第5話 乙女に吹きし漫風

子供の頃、魔法少女やヒーローものに憧れた人は多いだろう。私もそういった子供の一人だった。ヒラヒラのスカートに長いヒールをカツカツと鳴らして戦う彼女たちがとっても素敵に見えていたからだ。

いつか私もああいう風な学生生活を送るんだって、恋して、愛して、友達と騒いでって幻想を抱いたりして。

今でも長いヒールの靴を履くと背をピンと伸ばしたくなる。あの頃見た少女漫画の主人公たちはみな、とっても姿勢が綺麗だったから、真似をすると強くなれたような気がした。

でも、大人の階段を登るにつれて視線は段々と地面に下っていった。


そうなったとき、人は空に星が瞬いていることも、月が此方を見ていることも、忘れてしまっているのである。


……。


授業中など人気が少ない時間帯の場合、校舎裏に行くのは簡単だったが、昼休みの真っ最中にランドセルを持って行くのはとても難しいことだった。


三年生校舎と五年生校舎は真反対とはいかずとも距離が離れている。


三年生の校舎裏からぐるりと回って行くこともできたけれど、そうするには人目の多い講堂の入り口か3つある水飲み場のうちのひとつの前を通る、という選択をしなければいけなかった。

勿論これも授業中であれば誰もいない最高の入り口だったのだが、休み時間になると常に人がいて通れるような状態ではなかった。


三年生校舎と五年生校舎は2階が繋がっていたりするわけでもない。五年生の階段横から校舎裏に行くルートが一番安全なのだが、それには一度下に降りて校庭沿いの廊下を渡り、四年生校舎の一階、保健室の前を通り過ぎて行く必要があった。

私のことをわざわざ見ている人が沢山いるわけではないけれど、偶然見かけたからと先生たちに通告する輩がいないわけじゃない。特に今はランドセルを背中に背負っているので他の人から見れば目立つ存在に違いなかった。


見つからないよう、慎重に。


そうして息を殺して周りを警戒し歩いていたというのに…保健室の前に差し掛かったときだ。偶然にも例の隣席に座っていた少年がそこに立っていた。


「あれ、田口ほんとうに来たんだ」


驚いた様子でこちらを見ている。


「……貴方は?」

「俺?さっき、転んじゃって!一緒に保健室入ろうぜ!」



最悪だ。



思わず声に出してしまいそうになり、慌てて口を一文字にキュッと結ぶ。

焦らず時間をおいてから来るべきだったと早々に後悔をした。


給食を配り終えた後、計画通り自分でカレーの量を減らすことができたのだが、どう足掻いても食べ盛りの男子達とスピードで勝てるわけもなく、食べ終わる頃には校庭から大勢のはしゃぐ声が教室の窓に飛び込んでくる状態だった。

勿論、5時間目の授業が始まるギリギリまで別の場所に身を潜め、人目が少なくなった頃に飛び出して行く方法もあったのだが…何故か心が早く行きたいと騒いでジッとしていられなかった。


一秒でも早く彼に会いたかった。


「あ、ごめん。私、教室に忘れ物しちゃった」

「へ?」


一度、戻るフリをしよう。

彼が保健室に入っていく音をゆっくり聞いてから、振り返ってまた前を通り過ぎればいい。


「ハンカチ。無いと困るから」

「えー!そんなのスカートで拭けばいいじゃん」

「お母さん、そういうことすると怒る人だから」

「バレないって!」

「ダメダメ。お母さんほんとうに厳しいの。それにほら、膝から血が出てる。早く保健室に行かなきゃ」

「あー…こんなの洗えばいいし!俺も一緒に教室まで取りに行ってやるよ」


なんでそうなった。


苛立ちからギュッと拳を握りしめる。冷静に対応すれば素直に行くと思っていたのに、という気持ちと校庭から聞こえる沢山の騒音が怒りを増幅させた。


そもそも彼という人間と私の接点は偶然にも一年からこの三年になるまで同じクラスだったということだけで、2人で話したことは今日の給食まで一度たりともない。

強いていうなら何度か隣の席になり、遠足などのグループ分けで一緒に行動したくらいで、他の女子たちとも縁が無いというのに、男の彼とどうやったら仲良くできるのか。


「あの、ほんとうに大丈夫」

「いいって。保健室のせんせー、よく怪我するからしっかりしなさいって怒るんだよねー。田口さんいたら優しくしてくれそうだし?」

「いや、あの、貴方は急いだほうがいいと思うし」

「これくらいの怪我、よくやるから大丈夫だって。女の子たちがうるさいから来ただけだし」


ならさっさと校庭に戻れ、と言いかけてグッと堪える。

ここで怒鳴り合いの喧嘩をしても私に何のメリットもない。

彼を速やかに保健室へ入れること。それを重要とすべき。


落ち着いて。落ち着いて。


「ほら、田口さんも」


落ち着こうと深呼吸を繰り返す私に気付くこともなく、彼は笑顔のままコチラに手を伸ばして私の腕を掴もうとした。それは一瞬の出来事だったけれど、あの時の私には映画のワンシーンのようにゆっくりと動いて見えた。


