第11話
子供の頃、聴いていた音の中に知らない音が混ざると不安を感じていた。
それは大抵、冷蔵庫で氷を作っている音だったり、クーラーのモーター音や上の階に住む人の足音だったりするのだが、子供の頃は未知なる生物が家の中にいるのではないかといつもキョロキョロ探していた。
こわい気持ちもあったが、その反面、見たい気持ちもあったからだ。
日光を反射した鏡の光を妖精の羽だと信じたり、揺れたカーテンの影を誰かのドレスだと思い込んだり。自分の家が特別な場所に見える瞬間でもあった。
そういったことを科学的に全て知ることで理由を知り納得する自分と信じてきたものが崩れ落胆する自分の二人が存在した。そうした現実への解釈違いが己のなかの不安定さを生み出しているのだと大人は私に言うのだが、その不安定さも愛している私は否定されてどこへ消えてしまうのだろうか。
………。
「おはようルーナ」
「おはようルーノ」
眠りにつくということは私にとってとても難しいことだった。いつも次の朝が来ることに対して怯えていたからだ。次の朝が来れば嫌でも学校に行かなくてはならない。そうしたことが脳をパニック状態にさせ、安心して眠るという行為すらできなくさせるからだ。
学校に行くのは私にとって野放しのライオンが沢山いる檻のなかにぶち込まれるのと同意で。そんな世界に行くのが確定しているとわかっていて、人はどうやって深い眠りにつくのだろうか。そう思っていたことがある。
だが、どういうことか昨日の夜はよく眠ることができた。
恐らく、明日も彼に会えるという事実が私を安心させ、深い眠りへと誘ってくれたのだろう。深い眠りというものは心身に安らぎを与えてくれる。目が覚めたときのふらつきや目眩もなく、朝食の臭いで吐き気を催すことも無い。頭痛で頭を抑えることもなく、むしろ両親が飲む珈琲の匂いが爽やかな朝を演出しているように感じるほどのリラックス状態。
これが眠るということなのかと私は人生8年目の終わりにして初めて知った。
いつも朝食を半分以上残していた私が完食したのを見て母も機嫌が良さそうだった。ニコニコと嬉しそうに笑いながら学校へ行く私を見送る母に少しだけ胸が痛む。何故なら今日も授業を受ける気はさらさらなかったからだった。
朝の学校というのは静かだ。校庭で遊ぶ生徒は何人かいるが、そういった生徒のほとんどは校門が閉まるギリギリにやって来る。集団登校だのなんだのとやって来る人たちもある程度の時間になるまでは現れることはない。
私自身も最初は心配だからと集団登校の輪に入れられていたのだが、全員が揃うまでから学校に行くまでの騒々しさに酔い、自然と一人で登校することを選んだ。母はそのことをまだ知らない。
そんな静かな朝にも彼はいた。
「早いね」
「ルーノこそ。いないかと思ってた」
「この時間の学校は好きなんだ。誰もいなくて静かで、俺の世界に人がいなくなる時間」
「ジャマした?」
「ううん、ルーナが来てもっといい朝になった。独りより二人のほうがずっといい」
私は彼の隣に座る。今日も空は変わらず晴れていた。足早に歩いて行くサラリーマンたちが塀の向こうに見えたが、彼らはこちらを気にする様子もない。彼らは私たちに興味がないのだ。
「奇数っていうのは不安定な数字なんだよ」
「1、とか3とか?」
「そう。人間は独りでは生きていけないけど、3人になると争いが生まれるんだ」
「あらそい…」
「ルーナと俺、二人っきりだからこの世界は平和なんだよ」
「むずかしいお話」
「すぐわかるよ。ルーナは俺に似てるから」
「そう、かな」
1という数字を思い浮かべる。私のことだ。私ひとりが孤独な暗闇にポツンと立っている。次に来る朝に怯えながら不安な夜を抱いて震えている私。
2という数字。ルーノとの出逢い。暗闇のなかに光が生まれる。闇夜を月が照らすように彼が私を照らすから私は光り輝いて同じ星となる。そうして照らされた暗闇のなかに本当は数々の素敵な本や宝石が埋もれていたことを私は初めて知る。星屑のように散らばったそれらを大切に拾っては整頓して戻すのだ。
