第4話 灰鼠の教室

幼い頃過ごした学校というものを大人になってから見ると随分小さな世界だったんだと知る。大きく感じていた机や椅子、掃除道具だって大人の目線から見るとなんて小さい物だったんだろうと思う。


全て輝いて見えた記憶のなかの世界と実際に訪れて見た景色。

それは実際、異なるもので、記憶のなかで輝くその場所に行くことを、私は永遠とわにできないとそのとき知った。


私たちがいなくなった場所で笑う子供たちも大きくなったとき、私と同じ思いを抱くのだろうか。

それとも、やはり変わってないと笑うのだろうか。


……。


走って戻った教室で私を待っていたのは鬼のような形相をして此方を睨み付ける先生だった。その恐ろしさに最初は思わずギョッとしたが、すぐにそっぽを向いて給食の用意を始める。

給食当番ではないのだから、机を動かすだけの簡単な仕事。


「田口さん」

「はい」


私が視線を無視したからだろう。ゆっくりと近づいてきた先生の声は怒りを孕んでいた。


「どこに行ってたの」

「別に」

「授業には戻ってくると思ってたのに、帰ってこないから…先生、心配しただろ?保健室に行ってたのか?それとも別のところに隠れてたのか?」


本当に心配している大人はそんなことを聞きはしない。

保健室にいるか否かは教室に備え付けられた電話ですぐに聞けたはずだし、私がずっといた場所は簡単に見つかるような場所だ。


本当に心配している人間なら、が大前提だけど。


「トイレにいました。お腹が痛くて」

「本当に?」

「はい」


私の答えに男子たちがクスクスと笑う。


腹が痛かったんだって

うんこちゃんじゃん

きったねー


とか、くだらない。

そちらを一度ギロリと睨み付けると彼らは慌てた様子で視線を逸らした。その姿すら腹立たしくてやっぱり教室は嫌いだと改めて思う。

ハッキリ本人に言えない悪口なら、最初から言わないほうがいいに決まっている。小心者のくせに口だけは一丁前なのだから、子供というものは心底嫌いだ。


そんな私の思いにも気づかず先生は面倒くさそうに頭を掻いてこう続けた。


「とにかく、授業中に出ていく時は先生に行き先を伝えること。もしくはお友達に行く場所を伝えてから行ってね」


もう期待するわけがなかったけれど、改めて先生には酷く落胆した。


授業中に出ていくなとも言わず、ましてや何故外に出て行ったのか聞くことも、自身の言葉を振り返って反省することもない。

彼自身は「この孤独な少女を気にかけていてあげている優しい先生」を演じきっていると信じてやまない偽善者なのだ。それも説教するのはこれが初めて。出て行ったのはもう両の手で数えられないほどだったというのに。

今日は気分でもよかったのだろうか。


あほらしい。どうせ口だけの説教でしょ。


改めて彼のいうことなど聞くものかと強く決意していることにも気づかず、先生は私の頭をポンポンと撫でてそのまま廊下へと出て行った。ルーノに優しく撫でられた感覚が消えてしまいそうで汚れを払うように私は頭をわしゃわしゃと掻き毟る。

