第9話

やりたいことがある。そう大人に伝えると大人は「大人になりなさい」という。

じゃあ私が子供だったらよかったのって問いかけると「そうじゃない」っていう。

夢を捨てて、現実に浸り、お金を稼いで、仕事をして…そうやってふと振り返ったとき、もう自分は過去に戻れないことを知る。キラキラと輝いているあの世界は随分遠い場所にあった。私の世界には魔法も夢もない。

本当に欲しいものはいつでも手のなかからすり抜けていく。


本当に欲しいものって、なんだったんだろう。


……。


太陽も西に傾き、空の色が茜になってきた頃、私はふと呟いた。


「私ね、夕暮れになると空の色がグラデーションになっていくのが好き」


目を閉じていた彼はともに空を見上げる。光り輝く青空とはまた違う色。どこか寂しい色だと思ってしまうのは別れの時間が近づいているからだろうか。


「昼の色と夕暮れの色、それから夜の色が混じってるね」

「うん。それでね、夜の色に染まって行ったところから星が見えるところも好き」


画家のようにいつも庭に出て絵を描いていた祖父が空の色を描いているのを見たことがある。夜空を描くときは濃紺から徐々に淡い色を重ね、最後に白い絵具で満たした筆を絵の前に持ってきて指で軽く叩くのだ。

そうすると白い絵具が飛び散るように星になり、祖父が最後の仕上げだと細い筆で星の細部を塗り上げる。その工程は見える星空よりも美しく見えた。

いつか彼に見せてあげたいと思ったが、祖父のキャンバスはいつも倉庫に眠るように仕舞ってある。素敵な絵なのに、勿体無いと私が一度だけ呟いたのだが、祖父はそれに喜ぶどころか「こんなもの落書きだ」と私に怒鳴った。

それ以降、私のなかで絵という言葉を祖父の前で言うことは避けてきた。


「あのね、きっと夜空の星は誰かが白い絵具で描いたんだよ」

「白の絵具?」

「そう。筆につけてからトントンって筆を叩くと紺色のキャンバスにいっぱい星が生まれるんだ」

「へぇ」


大人になって見ればそういったものはテクニックだとか技術だとか言われてしまうけれど、私には魔法を使っているように見えたのだ。濃紺と青をグラデーションさせた鮮やかなキャンバスに散らばる白の生命ほし

満点の星空は一体何処からやってきたのだろう。星々の光は何万光年先の過去からやってきた物だという。その星はもう死んでいるのだろうか。それともまだ生きているのだろうか。


「昔ね、プラネタリウムで沢山の星を見たことがあるの。天の川っていうんだって」

「確かにここは都会すぎて見えないもんな」

「ルーノは見たことあるの?」

「あるよ。昔、住んでた街が田舎だったんだ」

「綺麗だった?」

「もちろん」


見たこともない星空に想いを馳せる。紺色を埋めるように敷き詰められた星々の煌めき、天の川。いつの日かのプラネタリウムで「天の川は銀河の中心を見ているのだ」と言っていた。ならば、銀河の中心には何があるのだろうか。星が生まれる場所があるのではないだろうか。


「私たちの命はどこからくるんだろう」


ふとした疑問に烏がカアと返事をした。やがて来る五時のチャイムはもうすぐだと言っている。五時のチャイムは二回鳴る。その二回目のチャイムが鳴る少し前に校門を出なければいけないと校則で決まっている。どれだけ授業を抜け出したり、休んだりすることが許されても、それだけは許されないとどこかで思っていた。それでもあと少し、もう少しだけここに居たいと願って止まないのが事実。


「お母さんのお腹からとか、そういうのじゃないよね」

「うん。命っていうか、魂?みたいなの?」

「神様のとこから来るのかな」

「私ね、思うの。命が生まれる場所はとってもキレイなところだろうなって」

「なんで?」

「んーとね」


歪な家族に揉まれていた私だが、教育のためと多くの場所に連れていかれたのは不幸中の幸いだった。知らない世界を知るということは想像の世界を豊かにするに最も必要な過程だったから。

いつの日か連れて行かれた教会。その窓に付けられたステンドグラスが日の光を浴びて鮮やかな色を地面に描いていた。それをとっても美しいと思っていたことだけは覚えている。


「なんか、命の生まれる場所はとっても、とってもキレイなところだったらいいなって思うだけなんだけどね。神様がいるところはキレイだといいなって」


目を閉じて語る私に彼が少しだけ嬉しそうに笑っていた。トンと当たった肩があったかい。未だ冷たい風のなかで彼の体温は特別に感じる。神様の住んでいるところは神様を信仰している教会に少し似ているのだろうか。


「…人の魂ってさ、色んな色をしてるのかもね」


天国の場所は白い世界だろうか。そう思い描いていた場所に色んな色の魂が星のように漂っている。赤、青、緑、それに橙。ステンドグラスの光のように淡く光っている。


「私、何色かな」


クールだと言われるから水色だろうか。それとも怒りん坊の赤かもしれない。いつの日か、名前も知らないクラスメイトが私のことを根暗だと呼んでいるのを聞いたから黒色だってありえるかもしれない。あまり素敵な色じゃないなとため息をつきそうになった。

