第6話 紅のリーダー

テストの点数というのはアテにならないなと思う。

小学生のとき馬鹿だな、なんて言われていた子が大人になって大成功することがあるように。それが0であれ100であれ、本人の才能が活かされる場所を見つけることができれば人生は上手くいくのだ。

そういったことを見つけるための教育だと思うのだが、実際の授業とやらは年齢が繰り上がるたび、工場で詰め込まれたネジのように一本一本同じモノにされていくような印象を受けた。

結局、同じモノになれなかった私は欠落品として箱から追い出され、捨てられるのだが、それが正しいと思っているこの国の常識の方が間違っていると今は思う。


枠に収められた子供たちだけが「普通」だと誰が言ったのだろうか。


……。


キーンコーンカーンコーン


予鈴の音が鳴り響く。

騒ぎ立てる子供達がドタバタと階段を上っていく音。それを急かす先生達の怒鳴り声、建物を挟んでもハッキリと聞こえるその音にほんの少しだけため息を吐くと共に座って喋っていた彼が笑う。


「ふっかいため息」

「…そう?」

「幸せ逃げるよ」

「これくらいで逃げないよ」

「どうかなぁ…」

「もうっ!」


下唇を噛んで怒る私に彼は笑って私のでこを押した。

彼はそのまま桜の木に身を委ねゆっくりと目を瞑るので、私もその行動を真似てみた。まだ遠くで聞こえる子供達の騒ぎ声を全てシャットダウンし、別世界へと飛び立っていく。翼を生やして鳥のように。


今日は王をうしない森で朽ちた古城。

城を覆う蔦の山は童話で見た荊棘いばらのように来る旅人たちを皆、拒む。時折やってくる小鳥たちの声だけが静寂の森で木霊し、次の風とともに彼らは飛び立って逝ってしまった。

光は木の影に隠され、朽ちたガラスに茎が絡み汚れのない白の花を咲かす。燃えるように赤かった旗も色褪せ、微風そよかぜに揺らいでいた。


錆びた兜から生える芽が光を欲して空に手を伸ばす…。


「どんな人が王だったんだろう」

「赤い旗だったよね」

「うん、大きな王冠に2匹のライオン」


彼が乾いた地面に簡易的な王冠を描く。私はその横に歪な生き物を描くと、彼は描き忘れていた尻尾を付け足した。


「ライオン…」

「ちょっと、違うかも」

「ライオンというよりキマイラだな」

「キマイラ?」

「怪物だよ。ライオンの頭に山羊の身体、蛇の尻尾」


そういいながら彼は尻尾に目を描き足した。アンバランスな頭と身体にその尻尾は確かに怪物といってもいいだろう。


「じゃあ、その人は赤い旗にキマイラを描いてたってこと?」

「大きな剣も付けたそう」

「私、ネックレスもあるといいな」


紋章学を愛してやまない研究家たちがそれを見たら発狂した後、泡を吹いて倒れるかもしれない。紋章を描くにもルールがあると知ったのは随分、後だった。

あの頃の私達はルールに縛られることもなく、目蓋まぶたの奥にだけ広がるその世界で生きていた。

小さな学校の檻のなかに閉じ込められていたけれど、心は誰よりも自由に羽ばたいていける。


「なんで赤にしたんだろうね。血の色?戦闘狂とか?」

「つよそうだから?」

「うーん…赤が強いかぁ」

「戦隊モノのリーダーは赤だから、リーダーの色かも」

「なるほど。そういう考え方もあるな」


彼は私たちの紋章の隣に昔、流行った戦隊モノの仮面を描く。

彼の絵が特別上手だったわけではないけれど、三つも離れていたからだろうか。幼い私は彼が何をしても特別な魔法がかかったように完璧に見えていた。


それが尚更、私の世界に立ち塞がる大きな壁の存在を明らかにする。


「あのさ、リーダーって、完璧じゃなきゃいけないのかな」


口に出していた言葉は長年、心の奥に隠してきたモノ。


「え?」

「リーダーは何でもできないとダメ?」

「…どうだろう。難しい話だなぁ」


私の言葉に彼は少し考える素振りを見せ、困ったようにそう返す。

誰にも口に出さなかった疑問を彼に言えたのは、それだけ心を許していたからだろう。会ってまだ数時間だというのに彼なら私の考えを否定することはないと信じきっていた。


私が生まれたのは普通の一般家庭だったが、振り返った先にいる祖父母やご先祖様の偉業が重くのしかかる歪な一般家庭だった。

七男の祖父の孫。何も受け継ぐ物はない私に求められたのは先祖代々受け継がれる「完璧であれ」というプライド。「理想の女性像」「人の上に立つにふさわしい振る舞い」「正しくあること」。疑問に思うことすら許されなかった。


最初の頃こそ期待を裏切らないようにと希望に溢れ必死になっていたが、一年生の冬に気がついてしまった。


両親や祖父母が見るのは教室にいる優秀生の私ではなく、白い通知表の英字だけ。彼らにとって必要なのはそれがAであるか否か。


それこそが家族にとっての私で、私はその英字以外の何者でもない。


認めてもらおうと我武者羅がむしゃらに足掻いたこともある。それにはAで居続けることが必須だったのだが、残念なことに私は球技や絵がとても苦手だった。

玉琢たまみかざればうつわを成さず」という母の言葉を聞いて努力すべく勇気を出し、球技のコツというものを父に聞いてみたのだが、できない私の気持ちを理解しない父が応えてくれるわけもなく。