それは銃弾で射抜かれるように。


じわじわと此方に向かってくるその腕を振り払えと叫び出す心。

そうしたら彼の逆鱗に触れるのではないかと危険信号を鳴らす脳。


一瞬で最良の選択肢を選ぶのは難しくパニックの末、硬直した。


私の目に映る光景。

彼の手が私の腕を掴もうと大きく手をパーに広げた。


嗚呼もうダメだ


と諦めかけたとき、視界に影が入る。近づく手を薙ぎ払うもうひとつの白い手。


「男の子が無理矢理、女の子の手を掴むのよくないと思うけど」


声の主、もとい救世主の顔を見上げた。

にっこりと笑みを浮かべている彼に張り詰めていた緊張感が解けていくのを感じる。ギョッと驚いた隣席の男子が一歩、二歩とよろめいた。


「ひまちゃん。この前、借りた本を今、返したいんだけど、ついて来てもらってもいい?」

「ひまっ…」


彼が呼ぶ私の名に男子は唖然と口を開いたし、私も彼にその名前で呼ばれるのは初めてだった。でも、そんな些細なことを気にかける暇もなく嬉しくて嬉しくて飛び跳ねそうになった。

嗚呼、彼は私をこの場から助け出そうと嘘をついてくれているのだ。嬉しくてありがとうと伝えたかったけれど、我慢して私は首を縦に振るだけに留めた。


私の返事に彼はまた笑って頷くと、男子の方を向いてこう言う。


「じゃあ、ひまちゃん借りてくね」


彼は私に手を差し伸べた。それは無理矢理、腕を掴むものではなく、ただ私の目の前に差し出されただけ。

それがどれだけ心地のいいものか、魚のように口をパクパクさせている彼には一生、わからないだろう。私は彼の手に自分の手を重ねる。


そして、そのまま引っ張られるように連れて行かれる私は少年を通り越し五年生校舎の方へと行く。

呆然とこちらを見ていた彼だが、もうすっかり距離が離れた頃に何か喚いているのが聞こえた。私は何をいっているのか後ろを確認しようと振り向きかけたのだが。


「…見なくていいよ。なんか怒ってるだけだから」


彼の言葉にすぐ、首をぐるりと前に戻した。

そうだ、彼のことを気にかける必要はない。

私は繋いだ手に笑みが抑え切れずふふふと笑った。


五年生校舎の階段はよく使われてはいるが、実際、使われるのは休み時間に校庭へ出入りする数分のみで、ここに留まる人は少ない。

講堂や保健室などはいつでも人の出入りが激しいが、五年生校舎の一階は理科室と理科準備室。理科の授業で実験を行うのは五年生と六年生だけで、その実験すら行われるのは稀だ。

埃をかぶった窓ガラスが中の様子すら映し出さず、その薄気味悪さをさらに演出させるような二年生校舎の影が日中も太陽の光を遮って年中薄暗かった。気味悪がいと評判のその場所は先生たちも足早に通り抜けたがるほどで、いつも嫌われていた。

生憎、私はその静けさがとても好きだったけれど。


そんな理科室前まで来るとさすがに人の目も届かなくなり、彼はいつものように私の名を呼ぶ。


「ルーナ。男の子にモテモテなんだね」


クスクスと笑う彼にジロリと視線を投げた。


「違うよ。他の女の子たちに飽きてちょっかい出しにきただけだと思う。現に彼とまともに話をしたのはさっきが初めてだもん」

「どうだろう。お兄ちゃんは心配だなぁ」

「お兄ちゃん!?」

「可愛い妹が変な男に手を出されないか心配だよ」


わざとらしく泣き真似をする彼に最初はこれでもかと口を開いたが、自然と次は笑っていた。私が笑っているのを見て彼も笑い出す。

繋いだ手はギュッと握りしめたまま。


「心配されるほど弱くないから!」

「えー?ほんとかなぁ」

「ねぇ、それより次はどこに行く?」

「ちょうど、給食を食べながら考えてたところなんだ。森の奥なんてどう?」

「森の奥かぁ」


彼の一歩と私の一歩は違いすぎる。三つも歳が離れていたら、足の長さも違う。当たり前の出来事だった。ゆっくりと歩みを進める彼に駆けるようについていく。だが、不思議と足取りは軽く、私の長い髪は左右に踊るよう揺れていた。


「5時間目も授業抜け出して大丈夫?」

「うん。大丈夫」

「6時間目は?」

「今日はないの。だからそのまま帰れるよ」

「じゃあ、いっぱい旅に出れるね」

「うん!」

「よーし、森に行くにはどうやって行こうかなぁ」

「馬に乗りたい!」

「馬に二人乗りかぁ」

「え、バラバラに乗らないの?」

「え、ルーナ、馬の操縦できる?」

「…できない…」

「じゃあ、大人しく俺の前に座ってね」

「自転車みたいに後ろじゃないの?」

「馬は前なんだよ」

「ふーん」


春の空に漫風そぞろかぜ


次に行く森も優しい風が吹いているだろうか。私はほんの少しだけ目を閉じて、またゆっくりと目蓋を開く。

見上げると彼もまた此方を見ていたので、互いに目を合わせてシシシッと笑った。


ジワリと胸の奥が温かくなっていくこの現象を私は幸せだと呼んだ。

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