのに健康に悪いからって。夜出てくるとね、平気なの。でもね、どうしても朝はダメなの」

「うん、わかる。食べたくないのに口に入れられるんだよ」

「味は好きなんだけどね、ダメなの」

「うん。一緒だ」


彼に手を伸ばした。短い腕ではテーブルの向こうにある彼の手を握ることはできない。だけど、彼も手を伸ばした。こうしたら手を繋げる。不思議だねなんて。

互いに繋いだ手から感じた体温は熱を帯びていた。独りではない。そう感じられるこの瞬間にどれだけの価値があったか、他の人はわかりもしないだろう。

何故なら私たちは普通じゃなかったから。


でも、特別ではない。


「ルーナ。妖精の森にはさ、きっと大人はいないんだよ」

「大人?」

「そう。テストの点数を気にしたり、大きな声で笑うとうるさいなんて言う人はいなくって」

「ふふ、じゃあきっと授業中にお菓子を食べてても怒られないね」

「ドーナッツが食べたいなぁ」

「チョコレートドーナッツおいしいよね」

「スーパーで売ってた砂糖いっぱいのドーナッツも好きなんだ」


繋いだ手の平を弄ぶように、互いに繋いでは離れてまた握りしめた。

ギュッと握りしめた手の平を包み込む彼の手がとても大きなものに見えていた。その手をジッと見つめてゆっくりとした時を味わう。

時計の針に急かされることもなく、時計の針を急かすこともない。ただただ永遠に続けばいいのにと願うこの時間。だが、突如彼が私の手をギュッと握りしめた。


「…誰かが来る」

「え」


しっ、彼が人差し指を口に当ててそう言った。私は肩を強張らせて彼を見つめた。確かにそれは廊下の向こうから足音を立ててやってくる。


「本当かぁ?」

「えーまじっすよ」


管理作業員の声だ。間違いない。


「ランドセル持って、こっちに来て」


図書室の本は本棚にめいいっぱい積まれている。寄付でいただいた物が多いのだと先生は言っていたが、そういった善意の塊が小さな図書室に全て入り切るわけがなかった。そうして余った本を捨てるまで置いておけるスペース。頑丈な鍵で閉められ開くことがない秘密の部屋。


私は空いていた手でランドセルを掴むとそのままルーノに握っていた手を引っ張られ秘密の部屋の前へと連れていかれる。その部屋の鍵が簡単に開かないのは知っていた。先生たちですら開けることはほとんどなかったから。


「ダメだよルーノ。そっちは…」

「大丈夫。見てて」


彼は胸ポケットからユーピンを一本取り出すとカチャカチャといじくり回している。足音はもう扉の前まで来ていた。


カチャン


軽い金属音とともに開く扉。彼は私の手を引っ張ってその部屋へと入ると図書室の扉が開くと同時に扉を閉めた。相殺した扉の音に大人は疑問を抱かず。


「あれ、図書室の扉開いてますね」

「まったく…まぁた誰か閉め忘れたんだな」

「あーあー、本出しっぱなし。昨日はどこの教室だったっけな」

「まあ、いいだろ。人がいないのは確認済み、っと」

「っにしても面倒っすよね。図書室で子供の影を見たとかなんとか…朝から幽霊がいるなんてありえないっての」

「まあ、これで子供たちもいい加減な噂をしなくなるだろ」

「ですねー」


積まれた本たちは埃をかぶっていた。私が咳き込まなかったのは彼がハンカチで私の鼻口を抑えてくれていたからだ。彼自身も自分の腕で口鼻を覆い耐えている。それでも深く呼吸をすれば咳込むのは目に見えていた。

早く早く出て行ってくれと願っていた。過ぎ去っていくはずの時間があまりにもゆったりと流れている。チャイムが鳴るのはいつだって早いのに。


「ま、次行きましょ。図工室にも子供の影を見たとかなんとか」

「ああ、それか」


ガラガラガラガラ。派手な音を立ててピシャリと閉まった扉と廊下を歩く二つの足音。思わず止めていた息を吐きだした。新しい息を吸いたくてすぐに出て行こうとする私の肩を彼は掴む。まだ彼は警戒しているようだ。空いた手でゆっくりと扉を開け数秒間、彼が図書室の様子を伺っている。ジッと待っていると扉の向こうで彼がおいでと手招きをした。


「ぷはー…しんどかった」

「危なかったね。話に夢中で気づくのが遅かった」

「ううん。バレなかったからセーフ!」

「大丈夫?喉、痛くなったりしてない?」

「だいじょうぶ。ルーノがハンカチかしてくれたから」


私の頭を彼がポンポンと撫でる。互いにホッと息を吐いて少しだけ笑った。


「普段は来ないくせにこういうときに限って来るんだよな」

「あのさ、話の内容だと、バレてる、かも」

「うん、だね。俺がウロウロしすぎた」

「図書室はしばらくダメかな」

「うーん、逆に今回、いないって決めつけてたからしばらく来ないと見ていいかもしれないけど…」


桜の木の下は大人の盲点だ。目の前に道路があるというのに人通りは少なく、見回りを徹底している先生たちもそこにやってくることは何故か無い。だが、完璧な場所というものはなく…外という時点でわかるだろうが、雨の日にその場所は使えなかった。


「…元から図書室は使えないと思ってたんだ」

「え」

「今回は調べ物があったから来たけど…他に方法はあるだろ?」

「…えっと…」

「知ってる?本があるのは学校だけじゃないんだ」


ニヤリと笑っていう彼に思わず口を開いた。


「もしかして…」

「図書館。盲点だったろ」


開いた口は塞がらない。

当たり前だが図書館には沢山の大人がいることを知っていたから。

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