せめて一人でできる絵だけでもと色んなものを真似し白い紙いっぱいに沢山の模写を描いた時だってあった。


それを見た先生が私の絵を見てこう言った。


「枠内で収まる絵はね、評価できないのよ」


最初はその言葉の意味を理解できなかったが、その年、素晴らしいと評価され飾られたクラスメイトの絵は紙からいっぱいにはみ出たグチャグチャの赤いザリガニ。

迫力があって素敵だと絶賛する保護者たちの笑みに、思考が停止し呆然としながら眺めて「ああ、こういうことか」とただ思ったことだけは覚えている。

評価されなかったその絵は学校から持ち帰る途中でゴミ箱にちぎって捨ててしまった。母に絵はどうしたのかと問われたけれど、持って帰れないものだったと嘘をついた。それが「完璧であれ」というプレッシャーから逃げる唯一の方法だったから。

全ての上に立つ者を目指しているのにたった一枚の紙すら評価されない私は、完璧ではない。血が出るほどに下唇を噛みながら一生懸命描いた絵はどれも枠の中に収まっていた。血の滲むような努力を重ねても完璧でいることはできない。


苦しみ、痛みを抱えて過ごした時間。かなしい思い出。


だが、フラッシュバックする記憶を掻き消すように彼は答えてくれた。


「リーダーってさ、完璧なだけがいいとは、限らないよね」


私の目を見た彼はそのまま空を仰いで首を傾げる。そうしてゆっくり紡ぎ出した答えはじわりと心の闇を退けた。それは夜を照らす月のように。


「なんでもできたら勇者とかも仲間いらないじゃん?」


そういってもう一度、彼は私を見る。


「俺もさ、しっかりしなさい、ちゃんとやりなさいってよく親に言われるんだけど、無理だなぁって思うんだよね」

「…なんで?」


問い返した自身の声はどこか期待を孕んでいた。


「だって、机に齧り付いて勉強してるより、こうして空見ながらルーナとお喋りしてる方がずっと楽しいし」


予想していたYesやNoの答えとは違う。

予想斜め上から45°折れましたみたいなアンサー。


でも、それが何よりも求めていた答えだった。

正しいことを言っているかとと問われればもしかしたら違うかもしれないが、私の世界に必要な言葉だったのは確かだろう。


「ルーナはライオンを描くのが苦手だろ?俺にも苦手なことがあるよ。社会だろ?算数だろ?理科も嫌いだし、ああ、それにずっと走り回されるマラソンも」


ひとつひとつ指を折りながら苦手なものを数えるのは私にとって異様な光景だったが、それが何よりもAではない人間わたしを肯定してくれる。


「でも、思うんだ」

「なに?」

「赤い旗の色の意味を考えるにしても、社会を勉強してたらもっと想像できたのかなって」


桜が散った後の風は穏やかだ。

過去の日本では春の終わりというらしいが、もうすぐ夏というには違和感がある。セミも鳴かず桜もない、そんな午後に吹く風はほんの少しだけ冬の寒さを抱いている。永遠に春が続けばいいのにと思わせる心地のいい午後。


「俺の叔父さんがさ、化学にすごく詳しいんだけど、掃除道具を買うにしてもこの成分があるからこうだからって説明する姿が格好良く見えたんだ」


変わらず目を閉じていても彼が嬉しそうなのは声でわかる。


「それで、この前、城を見にいくからって叔父さんに連れて行かれたんだけど、最初は何これ全然つまらないって思ってた。でも、その城の歴史を説明してもらって初めて面白いと思ったんだよね。だからこんな形なんだって」


遠くで車がクラクションを鳴らす。誰かの怒鳴り声が聞こえてきた。


「なんかそういうのが、勉強なのかなぁって思ったりした」

「…テストで100点とることじゃなくて?」

「うん。なんか、そうなのかなって俺は思った」


なんだか難しい話だと思った。

でも、いつか私もその気持ちを理解できるようになれば、学校でみんなと同じ机に座っていることも窮屈だと感じなくなるだろうか。


「でも、今はこうしているのが一番好きだから、これでいっかーって思ってるよ。まあ、もう少し静かだといいなとは思うけど」

「おじさん、すごく怒ってるね」

「うん。めちゃめちゃブチギレてるね。静かになるといいけど…」


遠くで響き渡る怒鳴り声に耳も閉じることができたらなとゆっくり目を閉じた。また開いて見た視線の先で、木陰に隠された私たちの歪な紋章が春の日差しにあてられている。

きっとそれは私たちがここを去るときに消されて、そんな絵を描いていたことすら誰も知らずに世界は終わる。だからこそ、その瞬間を大事に覚えておこうと強く思った。忘れたくないとさえ思う。


やがて遠くで聞こえる怒鳴り声が静かになると、一台の車がブーンと遠ざかっていった。午後の授業はみんな、眠たいからか発言率が少なく教室から聞こえてくる声は少ない。

想像していた森のように静寂が纏うこの世界で、私と彼の呼吸音はひどく大きく聞こえた。


ずっとこうだったら素敵なのにと願ってそっとまた目を閉じる。

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