夢を見るように思い出した桜の木と彼の笑みにほんの僅かだが心が安らいでいくのを感じた。


ここで怒っちゃだめだよね。落ち着こう。


給食当番が列をなして「先生遅い」と口々に言っているのが聞こえる。

私はそれを背に深呼吸してから席に座ったのだが、私の怒りが再発するように今度は女子たちが私を囲った。


「ねえねえ田口さん、トイレってほんと?」

「ミオちゃん、途中でトイレ行ったけど誰もいなかったって言ってたよ」

「絶対ウソでしょ」


私は鼻から大きく息を吸うと嘘とともに息を吐き出す。


「別校舎のトイレを借りてたから」


その言葉に彼女たちは顔を見合わせまた口を開く。


「どこの校舎?」


どこでもいいでしょ、なんて返事をすればまた喚くのが目に見えていた。嘘をつくだけが正解ではない。必要なのは本当に居た場所がバレないことだけ。


「逆にどうして嘘だと思うの?」


私の答えに全員がまた顔を合わせた。すると、リーダー気取りの少女がニヤリと口角を上げていう。その表情はいつか見た少女漫画の悪役令嬢のよう。


「言えないってことはトイレじゃなかったんだー」


なるほど。揚げ足でも取れたつもりだろうか。嗤っちゃう。


私の心中など気にもせず彼女たちは顔を見合わせてクスクスと声をあげた。

漫画の中の悪役令嬢には常に取り巻きがいて、金魚の糞みたくくっついてはやまびこのように彼女の声を反復する、それがお決まりなわけだが。

先日見たその漫画はまるで今の状況を予想していたかのようにぴったりハマっていて、ある意味、漫画は現実に最も近いのかもしれないと思うほど。


「そっか!だから言わないんだ」

「わざわざギモン形で返してくるとかうざっ!」

「さっさと教えてくれればいいだけなのにね」

「いっつもどっかに行くとかサボリばっかでうらやましー」


いつもならここで私の忌諱に触れ、口論になってしまうところだが、あの日の私は違っていた。


彼との世界を守れるのなら、何を言われたっていい。


彼女たちは知らないのだ。

海の底に眠る古代都市の美しい姿と静けさを。彼女たちが授業中に笑ってくだらない話をしている間、私はこの世で最も美しい場所を訪れていた。


暖かい太陽を遮る木の葉の影で笑う彼の姿を思い出す。

それだけで全てのことを我慢できるような気がした。


かわいそう。小さな教室が全てだと思っているなんて。


そう思うと怒りを抑えることができた。

そう、彼女たちはかわいそうな人たちなのだ。私のような人間にいちいち構って、マウントを取らないと自我を保っていられない人たち。

とってもかわいそう。


「みんなは、すぐにお腹が痛くならない体でよかったね。羨ましい」


私がそういうと、彼女たちはギョッとした顔でこちらを見て黙ってしまった。いつも反論してばかりの私がそう言ったのだ。予想外の言葉に言い返せなかったのだろう。口を大きく開いたまま彼女たちが私を見つめている光景は、少し面白かった。

そのままずっと黙っていればもっと楽しいのに、なんて。


「先生、帰ってきちゃうよ。座ってたほうがいいんじゃないかな?」


笑いを堪えて微笑むだけに止める。

早くここから去らない彼女たちに念を押してそう言うと、ブツブツと文句は言っていたが大人しく席へと戻ってくれた。何人かが席についた途端、蛇のように睨みつけてきた。

けれど、私は視線を合わせることもなく気づかないフリをして出しっぱなしにしていた文房具をしまうことにした。いくつか芯が折れていた鉛筆は、私が知らない間に何度も机の下に落とされたらしい。

ふざけていた時に私の机にぶつかったか、わざと落としたのかの二択だ。

前者だと信じたい。


「田口さんさぁ、いつも気ぃ強いよね」


やっと静かな世界が戻ってきたと安堵していたのにまた新たな声。

普段、こちらに興味も示さず喋ることもなかった隣に座る男子の声。私はそちらを横目で見るとにっこりと笑顔で返してきた。


「なんか、女子たちがいろいろ言ってるの言い返しちゃう感じ?カッケーなって」


整った顔立ちの彼は運動に長けていて、女子たちの噂のマトだ。

モテているのを自覚している分、少女漫画で出てきそうな甘ったるい台詞ををわざと言ったり、今も自分自身が一番映えるポーズをわかっていますと言わんばかりに頬杖をついて首を傾げこちらにアピールしている。

差し詰め、自分のことを主人公とでも勘違いしているんだろう。


そういう人間が私は一番嫌いだ。


「それはどうも」


あっさりと返事を返してそちらに一瞥もくれずナフキンを広げた。私の反応に拍子抜けした顔で彼はジッとこちらを見ていた。

だが、興味もない私はそちらを見ることもなくナフキンのシワを伸ばしながら午後の授業をどう抜け出すかだけを考えていた。


給食の時間が終わって、昼休みになればほとんどのクラスメイトが校庭へ遊びに行くことだろう。上手くいけば、人目につくこともなく自然に裏門へと行くことができる。5時間目は算数。教科書で予習してきた場所だから授業を抜けたとしても何の問題もない。宿題が出たとしても明日の朝、早めに来れば数分で終わるレベルだろう。

