第10話

ふとした瞬間に見上げた空。其処に浮かぶ月が寂しげに見える時がある。

そういった月のことを「孤月こげつ」と呼ぶらしい。


世界に同じものは二つとない。同じ日に同じ腹から生まれた双子だって、私が大切にしているぬいぐるみだって、同じものは世界中何処を探してもありはしない。そういった理論でいくと街行く人々も擦れ違い顔すら覚えてないあの人も私も貴方も唯一無二の存在である。

そして、そういった唯一無二の存在たちは互いを100%理解することはできない。何故なら、同じではないからだ。違うということはそういうことだと私は理解している。

それでも、ふとした時に空に浮かんだ月が寂しげに見えるのだ。


月がたった独りで空にいると、思ってしまうからだろうか。


……。



家の方向は反対で、もうほとんどの生徒が帰ってしまった静かな正校門前で彼の姿が見えなくなるまで振り返っては手を振った。何度も振り返る私に彼もまた同じく手を振ってくれていた。

夕暮れ時に家に帰るのは初めてだ。いつもは学校が終わってすぐに帰宅し、その後の時間は宿題や明日の予習、趣味の読書に時間を費やしていたから。


「わあ…」


太陽に染まった空の色が彼と見たときよりもずっとずっと濃くなっている。彼も同じ空を見て帰っているのだろうか。部屋に閉じこもっていては見られない美しさがそこにある。カーテンを閉めて太陽の光を遮っていてはわからない世界。


ルーノのおかげだ。


素直にそう思った。彼がいなければ今日も変わらず教室から真っ直ぐ家に帰り、同じ日常を繰り返していただろう。もし、偶然夕暮れを見たとしても特別に感じることはなかったはず。

彼が今日という僅かな時間に与えてくれた世界は全て色褪せず、すぐに思い出すことができる。美しすぎるその世界に溺れてしまいたいから、早く家に帰ろうと家路を急いだ。自分の机の下に篭ってしまえば自分一人の世界に旅立つことができるから。


「向日葵?」


ふと呼ばれた音に心臓が掴まれるような痛みを感じた。それは母の声。


「お、母さん」

「珍しいじゃない。こんな時間に帰ってくるなんて」


父の稼ぎが悪いわけじゃなかったが、我が家は母も働いていた。母は仕事場でも優秀で成績も良いらしく、いつも仕事内容や仕事場の人たちの話をして嬉しそうに笑う姿を見ていた。時折、仕事場に連れて行かれては自慢の娘なんですと紹介された。その自慢の娘は仕事場に行くたびにスタッフルームの奥で放置されるわけだが。


「お友達と遊んでたの?」


親に嘘を吐くのは嫌いだった。嘘を重ねることが家族である意味を消してしまう気がしたからだ。それでも、もう何度も何度も嘘を吐きだしてきたのは事実。今更、ひとつくらい嘘を重ねたところでこの人は気づきもしない。それが現実だった。


「ううん、図書室で本を、読んでた」

「…そう。素敵な本は見つかった?」

「…別に」


母は両手いっぱいにスーパーの袋を抱えている。ひとつ持つよと告げると嬉しそうに笑った。そんな母の笑みが私に罪悪感を抱かせることを彼女は知っているのだろうか。


最初に嘘をついたのは幼稚園のときだ。仕事で忙しい母が幼稚園に私を迎えに来てくれるのはいつだって最後。幼稚園も終わって、居残り保育も終わって、みんなが帰っても母は来ない。最初は先生たちも可哀想だと構ってくれていたが、徐々に慣れたことだといって私のほうを見向きもせず仕事の残りを片付けるようになっていった。

小さい私にはとても広く見えた幼稚園の庭園。誰も走らないそこはあまりにも静かに見えて、端の方に生えた一本の木の影にいつもひっそり息を殺して隠れていた。そのときも夕暮れ時だった。真っ赤な太陽の明るさが心に痛くて、寂しくて寂しくて仕方なくて。大きな一本の木の裏に隠れると、生茂る森に自分の存在を隠してもらえた気がして安堵できたのだ。


そうして私が過ごしているなど誰も知らず、迎えに来た母親に先生たちがニッコリとした笑みを作って出迎える。名前を呼ばれる声がして、そちらに向かうと、先生たちはこう言った。