だけど、彼の口から出てきたのは別の色。


「月白色かな」

「…げっぱ…なんて?」

「月の色ってこと。げっぱくいろ」

「げっぱく」

「ルーナっぽいだろ?」


白い世界にほんの少しだけ黄色が混じった純白の魂。夜の世界を照らす星のように美しく、ケーキに乗っけられた生クリームのように甘い色。


「俺の世界には月が二つあるって言っただろ?」

「うん」

「俺の世界の神話ではね、それは双子の兄妹なんだ」

「ふたご?アポロンやアルテミスと違って?」

「お姉さんが太陽の女神なんだ。二人は弟と妹でね、一緒に生まれたんだって」


手をぎゅっと握りしめて二人で生きる双子の月。髪の色や瞳の色はどんなだったのだろうか。月と同じ色なのか、それとも宵闇に染まっているのだろうか。


「姉はいつも気が強くてさ、先々行っちゃうんだ。それをいっつもふたりは追いかけてるわけ。手を繋いでね」


光り輝く姉を必死に追いかけている様は不思議だ。どうせ待ってくれない姉なら、追いかけなければいいのにと私は思ってしまう。追いかけても追いかけても手に届かない人がいるのは当たり前のことで、あちらはこちらを気にもしてないのだから。


「兄の方はルーノで、妹の方はルーナっていうんだ」

「あ」

「俺たちの名前はそっからとったんだ。いいだろ?」


ふふっと笑う。彼はきっと、その双子に私を重ね合わせてくれたのだ。


「じゃあ、私たちは双子?」

「残念ながら三つも離れてるからなぁ」

「じゃあ、来世は双子かな」

「だといいね」


彼が少しだけ困ったように笑うから、不味いことでも言ったのかと少し黙る。私の表情に彼はぽんぽんと頭を撫でるので黙って撫でられることにした。ゆっくりと目を閉じた先に映る双子の兄妹は不安げにこちらを見ている。


大丈夫よ。私は太陽を追っかけたりしないから。


そう言い切ってしまうのには理由があった。

自分の名前の意味を調べるという宿題が昔あった。優奈であれば優しい子に、美香だったら美しい子にとか。向日葵という花を昔は好いていた。真っ黄色の花弁を太陽に向かって伸ばす姿がとっても美しく見えていたからだ。

宿題の内容を告げた日、祖母に連れられて大きな公園へといったことがある。ひまわり畑が有名な公園だから連れてきたかったのよといつも怒り顔の祖母が珍しく笑って言っていたのを覚えている。機嫌の良い祖母に今日はいい日になりそうだ、なんて思っていたのだが、向日葵の群を見て悲しみを抱かずにはいられなかった。祖母はきっと素敵な花なのだと言いたかったのだろうが、私には一斉に同じ方向を見て、同じように咲く花々が何故か学校にいる生徒たちそのものに見えたのだ。それから視線を下げた先に、ひとつ萎れて下を俯く汚い向日葵こそが自分なのだとその時、気がついてしまった。

その瞬間から向日葵という花も名前も嫌いになってしまった。


でも、私はルーナだ。向日葵ではなく月だと思えるこの瞬間は安らぎ。


「ルーノの魂もげっぱく色かもね」

「俺も?」

「だって、私たち、似てるでしょ?」

「へへ、確かに」


白い世界では目立たない色かもしれない。でも、暗い夜の世界ならきっと輝ける色。例えば校舎裏の影に図書室の本棚の後ろ、それから木々の下だって、暗い場所なら私達の居場所になる。

やがてきたる朝に背を向けて走っていける色。彼の神話みたいに、ずっと手を繋いで何処までも暗い場所にいれたらとっても素敵なのに。


そんな想いに揺られていると午後五時を鳴らすチャイムがなった。1度目のチャイムは警告。2度目のチャイムを聞くことは許されない。


「帰らなきゃ」


私の言葉に彼は立ち上がろうとする。くっついていた肩が離れ、温もりを感じていた場所に冷たい風がビュゥと吹く。少しだけ寂しいが、明日も彼に会えるだろうか。明後日は?明々後日は?


「…そんな心配そうな顔をしなくてもいつでも会えるよ」


そんな私の寂しさを彼は感じ取ってくれたのだろう。本当に私の心を読んでいるかのような人だ。言葉を言わずとも通じるような感覚が彼にはある。


「ほんと?」

「いつでもおいで。学校が開いてる間は基本的にここにいるから」


立ち上がった彼は未だ座り込んでいる私に手を差し伸べる。私はその手を握りしめてなんとか立ち上がった。置いていたランドセルを背負って帰る支度をする。


「必ず来るから、いてね」

「もちろん」


繋いだ手も校門まで来たらさようなら。

神話のように永遠に手を繋いでいれたら素敵なのに。


そう思うのは我儘だろうかと、夕日に染まって暗くなる彼の横顔に心の中で問いかけた。彼は答えてはくれない。わかりきっていたことだった。それでも答えてくれないかなと少し期待してしまったのだ。

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