必要なのは誰にもバレずに逃げることだけ。


なのに彼は私に容赦なく問いかけてきた。


「あのさ、昼休み、一緒にドッヂボールしようよ。今日は真ん中のコートを予約してるんだ。一緒のチームでさ。守ってあげるよ」

「結構です」

「もー照れ隠しはいいって…お姫様扱いしてあげるからさ」


今までずっと隣の席だったというのに喋りかけてくることもなければ、目を合わせたこともない彼を危険視したことは一度もなかった。

だが、こうも話しかけられると鬱陶しく絡んでくる女子たちより苛立ちが募る。


なぜ、今になって私と関わろうとしているのだろうか。

今まで、嫌味を言われていた私に目もくれず無視をしていたのはお前の方だというのに。


「お姫様抱っこしてあげようか?あ、それとも壁ドンがいい?顎クイ?」


彼という人間は普段から廊下の端に女の子たちを呼んでは少女漫画のようなそういった行為をしているのを私は知っているし、そのせいで惚れた腫れたと騒ぎ立てる女子たちを放課後、笑いながら馬鹿にしていることも私は知っていた。

阿呆らしいと思う行為も悪口も恋も愛も勝手にしてくれるのならなんだってやっていてくれて構わない。だけど、私を巻き込むのだけは論外だ。


「私、そういうのに興味ないの」

「なんで?」


私の質問に即答、呆れてため息が出る。

自分自身のすることは誰もが喜ぶとでも思っているのだろうか。阿呆らしい。

お姫様抱っこをされても、壁ドンをされても、顎クイしても、天変地異が起きて地面にヒビが入り、この世で彼と私、2人っきりの世界になったとしても、私が彼にときめくことは一生ない。その事実だけは永遠に変わらないと私は知っている。


「悪いけど、お昼休みはもう一度、保健室に行きたいから」


嘘というのは息を吐くようにするんだと祖母がよく言っていた。

一度、嘘をついたのならその嘘を貫き通し、利用するのだと。


「まだお腹痛いの?」

「そう」

「保健室まで連れてってあげようか?」

「大丈夫」

「ひとりで行くの大変だろ?」

「さっきもひとりで行けたから大丈夫。気にしないで」


ガチャガチャという食器の音が廊下から聞こえてくる。

そして、扉を開けて入ってきた先生と給食当番たちに生徒たちがわーっと喜びだした。匂いからしてカレーらしい。オーバーアクションで喜びを表す男子にそれを笑う女子の声。

さっさと食べて外に逃げる準備をしよう。ランドセルも持っていけば、今日は教室に戻らず家に帰れるかもしれない。


「あ、なるほど。人目につくところは嫌なんだ?」


聞こえてくる音を全てシャットダウンした。教科書は置いていってもバレないのは確認済み。ランドセルの中身は軽いほうがいいから文房具と今、渡されている宿題プリントだけを入れておこう。

空いてる隙間に水筒と体操着を詰め込めばランドセルひとつで済むはず。

最低限の荷物にするのは万が一、裏校門から逃げ出さなくてはならないとき、重くないほうが身軽に裏門を飛び越えられるから。


嗚呼、午後も彼は来てくれるだろうか。

一日に二度、あそこに訪れるのは初めてだから不安はあるけれど、来てくれてたらいいなとは思う。ひとりでいるこの教室はあまりにも汚れて見えたから。


「じゃあ、音楽室の前とかは?」


隣でさえずる人間の声が本当に煩い。


「先生、手伝います」

「え、あ」

「お、田口ありがとう。じゃあこれ頼んでいいか?」

「はい」


彼はちぇっと悪態を吐いた。

それ以上、声をかけてこなかったのは彼自身が手伝いをするようないい子ちゃんではなかったから。

私は先生からしゃもじを受け取るとにっこりと笑ってご飯をよそった。自分自身のは最後に盛ろう。バレない程度に量を減らしたいから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る