「隠れんぼしてたんです。向日葵ちゃんは隠れるのがとっても上手で」


正直な話、何言ってんだこいつと幼いなりに思っていた。それでも疲労しきった母にそうなの?と問われて違う、とは言えなかった。どうしても。


「うん。せんせいたちとかくれんぼしてた」


言いたかった言葉は全部隠してそう言った。そうすると母が嬉しそうに笑うので、私も無理矢理笑ってた。きっと母は未だに知らない。私が先生たちと隠れんぼなどしていなかったことに。

そういったことが心の奥にある暗い部分をギュッと掴んで傷つけていくことを誰も知らない。知らないことが当たり前。


「今日はカレーにしようと思うの。好きでしょう?」


ほんとはカレー、そんなに好きじゃないよ。

給食だってカレーだったし、今日、ほんとは嫌だけど。

でも、作るの簡単って言ってたでしょ。


「うん、好き」

「お父さんがね、早く帰って来るかもしれないからお部屋の片付けも手伝ってくれる?」


どうせお父さん、気づかないよ。ご飯食べたらすぐ寝るんだから。


「うん、いいよ。お父さん綺麗なお部屋、好きだもんね」


塗り重ねた嘘の色は最初から黒だったのだろうか。それとも塗り重ねるうちに黒になったのだろうか。もう真っ黒になった筆で白いところを塗りつぶすだけの単純作業。嘘も慣れてしまうと息を吐き出すのと同じくらい簡単だった。


たまに嘘をつくのが下手な人間がいる。わかりやすくて純粋なのねとみんなは笑うが、そういった人間は単純に、嘘をつかなければいけない事態に遭うことが少なかった幸せ者だと思っている。

嘘をつくのは誰だって苦手だ。真実を言う方が簡単に決まっている。

それでも嘘をつかなくてはいけない時が沢山あって、苦手という意識がだんだんと麻痺していくのだ。バレるのではないかという冷や冷やとした不安もバレて欲しいと願う期待すらもやがて一抹の泡となって消える。そうして出来上がった私という人間の真実とは一体何処にあるのだろう。


ああ、でも。


彼と一緒にいたあの時間だけは真実だった。嘘など一欠片も無い。私の黒く染まった筆だってあのときは海の深い青も薔薇の鮮やかな赤も描けてた。


「宿題は終わらせたの?」

「ううん、まだ」

「じゃあ、晩ご飯は宿題が終わってからね」

「うん」

「大丈夫よ向日葵なら。貴方は賢いから」


ひとつひとつの言葉が重荷になっていることを誰も知らない。


「うん」


ああ、早く宿題を終わらせて食事も終えて、部屋に閉じこもろう。静かな場所で今日描いた世界に閉じこもろう。ルーノが馬に乗って迎えに来てくれる。

薔薇の匂いに満たされて、海の冷たさに溺れて、ああ、そのまま眠ってしまいたい。そうしたら早く朝が来て、彼のもとへ行けるから。


そうすれば私は彼の世界にある双子の月の片割れルーナになれる。


そう思うと心がじんわりと温かくなって塗りつぶした黒も水で洗われるような気がした。こうした瞬間を人は幸せと呼ぶのだろうか。なんて哀しい幸せだろう。


「今日はね、お母さん帰り道に可愛いノートを見つけてね!とっても可愛いから向日葵に買ってきちゃったの!ね、可愛いピンクのドーナッツ柄でしょ?」

「うん、可愛いと思うよ」

「向日葵にはこういう可愛い柄が合うのよ!淡いピンクとか、黄色のね」


話し続ける母の声に頷いてはいたが、心は全く別の場所にいた。大人になると母の優しさに気づくのだろうが、生憎私は子供なのだ。子供だったのだ。


「お母さん、部屋の掃除して来るね」

「お母さんも頑張ってご飯作るね!」


なんて酷い、そして可愛げのない娘だろう。私の子供がこんなだったら殴ったかもしれない。最低な娘だ。ごめんなさい。

それでも嘘をつくのは止められなかった。どんな色を足しても筆は真っ黒なままだったからだった。

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