3、
ぐらりと揺らぐ世界に吐き気がした。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。変なこと考えちゃった」
「もたれかかっていいよ。目を閉じて綺麗な世界に行こう」
私は彼の言葉に甘えて肩に頭を乗せる。そんな私の頭の上に彼も頭を乗せて互いに支え合うように目を閉じていた。人という字は互いを支え合っている字だと本で見たことがあるけれど、今の私たちの状態も人という字なのだろうか。
人間というのは嫌いだ。大嫌いだ。
だけど、彼も私も人間という事実は変わらない。
「あのねルーノ。私ね、妖精になれたらいいなぁって思ったの」
「妖精?」
「そう。羽があってどこまでも自由に飛んでいける。好きなときに好きなものを食べて、好きな本をいつでも読めるの」
「いいなぁ、それ。妖精が住む世界ってどんなだろう」
「私ね、妖精の家って木のコブのなかとか土の隙間とか、そういったところに住んでる気がするの」
星が降っているような光。それは蛍の群れで、その背に乗って妖精たちが楽しそうに踊っている。木の幹にあるほんの僅かな隙間に扉があって、一人の妖精がトントンと扉を叩いた。そうして開いた扉から漏れる光。その色もまた淡い橙に染まっている。
トン トン トンと叩く心地のいい木槌の音が森の中に響き渡っていた。新しい妖精のために家を作っているのだろうか。それとも使い古した家具を新しく直しているところだろうか。住んでいる木に水をやるジョウロを作っている音かもしれない。
「森の中ってキノコが生えてるだろ?」
「うん」
「そのキノコが発光しててもいいよな」
互いに頭を預けあっているこの状況では彼の表情を見ることは叶わない。だけど、ニヤリと悪戯っ子みたいに笑って言う彼の表情を思い浮かべることは簡単だった。
「青に緑、それからピンクもあったら素敵かも!」
「食べれるかな」
「食べれるよ。青はすっぱくて緑は辛いの、ピンクはあまくてね」
「それ、食べれる?」
「……確かに、食べれる、のかな」
二人でふふっと笑い出す。互いに揺れる肩が擦れあった。
「妖精になったら美味しく感じるのかもね」
「そう!そういうこと」
星を抱いた羽を羽ばたかせている蝶が木の陰から現れた。そうして集まった蝶の群れは空までいくとキラキラと輝く星となる。緑に黄色、赤、白、青。
そうして並んだものを星座と呼ぶのなら、星座の瞬きは蝶の羽ばたきだ。
「もしかしたら、妖精の森にある木の葉は普通と違うかもね」
「…例えば?」
「これだけ色々光るんだから木の葉も光っていいだろ」
「私、海みたいな深い青に光るといいな」
「枯れかけの葉っぱは紫かな」
瑠璃色の葉が枯れ落ちて
それを見に纏う妖精の女王は美しいほどの黒い髪を
「…妖精の中にはおばあさんの姿をしたヤツもいるんだ」
「おばあさんの…?」
「バンシーっていうんだよ」
「バンシー」
「死を知らせる妖精さ」
月明かりの陰に隠れた妖精の存在。
「バンシーの叫び声が聞こえた家には必ず死者が出るんだ」
「こわいよ」
「大丈夫。こわい妖精じゃないよ。バンシーが叫ぶのは勇敢な人か、聖なる人が死んだってことだから名誉あることだし…そうして知らせてくれるから死に際に間に合ったって話もあるんだよ」
私は右手で彼の左手を掴んだ。その温かさにホッとする。
誰かが死ぬことを想像しなかったわけではない。だが、死という概念に未だ遭遇したことがない私にとってそれは未知なる恐ろしい存在である、ということに違いはなかった。
「それでも、だれかが死ぬのはイヤ」
震えた声を安心させるように彼は私の手を握り返す。
「ずっとそばにいるよ」
「約束だからね」
「もちろん」
午前八時半を告げる鐘の音。交わした約束を桜の木だけが知っている。
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